"つれづれ"カテゴリーの記事一覧
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カードゲームやボードゲームはこういった心理学上の間隙を突くことが必要でしょう。安価で内容が濃くオススメできます。
思考のトラップ
デイヴィッド・マクレイニー 著 ; 安原和見 訳
さまざまな認知バイアス、論理的誤謬、ヒューリスティック…人間は気づかぬうちに脳にダマされている!?奇妙な心のカラクリを解き明かす48の鋭い考察!
「BOOKデータベース」より
[目次]
- プライミング効果
- 作話
- 確証バイアス
- あと知恵バイアス
- テキサスの名射手の誤謬
- 先延ばし
- 正常性バイアス
- 内観
- 利用可能性ヒューリスティックス
- 傍観者効果
- ダニング=クルーガー効果
- アポフェニア
- ブランド忠誠心
- 権威に訴える論証
- 無知に訴える論証
- わら人形論法
- 人身攻撃の誤謬
- 公正世界仮説
- 公共財供給ゲーム
- 最後通牒ゲーム
- 主観的評価
- カルトの洗脳
- 集団思考
- 超正常刺激
- 感情ヒューリスティック
- ダンバー数
- 魂を売る(セルアウト)
- 自己奉仕バイアス
- スポットライト効果
- 第三者効果
- カタルシス
- 誤情報効果
- 同調
- 消去抵抗(消去バースト)
- 社会的手抜き
- 透明性の錯覚
- 学習生無力感
- 身体化された認知
- アンカー効果
- 注意
- セルフ・ハンディキャッピング
- 自己成就予言
- 瞬間の自己
- 一貫性バイアス
- 代表性ヒューリスティック
- 予断
- コントロールの錯覚
- 根本的な帰属の誤り
「BOOKデータベース」より
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河上正秀(しょうしゅう)先生の退官記念講演に行ってきました。
<間>と<対>の問題に至る実存からの出発の経緯をお話し頂きました。
退官記念講演というのは今年から始まった行事だそうです。
<間>というのは関係の抽象化で、<対>は対峙の抽象化として、前置きした上で、河上先生の身上もお話しくださいました。
河上先生は北陸から東京教育大教育学部教育学科に入学し、文学部に移り、卒業しても職はないと言われながらも、卒業し、修士課程に進んだときに学生運動の時代に突入し、大学が授業できなくなったそうです。
そのころあちらこちらの大学を擁する文京区は学生運動の大火に見舞われたそうです。
その後、東京大学大学院に進み、修士をおさめ、ドクターをおさめた。
研究は、キルケゴールの「単独者」の概念に興味を持ったことからはじまり、当時の学生にはニーチェの「超人」という19世紀の思想から、20世紀のサルトルが流行ったそうです。
ドイツの実存主義に興味は向かい、20世紀の前期ハイデガー、後期ハイデガーと辿り、ハイデガーのナチズムの暴露本「ハイデガーとナチズム」にショックを受け、ドイツ哲学は滅びるかと思われた。技術とナチズムの結合はドイツだけの問題ではなくどこの国にも生じうる。これは注意しなければならない。
東西ドイツの統一の頃、3Kという言葉が流行る。このころには熱気盛んな哲学議論が学生同士で行なわれることもなくなり、男子学生の白くて艶めかしい手(笑)が見られたとき、時節の転機を感じた。
今ではもっと若い世代では突き放すような友情関係は成り立たず、恋愛関係ではそれ以上に優しく接するようになった。
それはエゴノセントリズム「一人称化」と弁証法的に対になって出てくる「他者」(レヴィナスなど)との関係の重視で、かつてマス(大衆)から出た主体が論じられた文脈での行き過ぎだろうと。
<間>をどんどん技術化し、「一人称化」がすすみ、テレビ、スマホ、インターネット、ナビや、車社会、情報社会が拡張してくると、「ユートピア(utopia)」は「無い世界」という意味に変容する。
「単独者」や「主体性」は風化し、生の実感が喪失する。
パロールとエクリチュールの古代からの問題も底流にある。
以上が、実存主義を研究してきた河上先生の講演のおおよその内容です。
ホイジンガやカイヨワの遊戯論から、僕のような生臭哲学徒は、ちょうど講演のなかで触れられた、車と車同士のコミュニケーションが遊戯の世界に進出してきていると言えると思いました。
(ホイジンガのように遊戯を文化として捉える考えもありますが、文化の場合、とくに芸術は西村清和の主張の通り、表現の鍛錬から来る発露ですから、遊戯と芸術は僕は区別します)
テレビゲームによって、相手の顔を見ないゲームがより普及しました。チェスの試合を新聞広告によってやり取りするようなことが、テレビゲームではごく当然になっています。
本来遊戯というものは相手の表情に笑顔があることを信じて行なわれるものなので、<対>が、対峙が原則です。
とくにTRPGの場合、オンラインでプレイするようなときには、Skypeのような、顔や声色から相手の感情が推し量れることなしには、全く別の、つまり、イリンクスの仮面を挟んだ間接的なコミュニケーションになります。
TRPGではもともとプレイヤーキャラクターという仮面の上に、さらにプレイヤーとしての仮面を付けることになってしまうのです。
これはオンラインを問わず、実際に対峙し、TRPGプレイサークルのメンバーとしての仮面を付けていても同じことが言えるでしょう。
胸襟を開かないか、自分のことに触れないのは匿名のペルソナ(仮面)を付けていることと同じです。
我々は、車の運転手同士が互いの表情を見ないで往来するように、互いに互いを対峙させようとせず、ゲーム、ルールやシナリオの本質といういわば、関係性の技術に頼って、遊戯をしようとしているのでしょうか。
否、車やルートを変えるように、ゲーム、<間>を変えて何の解決になりますか。
TRPGのゲームの本質は決断では成立しません。
アローの不可能性定理は、二人以上の社会で3つ以上の選択肢がある場合、社会的選択の成立は難しいと数学的に証明しました。
素朴なサイレントのゲーム理論の個人的な意志決定や葛藤、問題解決はTRPGのゲームの本質とは無関係です。
もしそういうセッションならばこれは数学的独裁者が主要になった一つのジャンルに過ぎないのです。 手を変え品を変えても飽きられたり、トラブルが起きるのは、まずもともとの遊戯の関係が失敗しているのです。
オイゲン・フィンクや西村清和の論じるような遊戯の本質には、互いの笑顔の存在を信じた関係があり、それは現世の生死や研鑽とは隔絶した、魂の永遠性を信じることができるような所在、ユートピアがあると想定します。
そのユートピアを感じ信じることができる人たちにのみ、遊戯は開かれているのです。
一人称に閉じこもり、ペルソナをもってしか対峙できない非単独者・非主体には、遊戯を担うことは許されないのです。
単独者・主体の対峙の度合いこそが、遊戯の均衡です。
シーソー遊びに釣り合う関係のように、遊戯を互いに楽しむ関係としてそれこそが必要なことではないかと思います。
この均衡は遊戯の関係に自分の利害関係である商売を持ち込まれることでも崩壊する説明にもなるでしょう。 -
スタッフ参加してきました。日本最大のミリタリ・トイ・イベントです。
今回の情報はハートフォードさんのプロトタイプの発表がこっそり行なわれていたことです。スタール開発着手は、こちらで触れていました。
クリント・イーストウッド最後の西部劇、「許されざる者」のウィリアム・マニー(クリント・イーストウッド)が、試し打ちしてさっぱり当たらなかったあの拳銃、スタールDAリボルバーが、モデルガンとして出るそうです。
ハートフォードさんによると、メカニズムは、DA(ダブルアクション)のトリガーの引き代の最後にさらなる本当のトリガーがあります。
トリガーの後ろのスライド?・スイッチによって、フルコックにしたあとに、ハンマーを落とすSA(シングル・アクション)か、DAとして作動させるかをセレクトできるシステムだそうです。
DAでは、リボルバーのシリンダーを回すだけの力が要りますが、引き金を絞るだけの単調な動作なので速射できます。
SA状態では力を必要としないので、精密な射撃ができます。
DA草創期の時代のシステムで、パテント(特許)がとられていました。DAはこのパテントでしばらく足止めを食らって進化しなかったと読んだ(うろ)覚えがあります。
SA状態にサミング(ハンマーを親指で起こすこと)をしないで行なう面白いメカニズムで、実際に採寸するとメートル法の規格でつくられていて、インチやフィートでは設計されていなかったのだそうです。ヨーロッパの技師が設計したのだろうと思ったそうです。
ファニング(扇撃ち)は構造上できないとわかりました。
30,000en前後になるかとのことです。
やはり、雨の中、酒を飲まず、酒場で、女を抱かず、仲間を逃がし、銃を持っていないと言い訳し、弾は入っていない、火薬が湿気るから、と、仲間を逃がすためボコボコに蹴り飛ばされるための根性の銃です。
ただ、スタールDAリバルバーはいろいろなバリエーションがあります。今回のものは、「許されざる者」に登場したタイプだということだと僕は解釈しています。
クリント・イーストウッドは、ファストドロウ・シューティング(早撃ち)のコンテストに参加する本当のガンマンで、ハリウッドの俳優さん達の中では、現在一番一緒に映画で組みたいという最高の大御所です。
「今まで動物たちをいじめてきたから、オレにさんざん仕返しをしているんだ」スタールを提げて馬に乗るとき、こんな台詞があったと思います。
YouTubeにWesternUnionゆかりの故淀川長治先生の動画解説がありました。最近はこういった解説者抜きでただ映画を垂れ流す造りになってしまっているので、結果、TVでわざわざ映画をお茶の間で家族と観るというスタイルがなくなってしまいました。
家族それぞれにHDDの容量を奪い合って、コンテンツを消し合ったり、宅配レンタルショップに、家族と全く共有しないコンテンツを借りるとか。コンテンツの内需が不況になった原因は、こうした肩手落ちもあるかと思います。
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D6が二個の組合せ
1 2 3 4 5 6 1 1∧1 1∧2 1∧3 1∧4 1∧5 1∧6 2 2∧1 2∧2 2∧3 2∧4 2∧5 2∧6 3 3∧1 3∧2 3∧3 3∧4 3∧5 3∧6 4 4∧1 4∧2 4∧3 4∧4 4∧5 4∧6 5 5∧1 5∧2 5∧3 5∧4 5∧5 5∧6 6 6∧1 6∧2 6∧3 6∧4 6∧5 6∧6
D10が二個の組合せ1 2 3 4 5 1 1∧1 1∧2 1∧3 1∧4 1∧5 2 2∧1 2∧2 2∧3 2∧4 2∧5 3 3∧1 3∧2 3∧3 3∧4 3∧5 4 4∧1 4∧2 4∧3 4∧4 4∧5 5 5∧1 5∧2 5∧3 5∧4 5∧5 6 6∧1 6∧2 6∧3 6∧4 6∧5 7 7∧1 7∧2 7∧3 7∧4 7∧5 8 8∧1 8∧2 8∧3 8∧4 8∧5 9 9∧1 9∧2 9∧3 9∧4 9∧5 10 10∧1 10∧2 10∧3 10∧4 10∧5 6 7 8 9 10 1 1∧6 1∧7 1∧8 1∧9 1∧10 2 2∧6 2∧7 2∧8 2∧9 2∧10 3 3∧6 3∧7 3∧8 3∧9 3∧10 4 4∧6 4∧7 4∧8 4∧9 4∧10 5 5∧6 5∧7 5∧8 5∧9 5∧10 6 6∧6 6∧7 6∧8 6∧9 6∧10 7 7∧6 7∧7 7∧8 7∧9 7∧10 8 8∧6 8∧7 8∧8 8∧9 8∧10 9 9∧6 9∧7 9∧8 9∧9 9∧10 10 10∧6 10∧7 10∧8 10∧9 10∧10
サイコロが二個程度では正規分布に近くなるとは言えません。一般に正規乱数が得られるのは、D10を9~11個振る必要があるとされています。
ボックス-ミュラー法という方法で、一様分布から正規乱数を得ることもできます。 -
ゲーム研究と「ナラティブ」 - 9bit
僕のナラティブ(口承物語)論でゲームを意識すると、研究方面ではこちらのような本になります。
民間説話 : 世界の昔話とその分類
スティス・トンプソン [著] ; 荒木博之, 石原綏代 訳
最も権威ある昔話の話型索引(AT分類)およびモチーフ索引の編者として名高い著者が、みずからの分類に込められた理念と方法論を、わかりやすい全体の見取り図とともに語り尽くした古典的名著の邦訳、待望の復刊。
「BOOKデータベース」より
[目次]
- 第1部 民間説話の性格と形態(民間説話の普遍性
- 民間説話の形式)
- 第2部 アイルランドからインドまでの民間説話(アイルランドからインドまで-その民族と国々
- 複合昔話 ほか)
- 第3部 未開文化における説話-北米インディアン(北米インディアンの説話
- 創造神話 ほか)
- 第4部 民間説話の研究(民間説話の理論
- 民間説話研究の国際的組織 ほか)
「BOOKデータベース」より
ナラティブはもともとこうした意味合いです。ナラティブ・セラピーとか。エビデンスとか。いわゆる語りきかせのことで、ゲーム体験のこととも違い、ストーリーとは別のモノらしい。言葉の混乱が発生しているようです。
ゲーム独自の楽しさの味わい以上の意味があるのか、よくわかりません。ゴッド・イーターやモンスターハンターなどのユーザーの交流の余地があることが、ファイナルファンタジーのような攻略本を片手に一人遊びするタイプの旧来のシリーズとは違うことを指摘したいのでしょうか。MMO化はナラティブという概念とはかけ離れます。
どちらかというとTRPGのマスタリングやシナリオ準備のテクニックとは近いのかも知れないですが、どうやら言葉が混乱しているようで面食らいました。
GMをナレーターと呼ぶTRPGもあります。TRPGはデザイナーとGMとPLという役割分担があるので、ゲームとしては独特かも知れません。
ナラティブ論は神話学の系譜にもなります。ナラティブ論は、神話学に重きをおいているようです。構造主義が僕の記憶では成果を上げたと理解しています。
ナラティブに功を奏した構造主義が、ゲーム評価に分析ツールとして使えるとは思えません。自己の属する文化集団や人類の共通性をひねり出すことと(一般や普遍)、味わい深いゲームをつくったり体験させようという試み(特殊や単独)は方向性が違います。
ドゥルーズなどポスト構造主義者が重視した差異の視点から、ゲームビジネス的な一般や普遍を獲得しようというのは全く方向が違います。
神話学とは何か : もう一つの知の世界
吉田敦彦, 松村一男 著
科学偏重の社会に生きて、私たちは神話を未開の人々の、荒唐無稽な「虚偽の話」と考えてきた。しかし、神話は、宇宙はどうしてできたのか、人間はどこからやってきたのか、文化はどのように手に入れられたのか、これらの問いに、すばらしく、輝かしいイメージをくりひろげて答える人類の思索の結晶である。近代合理主義の枠を脱し、私たちを最も新しい「もう一つの知の世界」に誘う珠玉の入門書。
「BOOKデータベース」より
[目次]
- 第1章 神話とは何か
- 第2章 神話学の現在(ユングと深層心理学
- イェンゼンと現代歴史民族学派
- デュメジルと「新比較神話学」
- レヴィ・ストロースと神話の構造分析)
- 第3章 日本神話の解明(縄文期土偶の教えるもの
- ユーラシア文明よりの光)
- 第4章 神話研究の歩み(古典時代
- 神話学の誕生-19世紀後半
- 20世紀前半)
「BOOKデータベース」より
こちらが入門書として適していると思います。
前回紹介させていただいた[Design]ルールズ・オブ・プレイにも違う意味で載っているようで、混乱します。
先に紹介したページで、90年代後半の一種のバズワード(曖昧な流行語)となっていたとの説明があります。きっちり定義できないならば、学際的な領域に持ち込む用語としては適切ではないと思います。
と、思っていたら、第四世代TRPG:(・_・) 紙魚砂日記さんの紹介する解説文がここにありました。メンタルモデルなど、心理学方面からのアプローチのようです。よくわからないので紹介されている翻訳書を当たってみます。
Kawaz - CEDEC2013 「ナラティブ」はここにある! 国産ゲームに見るナラティブとは?(実際に作ってみた)
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動画作成のための使用機材は、CASIO EX-FH25という高いおもちゃカメラを愛用しています。ハイスピード動画撮影とスピード連写が出来ます。連写の時はストロボも連写にあわせて点滅します。
コンデジかネオデジか区別が出来ませんが、単三電池四本か、単三充電池で動きます。メインのSDカードはパナソニックSDHCカードクラス4です。
楽天では、
SDHCカードは1/10位の値段になっています。
音声は動画を高画質で撮ったり、ハイスピードで撮ったりとか、モノラルがきついので別録りです。
TASCAM DR-05でWAV24bitで録ります。microSDHC32GBです。こちらは、単三電池ニ本か、単三充電池で動きます。
指向性があまりないので、TRPGのセッション録音に使います。プロの方に渡すとき音声素材がmp3だと困るそうです。
使用ソフトはAVS4YOUで、アクティベーションしています。
このAVS Video Editorはトランジション挿入が気軽に出来てよく使います。
もう一つAdobeCreativeCloudで以前CS5MasterCollectionを持っていましたので、月額3000enでCS6を使っています。
音声加工はAdobe Audition CS6です。気軽に調整するときはAdobe Soundbooth CS5です。
Adobe After Effects CS6、Adobe Premiere Pro CS6などをよく使います。Adobe After Effects CS6は特に逆光補正に使えます。
Flashは動画に差し込めるので勉強中です。
あとは、常識的に、Adobe Photoshop CS6 (64 Bit) 、Adobe Illustrator CS6 (64 Bit)は静止画像の加工や画像トレースに使います。よくこのソフトで葬儀の遺影の加工などをされると、三万円から五万円請求されます。
製本用にAdobe InDesign CS6、Adobe Acrobat XI Pro、ホームページ作成には、Adobe Dreamweaver CS6がメインですが、クセが強いので、ホームページ・ビルダー17 ビジネスパック(素材集が多い)を使ったりもします。
買いきりならセットになっているAdobe Creative Suite 6 Master Collection Windows版がおすすめです。
独学で、覚えることが多すぎてほどほどにしか使えていませんが。
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ウィトゲンシュタインのゲーム定義
家族的類似
Wikipediaより
#引用開始#
(中略)「ゲーム」と呼ばれている全ての外延(対象)を特徴づけるような共通の内包(意義)は存在せず、実際には「勝敗が定まること」や「娯楽性」など部分的に共通する特徴によって全体が緩くつながっているに過ぎないことを指摘し、これを家族的類似と名付けた。
#引用ここまで#
死後、フッサールの門下でハイデガーにも現象学を学んだオイゲン・フィンクは、「遊戯の存在論――幸福のオアシス」で、ウィトゲンシュタインが見つけられなかった(ごめんなさい、ウィトゲンシュタイン研究の先輩)、共通の内包(意義)の存在を見つけ出しています。
#引用開始#
遊戯にたずさわる人間は、現実の世界で一定の、それぞれの型で知られている行為を遂行する。だが遊戯の内的な意味連関においては、かれはある役を引き受けているのである。そしてここで、「遊ぶ」現実の人間と、遊戯内部での一定の役の人間とを区別しなければならない。遊戯者はかれの「役」によって自己自身を「被う」。いわば、かれはそのなかに没入する。
#引用ここまで# 「遊戯の存在論――幸福のオアシス」オイゲン・フィンク
つまり、人間は役割を遊びの世界では、現実の世界とは別に、「演じて」いると指摘しています。
これは、TRPGのことばかりではなく、「いないいないばあ」「シーソー遊び」「サッカー」「コケットリのゲーム」などなど、すべてに言えてしまうのです。
遊びばかりではなく、「われわれは真面目を演じ、真正を演ずる。現実性を演じ、労働と闘争を演じ、愛と死を演ずる。そしてわれわれは、遊戯をさえ演ずるのである。」
フィンクは、ハイデガーの道具的存在論とは違う切り口を見せています。
ロールプレイの翻訳語を役割分担だとか、突っ走った感情論にすぎませんでした。こちらが、サッカーのポジションの説明にもなってしまうと説明しても、このブログにコメントを寄こしてくださった方には、無駄でした。
では、ロールプレイとは何でしょう。
ロールプレイは、他の人々の立場やパーソナリティという点から「憶測し直すこと(Second-guessing)」が特徴で、他のゲームとの大きな違いです。
TVで見ただけの仮面ライダーを模倣し、演じる。子供から見たお母さんを模倣し演じる。これは、ロールプレイではなく、仮面をつけた単純なミミクリです。
キャラクターのデータや背景がリストアップされて、その立場やパーソナリティという点から憶測し直すことです。
これが、ロールプレイです。
たとえば、仮面ライダーやお母さんのデータや背景をリストアップして、立場やパーソナリティという点から憶測し直す。
同じく、心理療法では過去の事実や思い出をリストアップして、自分や他人の立場やパーソナリティという点から憶測し直す。
ですから、ロールプレイは再演性が評価されます。単純なごっこ遊びは、よく模倣されていることが評価されます。再現性です。マンガの台詞を暗記したことを発表する人はロールプレイとは違う遊びをしているのです。
なりきりプレイを求めようとする人は、ロールプレイでのリアリティ、つまり現実らしく見せることの追求で、場の臨場感をシェアさせるためのものです。
これらの、遊びをまじめに取り組むことはTRPGでの「遊びの善」です。
誤解されないように書いておきますが、なりきりプレイといっても、知性が最低の能力値で、シャーロック・ホームズはやれません。なり茶となりきりプレイのちがいの一つです。
ちなみに、個人的にキャラクターをなりきりプレイするのは、不得意です。上手なプレイヤーのキャラクターと兄弟であるとか、思いつきがうまく回った持ちネタなどに、紐づけられないと僕はうまく演じることができません。
#引用開始#
遊戯世界は想像的次元にあり、その存在意味はまだ解明されていない、困難な問題を提示している。(中略)惑わされる点は、われわれが、この遊戯世界の事物それ自身を「現実的な物」として、想像的に把握し、それどころかさらに、現実性と仮象のの区別がそのなかで幾重にも繰り返されうるという事実である。
#引用ここまで# 「遊戯の存在論――幸福のオアシス」オイゲン・フィンク
このことは、「アリアンロッド2E 上級ルール」にもあります。ガイダンス・セクションに優れた卓見がありますが、同じ陥穽に落ちています。
#引用開始#
つまり、プレイヤーは『AR2E』と総称されるゲームとしてプレイヤー間のコミュニケーションゲームとキャラクターとしてのファンタジーゲームを同時に楽しんでいる。いわば多重の入れ子構造を持っているのだ。こういった入れ子構造のゲームを“メタゲーム”と呼ぶ。
“メタゲーム”は何もTRPGに限定された要素ではない。多くのゲームには“メタゲーム”は存在する。これは参加するプレイヤーが人間で、人間として“コミュニケーション”が行える以上、当然発生するものなのだ。
#引用ここまで# 「アリアンロッド2E 上級ルール」菊池たけし/F.E.A.R.
フィンクの落ち込む仮象論も、『AR2E』の菊池たけし先生のコミュニケーションゲーム、メタゲームも、不当な二重性に陥っています。
GameDesign 西部劇TRPG開発日誌 [TRPG]「遊びの現象学」を読んで。
汗水垂らして汚れながら仕事をする、病の強烈な痛みと闘う、真面目に信頼を築くコミュニケーションをする、それらをゲームとよべるのは、人生の企てにおける遇運の神との勝負としてだけです。
遊びの僥倖に喜び真面目に遊ぶことと、現実の世界は全く違います。
遊びは規則に従いその規則は改めることができます。
現実は法則に従い、改めることはできません。
人間関係の規則を改めてコミュニケーションし直すことはできません。人間関係の規則は、遊びの規則とは違って、変えようがない現実の法則です。人間関係は現実の法則に従うのです。
ですから、遊戯の関係を成り立たせるコミュニケーションは現実のもので、遊びではありません。
ひどい中傷をされて悲しんだり怒ることを、人間関係の規則を変えて、笑ったり喜んだりすることにはできません。たとえば、ゴールデンルールでそういうことにしても、呆れられてさっさと帰られるだけです。
ゲームを遊びという文脈で用いて、現実のコミュニケーションもゲームと表現することは、サルトルと同じです。
遊ぼうとする遊びや遊び方を話題にしたコミュニケーションは、メタゲームではありません。単なるコミュニケーションです。
ゲームを遊ぶことで行われるのはコミュニケーションゲームではありません。これも、単なるコミュニケーションです。遊びは、人間や物との関係が成立した上で行われるコミュニケーションです。
遊びがコミュニケーションの一つである以上、仮象や入れ子構造はありません。不当な二重性で遊び手を一種の精神分裂としたフィンクと同じ誤りです。
フィンクは、自分自身や著作を、遊び演じている、精神分裂を起こしていると自己批判する誤りを犯しています。ドイツ敗戦と戦争犯罪への叱責の方便がそうさせるのかもしれませんが。
ゲームのことを考えたり、考えを述べたり、作ったりすることは遊びではありません。現実のことであって、真面目な取り組みです。
先生たちにお会いして、ものすごい仕事量を見て、楽しい文化を創られてきたことに、感謝します。