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 この西村清和先生は、美学者として哲学を用いて、近代美術論の根底にある「芸術=遊び」や「仮象論」などに明晰に切り込んでいく。
 読了しました。内容の使えるところをまとめると、以下のようなものです。

 

 「芸術=遊び」を美学者の立場から否定する。

 「遊び」とは「遊隙」である。歯車の「遊び」と同様、あるかぎられた範囲内での運動の自由、算定不能な多義性をもった「遊動」の空間とする。ある状況「に・遊ぶ」のであって、独特の存在様態指示する自動詞・状態動詞で用いる。

 「芸術」の熟練と「遊び」の僥倖には大きな差がある。
 美的体験と言うのは仮象論が陥穽するように、二重性といった分裂もない独立したわれわれのあり方であり、コミュニケーションである。

 遊びもまた訓練とか能力開発の土台づくりではなく、遊びの規定性(ルール)のうちでとり行われるわれわれのあり方であり、コミュニケーションである。

 ごっこ遊びは型にはまった動作系列のワン・セット、図式化された行動パターンを、いわばこどもの共有財として固定している。キャラクターに動機付けられて典型化された一定のパターンを組み立てて遊ぶ。キャラクターのタイプを示してさえいれば、この遊びのルールとしては十分であって、それ以上の模倣や造形や表現は必要がない。

 演劇において俳優の表現と造形行為が、ヒステリー的な同一化でも、精神分裂でもなく、「芸術的意志による演技」であるというメタ・コミュニケーションに支えられている。

 演技がペルソナの変形の駆使であるような「世界劇場(サルトル)」においては、真の素顔に戻れるのはトイレや寝室だけということになる。排泄行為や性行為のみを人間の本性とする考え方は滑稽ではないか。

 



 TRPGにおける役割演技(=ロールプレイ)は上手下手はあるにしろ、交渉での「話術」「挑発」「はったり」「言いくるめ」などの成否判定における項の選定に不可避なのであって、言い換えると、それはPCの性格描写も含むことになります。

 その連鎖を処理したプロセスを物語と位置づけるならば、物語の造形のためには役割演技(=ロールプレイ)は不可欠な要素です。 ここで、TRPGの物語の造形性とは、僕はTRPG「に遊ぶ」ことで目標とすることではないかと考えます。
 遊びが終わるのは倦怠からです。TRPGがなぜ、プロセスの連鎖において「物語」を目指すのかと言えば、この「倦怠」が物語の完成を見る「物語完結」によるカタルシスに取って代わるためではないでしょうか。

 また、通常、われわれはゲーム理論の陥穽に陥ることなく、非合理的な行動をとります。

 経済学でも、ゲーム理論の適用できる場面は一部分に限定されます。
 私たちがある八百屋さんでレタスを買ったりするのは、スーパーで買うほうが高いからではなく、お付き合いで買うことで情感を交歓するためであって、合理的経済活動ではないのです。また、ある会社の株を値下がりしても吐き出さないのはお付き合い上株を保持していかなければならないだけです。

 まず、遊びが必ず勝負で、実力の伯仲した名誉ある闘争とは断言できないでしょう。
 実力は同程度の相手と楽しむのが遊びとして拮抗、遊動関係を切り結ぶのと同じく、遊びを遊ぶには笑顔があり、まじめに遊ぶことが遊びを成り立たせます。
 シーソーあそびと原理は同じです。

 ゆえにルールがあれば必ずしも、闘争・競争さらには上達と言う理屈は成り立たない。例を挙げれば、「いない・いない・ばあ」の競争・闘争・上達はないでしょう。それでも、「いない・いない・ばあ」は、消え去るような遊びでしょうか。

 遊び全般(ルールのない遊びは存在しない)においても、「意志決定論的なゲーム」「ゲーム理論が楽しみを授け得るゲーム」と言うよりは、「解釈学論的な遊び」なのです。
 「ゲーム理論が楽しみを授け得るゲーム」は「企て」において有効なだけです。

 TRPGも同じ事で、基本的に勝敗のない遊びにおいて言えることは、解釈学論的な遊びの典型であるとしか言いようがありません。厳密な意味で解釈学論的な遊びとして、TRPGは、お芸術の仲間入りを果たします。

 そして、美的観照が独立した一個のわれわれの行動様態でとるコミュニケーションであるのと同じく、TRPGの遊戯精神はTRPGが扱う題材が何であれ、GMとPLらによる遊戯関係を築いた中でのコミュニケーションに他ならず、扱っているのは物語にせよ、そこに病的な二重性はないし、疑似体験や感情移入といった要素があるわけでもない。
 非現実的な事柄を遊ぶとしても、それは話題の中に収められ、きわめて現実的な遊びの関係に遊んでいるのですから。

 TRPGはこの意味で、人と人同士のコミュニケーションの一形態である遊戯関係(独立した一個のわれわれの行動様態でとるもの)に過ぎないと思います。

 いくら目先に選択肢があったとしても、TRPGは解釈学論的に遊ぶゲームとすれば、「面白いからリスクを負う」ことも明らかになります。
 それを幼稚であると非難できるでしょうか。

 ここで必要な規準は「物語デザイン」の観点です。果たして、この横道に入ることで、時間通りに「物語完結」を見れるのか、という感覚が求められます。その感覚がだらしないと、遊びに不真面目であるということになります。

 遊びに最も不真面目と言うのは、イロニーの人であり、誰とも遊ばない・遊べない人です。遊び相手は誰もいません。遊びに加わりながら冷笑的に遊戯関係をぶちこわしにする人です。実はその中には薄っぺらい虚栄心しかないのです。遊びにおける悪そのものです。遊びは、それとは反対に楽しくするためのまじめさが必要なのではないかと思います。

 それからTRPGのゲーム性のお話なのですが、この遊びの場合、TRPGの進行において解釈の余地(遊隙)があるか、そしてその反映の余地(遊隙)があるか」がTRPGのゲーム性になると僕は思います。

 さらには、この遊隙こそが、従来のゲーム性や自由度の論点として集約されているのではないかとも思います。
 ゲーム性や自由度は遊隙の中の規定性(遊びのルール)によります。固く規定することで遊隙を作ることも可能なことで、これがいわゆるゲーム性と呼ばれる部分のお話で、固い規定性を持たないことで遊隙を広くとり、最大限に広さを利用して遊ぶのも可能なことで、こちらが自由度のお話ではないのかと思います。

 ゲーム性が高いとか自由度が高いというのは、どちらが優れていて偉いと言うわけでもないでしょう。遊び手がそのルールや運用において楽しさや面白さを手に入れられるかが、問われるべき価値のある特質ですから。

エピメニデス(又はラッセル)のパラドクス

 

 例えば、みずみずしいリンゴの絵、犬などの動物のじゃれ付き遊びの解釈は、あの有名な論理的パラドックス、エピメニデス(又はラッセル)のパラドクスだと言う。


ここに書かれているのは嘘です。


  この有名なパラドクスを拡張すると、



この枠内の事物、行為はすべて非事実(うそ、仮象、遊び、ファンタジーetc..)である。



これはリンゴである。


これはかむ行為である。



 これらもパラドクスになります。  このアポリアの陥穽において、古来からの芸術、遊びが、不当な二重性を持って論じられてきたと言う。トリック・アートの絵では「驚き」だけれども、芸術の感動ではない。

 絵画の瑞々しいリンゴは「非事実」ではなく、「絵に描かれたリンゴ」で、動物がじゃれて「かむ」のは、偽りのない遊びのあまがみの「かむ」です。

 TRPGはTRPG「(を用いて、その状況)に・遊ぶ」という独立したわれわれの存在様態でしょう。

 疑似体験を求める冒険家が求めるものではない。戦場訓練を求める生き残りをかける兵士の訓練でもない。舞台度胸や造形力を求める駆け出しの俳優が出てくる稽古でもない。
 TRPGの存在様態は、あくまで「遊び」であって、笑顔を信じて遊戯関係を切り結んだ関係に遊ぶものです。

ゲーム・遊び・ルール

 「遊び(ルールをもたないものは存在しない)」と「ゲーム」の違いは、インド=ヨーロッパ諸語において、「Play(英語)」で顕著なように、「遊ぶ・演技する・演奏する・競技に挑戦する」と一致していて、わざわざ、「Play the game」「Play the piano」となります。
 野球でも、ゲーム開始に「プレイ・ボール」と合図をします。

 古高独語の「Spilan」は、一説にには「かろやかで、あてどなく揺れ動く運動、それ自体内部で、行きつ戻りつする運動」、中世オランダ語では、液体がぐつぐつ煮立つさまを「spelen」、アングロ・サクソン語の「plega,plegan」を(「play」が語源とする)、「すばやく器用で、しかも規律正しく動く指の運動」にあるという。 「遊」「玩」「弄」「戯」も印欧語と同じく漢語の原義を見れば、日本語の「あそび」「たはむれ」「もてあそび」と対応すると考えてよいと言う。(例えば、歯車の遊び「遊隙」)

 

 

 「TRPG(を)する」というが、「仕事(を)する」と同じ表現で、「TRPG(を)遊ぶ」とは言わず、「TRPG(をして)遊ぶ」または「TRPG(で)遊ぶ」と言う。必ずわれわれは、「TRPG(を)する」という一行動の、そのような状況「(に)遊ぶ」のです。

 遊戯関係と呼ぶものは、ものとわたしの間で、いずれが主体とも客体とも分かちがたく、つかずはなれずゆきつもどりつすする遊動のパトス的関係です。

 真剣か真剣でないかという、遊び手の主観の心理状態表示に過ぎず、たびたび、こどもは一生懸命、真剣に遊び、しばしば大人は、不真面目に仕事をする。もしも、不真面目にしか遊ばない子供がいれば、みんなの遊びは台無しになってしまいます。

 さらに「いない・いない・ばあ」におけるゲームの骨格をみると、「ルール」と呼びうる一連の決まった経過がある。プレーとゲーム、カイヨワのいうパイディアとルドゥスの区別において、異議申し立てが出来ます。
 


 上図のような関係が西村清和氏の「ゲーム・遊び・ルール」の関係だと思います。

 ルールには「法学的慣習的な社会ルール」も入ります。

 ゲームには、後期ヴィトゲンシュタインの提唱するような「言語ゲーム」なども入ります。

 *をつけた部分以外のゲームには、プロ・プレイヤーによるスポーツなどが入ります。棋士として生きていくことの「企て」、テニス・プレイヤーとして生きていくことの「企て」、プロのウェイターとして感じの良い振る舞いをして印象付けを「企て」るなどのものです。

 なぜ、ここに「企て」が入るのかと言えば、カイヨワのいうように「アレア」を神との関係において、遇運にまかせて賭けているのではないか、という一面が人生の「企て」にはあるからです。

 遊びには、チェスや囲碁、将棋、遊びのスポーツ、そして無論、TRPGセッションなどが入ります。前も記述したように、実力の拮抗したシーソー・ゲームと同様、遊びのテニスの相手はプロ・テニス・プレイヤーではなく、実力の同じ相手で拮抗しているような、遊動関係であることが条件です。

 さらに、社会生活において、ハイデガーのいう道具的存在として有意義な適所に、われわれがいなければ、また、歯車の「遊隙」が全くなかったり、ありすぎたりすれば、その「遊びの僥倖」を大切にしないし、価値も認めないし、遊び相手も大切にしない。

 
遊びが適所を得て有意義なものであるためのは、遊び手自身が遊びうる資質が必要だと言えるかもしれません。

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