忍者ブログ

GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

[つれづれ]「遊戯の存在論――幸福のオアシス」を読んで。

ウィトゲンシュタインのゲーム定義


家族的類似

Wikipediaより



#引用開始#

(中略)「ゲーム」と呼ばれている全ての外延(対象)を特徴づけるような共通の内包(意義)は存在せず、実際には「勝敗が定まること」や「娯楽性」など部分的に共通する特徴によって全体が緩くつながっているに過ぎないことを指摘し、これを家族的類似と名付けた。

#引用ここまで#


 死後、フッサールの門下でハイデガーにも現象学を学んだオイゲン・フィンクは、「遊戯の存在論――幸福のオアシス」で、ウィトゲンシュタインが見つけられなかった(ごめんなさい、ウィトゲンシュタイン研究の先輩)、共通の内包(意義)の存在を見つけ出しています。



#引用開始#

 遊戯にたずさわる人間は、現実の世界で一定の、それぞれの型で知られている行為を遂行する。だが遊戯の内的な意味連関においては、かれはある役を引き受けているのである。そしてここで、「遊ぶ」現実の人間と、遊戯内部での一定の役の人間とを区別しなければならない。遊戯者はかれの「役」によって自己自身を「被う」。いわば、かれはそのなかに没入する。

#引用ここまで# 「遊戯の存在論――幸福のオアシス」オイゲン・フィンク


 つまり、人間は役割を遊びの世界では、現実の世界とは別に、「演じて」いると指摘しています。

 これは、TRPGのことばかりではなく、「いないいないばあ」「シーソー遊び」「サッカー」「コケットリのゲーム」などなど、すべてに言えてしまうのです。

 遊びばかりではなく、「われわれは真面目を演じ、真正を演ずる。現実性を演じ、労働と闘争を演じ、愛と死を演ずる。そしてわれわれは、遊戯をさえ演ずるのである。」

 フィンクは、ハイデガーの道具的存在論とは違う切り口を見せています。

 ロールプレイの翻訳語を役割分担だとか、突っ走った感情論にすぎませんでした。こちらが、サッカーのポジションの説明にもなってしまうと説明しても、このブログにコメントを寄こしてくださった方には、無駄でした。

 では、ロールプレイとは何でしょう。

 ロールプレイは、他の人々の立場やパーソナリティという点から「憶測し直すこと(Second-guessing)」が特徴で、他のゲームとの大きな違いです。
 TVで見ただけの仮面ライダーを模倣し、演じる。子供から見たお母さんを模倣し演じる。これは、ロールプレイではなく、仮面をつけた単純なミミクリです。

 キャラクターのデータや背景がリストアップされて、その立場やパーソナリティという点から憶測し直すことです。
 これが、ロールプレイです。
 たとえば、仮面ライダーやお母さんのデータや背景をリストアップして、立場やパーソナリティという点から憶測し直す。
 同じく、心理療法では過去の事実や思い出をリストアップして、自分や他人の立場やパーソナリティという点から憶測し直す。


 ですから、ロールプレイは再演性が評価されます。単純なごっこ遊びは、よく模倣されていることが評価されます。再現性です。マンガの台詞を暗記したことを発表する人はロールプレイとは違う遊びをしているのです。

 なりきりプレイを求めようとする人は、ロールプレイでのリアリティ、つまり現実らしく見せることの追求で、場の臨場感をシェアさせるためのものです。
 これらの、遊びをまじめに取り組むことはTRPGでの「遊びの善」です。
 誤解されないように書いておきますが、なりきりプレイといっても、知性が最低の能力値で、シャーロック・ホームズはやれません。なり茶となりきりプレイのちがいの一つです。

 ちなみに、個人的にキャラクターをなりきりプレイするのは、不得意です。上手なプレイヤーのキャラクターと兄弟であるとか、思いつきがうまく回った持ちネタなどに、紐づけられないと僕はうまく演じることができません。



#引用開始#

遊戯世界は想像的次元にあり、その存在意味はまだ解明されていない、困難な問題を提示している。(中略)惑わされる点は、われわれが、この遊戯世界の事物それ自身を「現実的な物」として、想像的に把握し、それどころかさらに、現実性と仮象のの区別がそのなかで幾重にも繰り返されうるという事実である。

#引用ここまで# 「遊戯の存在論――幸福のオアシス」オイゲン・フィンク


 このことは、「アリアンロッド2E 上級ルール」にもあります。ガイダンス・セクションに優れた卓見がありますが、同じ陥穽に落ちています。 




#引用開始#

 つまり、プレイヤーは『AR2E』と総称されるゲームとしてプレイヤー間のコミュニケーションゲームとキャラクターとしてのファンタジーゲームを同時に楽しんでいる。いわば多重の入れ子構造を持っているのだ。こういった入れ子構造のゲームを“メタゲーム”と呼ぶ。
 “メタゲーム”は何もTRPGに限定された要素ではない。多くのゲームには“メタゲーム”は存在する。これは参加するプレイヤーが人間で、人間として“コミュニケーション”が行える以上、当然発生するものなのだ。

#引用ここまで# 「アリアンロッド2E 上級ルール」菊池たけし/F.E.A.R.


 フィンクの落ち込む仮象論も、『AR2E』の菊池たけし先生のコミュニケーションゲーム、メタゲームも、不当な二重性に陥っています。



GameDesign 西部劇TRPG開発日誌 [TRPG]「遊びの現象学」を読んで。

 汗水垂らして汚れながら仕事をする、病の強烈な痛みと闘う、真面目に信頼を築くコミュニケーションをする、それらをゲームとよべるのは、人生の企てにおける遇運の神との勝負としてだけです。


 遊びの僥倖に喜び真面目に遊ぶことと、現実の世界は全く違います。

 遊びは規則に従いその規則は改めることができます。
 現実は法則に従い、改めることはできません。

 人間関係の規則を改めてコミュニケーションし直すことはできません。人間関係の規則は、遊びの規則とは違って、変えようがない現実の法則です。人間関係は現実の法則に従うのです。
 ですから、遊戯の関係を成り立たせるコミュニケーションは現実のもので、遊びではありません。


 ひどい中傷をされて悲しんだり怒ることを、人間関係の規則を変えて、笑ったり喜んだりすることにはできません。たとえば、ゴールデンルールでそういうことにしても、呆れられてさっさと帰られるだけです。

 ゲームを遊びという文脈で用いて、現実のコミュニケーションもゲームと表現することは、サルトルと同じです。
 遊ぼうとする遊びや遊び方を話題にしたコミュニケーションは、メタゲームではありません。単なるコミュニケーションです。
 ゲームを遊ぶことで行われるのはコミュニケーションゲームではありません。これも、単なるコミュニケーションです。遊びは、人間や物との関係が成立した上で行われるコミュニケーションです。

 遊びがコミュニケーションの一つである以上、仮象や入れ子構造はありません。不当な二重性で遊び手を一種の精神分裂としたフィンクと同じ誤りです。

 フィンクは、自分自身や著作を、遊び演じている、精神分裂を起こしていると自己批判する誤りを犯しています。ドイツ敗戦と戦争犯罪への叱責の方便がそうさせるのかもしれませんが。


 ゲームのことを考えたり、考えを述べたり、作ったりすることは遊びではありません。現実のことであって、真面目な取り組みです。
 先生たちにお会いして、ものすごい仕事量を見て、楽しい文化を創られてきたことに、感謝します。





PR

コメント

コメントを書く