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 河上正秀(しょうしゅう)先生の退官記念講演に行ってきました。

 <間>と<対>の問題に至る実存からの出発の経緯をお話し頂きました。
 退官記念講演というのは今年から始まった行事だそうです。

 <間>というのは関係の抽象化で、<対>は対峙の抽象化として、前置きした上で、河上先生の身上もお話しくださいました。
 河上先生は北陸から東京教育大教育学部教育学科に入学し、文学部に移り、卒業しても職はないと言われながらも、卒業し、修士課程に進んだときに学生運動の時代に突入し、大学が授業できなくなったそうです。
 そのころあちらこちらの大学を擁する文京区は学生運動の大火に見舞われたそうです。
 その後、東京大学大学院に進み、修士をおさめ、ドクターをおさめた。

 研究は、キルケゴールの「単独者」の概念に興味を持ったことからはじまり、当時の学生にはニーチェの「超人」という19世紀の思想から、20世紀のサルトルが流行ったそうです。

 ドイツの実存主義に興味は向かい、20世紀の前期ハイデガー、後期ハイデガーと辿り、ハイデガーのナチズムの暴露本「ハイデガーとナチズム」にショックを受け、ドイツ哲学は滅びるかと思われた。技術とナチズムの結合はドイツだけの問題ではなくどこの国にも生じうる。これは注意しなければならない。





 東西ドイツの統一の頃、3Kという言葉が流行る。このころには熱気盛んな哲学議論が学生同士で行なわれることもなくなり、男子学生の白くて艶めかしい手(笑)が見られたとき、時節の転機を感じた。
 今ではもっと若い世代では突き放すような友情関係は成り立たず、恋愛関係ではそれ以上に優しく接するようになった。
 それはエゴノセントリズム「一人称化」と弁証法的に対になって出てくる「他者」(レヴィナスなど)との関係の重視で、かつてマス(大衆)から出た主体が論じられた文脈での行き過ぎだろうと。



 <間>をどんどん技術化し、「一人称化」がすすみ、テレビ、スマホ、インターネット、ナビや、車社会、情報社会が拡張してくると、「ユートピア(utopia)」は「無い世界」という意味に変容する。
 「単独者」や「主体性」は風化し、生の実感が喪失する。

 パロールとエクリチュールの古代からの問題も底流にある。





 以上が、実存主義を研究してきた河上先生の講演のおおよその内容です。


 

 ホイジンガカイヨワの遊戯論から、僕のような生臭哲学徒は、ちょうど講演のなかで触れられた、車と車同士のコミュニケーションが遊戯の世界に進出してきていると言えると思いました。
 (ホイジンガのように遊戯を文化として捉える考えもありますが、文化の場合、とくに芸術は西村清和の主張の通り、表現の鍛錬から来る発露ですから、遊戯と芸術は僕は区別します)

 テレビゲームによって、相手の顔を見ないゲームがより普及しました。チェスの試合を新聞広告によってやり取りするようなことが、テレビゲームではごく当然になっています。

 本来遊戯というものは相手の表情に笑顔があることを信じて行なわれるものなので、<対>が、対峙が原則です。
 とくにTRPGの場合、オンラインでプレイするようなときには、Skypeのような、顔や声色から相手の感情が推し量れることなしには、全く別の、つまり、イリンクスの仮面を挟んだ間接的なコミュニケーションになります。

 TRPGではもともとプレイヤーキャラクターという仮面の上に、さらにプレイヤーとしての仮面を付けることになってしまうのです。

 これはオンラインを問わず、実際に対峙し、TRPGプレイサークルのメンバーとしての仮面を付けていても同じことが言えるでしょう。
 胸襟を開かないか、自分のことに触れないのは匿名のペルソナ(仮面)を付けていることと同じです。

 我々は、車の運転手同士が互いの表情を見ないで往来するように、互いに互いを対峙させようとせず、ゲーム、ルールやシナリオの本質といういわば、関係性の技術に頼って、遊戯をしようとしているのでしょうか。
 否、車やルートを変えるように、ゲーム、<間>を変えて何の解決になりますか。

 TRPGのゲームの本質は決断では成立しません。
 アローの不可能性定理は、二人以上の社会で3つ以上の選択肢がある場合、社会的選択の成立は難しいと数学的に証明しました。
 素朴なサイレントのゲーム理論の個人的な意志決定や葛藤、問題解決はTRPGのゲームの本質とは無関係です。
 もしそういうセッションならばこれは数学的独裁者が主要になった一つのジャンルに過ぎないのです。  手を変え品を変えても飽きられたり、トラブルが起きるのは、まずもともとの遊戯の関係が失敗しているのです。

 オイゲン・フィンク西村清和の論じるような遊戯の本質には、互いの笑顔の存在を信じた関係があり、それは現世の生死や研鑽とは隔絶した、魂の永遠性を信じることができるような所在、ユートピアがあると想定します。

 そのユートピアを感じ信じることができる人たちにのみ、遊戯は開かれているのです。
 一人称に閉じこもり、ペルソナをもってしか対峙できない非単独者・非主体には、遊戯を担うことは許されないのです。

 単独者・主体の対峙の度合いこそが、遊戯の均衡です。
 シーソー遊びに釣り合う関係のように、遊戯を互いに楽しむ関係としてそれこそが必要なことではないかと思います。

 この均衡は遊戯の関係に自分の利害関係である商売を持ち込まれることでも崩壊する説明にもなるでしょう。

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