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こちらの理想的ロール・プレイング・ゲームは、黒をコミュニケーションと考えると、上図になります。RP/Gは、Gの中のRP、図で表すとこういう意味です。
馬場氏が危惧している、彼が問題にしているのは下図のほうでしょうか。
テーブルゲームにさえ、サークル崩壊を起こすという、ゲームがあります。
よくそう言われる「ディプロマシー」は、ゲームがコミュニケーションを破壊したりする。ロール・プレイングはゲームとは無関係に等しいのにさらにコミュニケーションを破壊する。このような図で表してみました。
こちらが念頭に入れているのは下図のような状態です。
RP/GとRP/コミュニケーションとRP/コミュニケーションの崩壊であるゲームです。この状態を理想のカタチに仕立てるのが目標です。
RP/G=RPGとすれば、ゲーム性がないことを、G=0とすればRPGは間違いを起こしていることになります。
RPがない、RP=0とすれば、RPGはRPの成分を持っていないといえます。
Gを求めるにはRPとRPGを考えてやればいいのだと思います。
約束しました内容の記事です。
こちらは、「ウォーロック(雑誌)」の紹介で、まず手始めにD&D、それからT&Tを手に取ったクチで、この二つのデザインコンセプトが、どれほど異質であると理解したのか、大いに議論しました。
T&Tには初期デザインから、セービングロールが実装されていました。
D&Dには抵抗値という各種のエネルギー攻撃に対する防御力が表記されていました。
T&Tは、ゲームシステムの詳細化を嫌って、デザイナー自身がハウスルールの作成を奨励し、D&Dは上級MU(マジックユーザー)は塔を立てるので資金を集めるのだというように、デザイナーズルールによって、サポート体制をとりました。
議論になったのはT&Tの幸運度、知性度、魅力度です。
これらはPLの手に余るという意見と、PLとPCの違いが明確であるから賛成するという意見に見解が分かれました。
ところが、D&Dにはアライメントという演技指針が実装済みでした。
さらに、D&DはGMの判断に頼らず公式見解を発表し続け、ユーザーは経済的に恵まれていなければ楽しめないという、現在のTCGよりも酷い状況に陥りました。さらには違法なルールブックのコピー(複写)が出回り、それを元にした同人のリプレイが出回り、結局、市場規模の大きさの割に売り上げは伸びず、D&Dの版元「新和」撤退という形となり、D&Dの版権は抑え続けられ、AD&Dは日の目を見るのに十年以上もかかりました。
T&Tが、いわば隙間だらけの骨組みの処理体系でも、普及しました。
グループSNEが、後に「ロードス島戦記シリーズ」となったものも、初期にはT&Tが用いられ、SWが発表されても、T&Tは独自展開され、求めやすい価格の雑誌上でオリジナルのワールド、「セル=アーネイ」が発表され、ハイパーT&Tは二種類も出版されるほどでした。
シンプルで安価なT&Tが、D&Dやローズ・トゥ・ローズ、トラベラーなどへのシフトの起爆剤になりました。いわば、牽引役でした。
この市場戦略は決定的に、デザインコンセプトの違いにあります。例え稚拙でも、子供が子供を楽しませあう工夫を凝らす娯楽は今までになかったからです。そして、セービングロールという概念は、TRPGのオリジナルであるD&Dにも採用され実装されました。
D&DもT&Tも、はじめからRPGの役割演技をユーザーに要請していたのです。どちらのデザインが優れていたにせよ、この原点は忘れてはならないと思います。
昔も今も、TRPGは共同構築され発展していることは間違いありません。
重ねて強調します。
例えば、VCと渾名のついたルフィンというハーフエルフ(SW)のPCはそれを作り出したPLにしか、役割演技させることはできない。
同じレベルのスキルを持たせて、同じ装備を身につけさせても、別のキャラクターになる。PCはPLのものです。誰も代わりはいない。
チェスや将棋だとしたら途中でさえ誰かと交代できたりしますが、TRPGにはそれができない。ファイター系の代わりはいるが、特定の具体的なキャラクターの代わりはできない。
テーブルゲームで、パクス・ブリタニカのロシアは、やる人がいれば誰がやってもいい。TRPGにはそんなことはできない。
役割演技、これこそが、TRPGの本質です。
役割演技と、役割分担が重要な根拠は本質的に違うところにあります。
ロールプレイングとは役割分担ではなく役割演技である。
、「初心者のためのRPG入門」で、語られるような、役割分担ではない。もし、役割分担がロールプレイならばサッカーのポジションについての説明にもなってしまい、サッカーはロールプレイングだという、頓珍漢ぶりの論法になります。
オセロの白プレイヤー、黒プレイヤーも役割分担だといえてしまいます。
さらに言えば、役割分担ならば、GMが相手をしてくれる少人数が好ましく、最も楽しいことになります。役割分担の振り分けが一個のプレイヤーが担当すればいいのですから。
TRPGの目標が物語であれば、きちんと理屈が通ります。
展開の連続が物語である。物語には価値ある物、価値のない物、受け入れ易い物、受け入れ難い物などがあります。
問題解決もなく、ただ水溜りの鉄釘が錆びるだけのプロセスも、(価値のない)物語です。
なぜなら、われわれ人間のものの見方は、「因果」で、つまり「原因と結果」で見るようにできているからです。これは人間に備わったものの捉え方の「型」だからこそ、です。
さらに、物語を目標とするコミュニケーションのツールとするならば、「役割演技」の重要な鍵は示されます。
物語とすると、関係があり、それが変化し、それを解釈する。
このとき、役割演技とは、以下の構成になります。
GMは各PCに立ち位置を与えます。
もちろん、ハンド・アウトを投入するのも、各PCに立ち位置を与える「関係づけ」です。
プロセス(展開)によって立ち位置を与えるのも、確定要素から遠ざかることでディテール(詳細)を求めて、各PCに立ち位置を与える「関係づけ」です。
その関係付けの変化のPCの解釈とは、他ならぬPL(人間、それも互いの配慮の関係上にいる)の解釈のうちPCに適用される部分です。
そのPCへの適用が「ロールプレイング」であり、役割分担のことでは決してない。「役割演技」です。
PCには、存在論的に指示が与えられます。その指示は、さまざまな連関を伴い、単純に函数に収まらない。TRPGは具体的な存在論的環境世界を具体的に処理する以上、その連関はさらに恣意的なものです。
現実より恣意的である「因果」の記述は物語です。現実より恣意的である行動は「演技」です。
この役割演技説に基づいて、
恥ずかしい思いをしたかったりしたくなかったりする意思表明でもある「レッテル・システム」
物語の司会進行のGMからの指示である「コンダクト・システム」
わざと失敗したり成否のあり方を演技できる「五線譜判定」
などをデザインしました。
たしか、「役割演技」を評価する方式もいい、と、馬場氏は述べていますが、「役割演技」を否定していて主要な楽しみではないとしているのです。馬場氏は単に逃げ口上で考察に組み入れませんでした。
こちらは、「役割演技」こそが、主要な楽しみであり、その腕前は、物語を目標とするコミュニケーションのツールとする以上、PL自身の配慮・気遣いのできる人間性の深さやインスピレーションにこそあるとします。都合のいいことに、これは創造性が重視されることにつながるのです。
さらば、馬場理論よ!
TRPGは、演じて物語を作る遊びである。
TRPGの目標は物語であり、「初心者のためのRPG入門」で、語られるような、
(以下引用)
RPGとは、架空の世界を舞台に、与えられた状況や制限や障害のもとで、登場人物を自由に動かして、目標達成を目指すゲームです。
状況/制限/障害/目標といったものは、原則としてゲームマスターと呼ばれる特別な参加者が決めます。
(引用ここまで)
ではない。
物語の作法である、関係/変化/解釈で、成り立ちます。
TRPGの根幹は創造性であって、馬場氏の言うゲーム性(問題解決の疑似体験)ではないのです。
もし疑似体験だとすれば、肝の小さい人間が冒険するのを味わうだけのツールとしてしか適所性はない。
さらにもし疑似体験だとすれば、TRPGはさまざまなシチュエーションにおいて、確率論的な精密さが重視されてしかるべきでした。
ところが、現実、それが実現することはなかったこと、リプレイ同人誌の隆盛、そしてオリジナル小説やライト・ノベル作家の輩出などを見れば、この見解は正しくない。
馬場氏の言うような、状況/制限/障害/目標をリアルにやるために、ヨットで太平洋横断の冒険家なんて聞いたこともない。
「初心者のためのRPG入門」と題しながら、馬場氏は別の遊びを論じているのです。
本来、まず、関係があり、それが変化し、それを解釈する。
GMはPCに立ち位置を与えます。
PCの解釈とは、他ならぬプレイヤーの解釈のうちPCに適用される部分です。
そのPCへの適用が「ロールプレイング」であり、役割分担のことでは決してない。
もし、役割分担がロールプレイならばサッカーのポジションについての説明にもなってしまい、サッカーはロールプレイングだという、頓珍漢ぶりの論法になります。
以前全てに目を通しましたが、馬場氏はコラムを書くに当たりゲームを行っています。
馬場氏はコラム・ゲームをしていただけに過ぎません。
デザインだけがゲームを語ってくれる、でしたか。
馬場氏はゲームをデザインすることどころか、ゲーム自体やめました。
事情はどうあれ、口先だけゲームを語ることを、当の本人がやらかしていることに無性に怒りを感じます。
さらば、馬場理論よ!
下の記事http://western.blog.shinobi.jp/Entry/59/の確率論的な、決定的な誤りを犯しているTRPGに、馬場秀和氏は、「疑似体験としてのロールプレイ」を提唱しました。
これは「なりきりロールプレイ」に対して、馬場氏は反駁したものです。
こんな確率論的におかしな奇妙な世界に「疑似体験」、ヴァーチャル・リアリティを求められるでしょうか。
決定的に、「なりきり」に軍配が上がり、「いい歳して赤面」でしょう。
ファクターに分類するスポーツ科学にコーディネーションというものがあります。ニコライ・ベルンシュテインが基礎を築いたものです。
こちら、http://www.jacot.jp/coordinationtraining.htm など。
消去される可能性も考えて、サッカーでの適用例を。
コーディネーション | |
定位能力 | 絶え間なく動いている味方、相手、ボール並びにゴールとの関係で、自分の身体の位置を時間的・空間的に正確に決める能力(情報処理) |
変換能力 | プレーの最中に(例えば相手をかわしているとき)突然知覚した、あるいは予測された状況の変化に対して、運動を切り替える能力(予測、先取り) |
識別能力 | タイミングを合わせ、ほどよい力加減で緻密な行為をするために、身体各部を正確に、無駄なく互いに同調させる能力(巧緻性、ボール感覚) |
反応能力 | 予期されていた信号、あるいは予測されなかった信号(例えばそれたボール)に対して合目的的なプレーを素早く開始する能力 |
連結能力 | ボールを操作するここの技術・戦術的行為を空間的・時間的かつダイナミックにつなぎ合わせる能力(コンビネーション能力) |
リズム能力 | 自身の運動リズムを見つけたり、真似したり、さらには決定的なタイミングをつかむ能力 |
バランス能力 | 空間や移動中における身体バランスを維持したり、崩れをすばやく回復させる能力 |
ところが、ファクターのどれを伸ばすかという「訓練分析理論」であって、勝敗を予想しうる「勝利分析理論」ではないのです。
TRPGは、「訓練分析理論」の方を経験値などで成長・訓練をする理論のままで、そのまま「勝利分析理論」とは一致しないことを忘れて、成否判定に適用しているのではないでしょうか。
そんな「疑似体験」をわれわれは望まないはずです。
ついでにいえば、「ゼロサム」は「零和」が訳語です。零和だけ外来語読みするのは、僕が知る限り(妹は経済学をやりましたので、その教科書も読みました)では後の時代のこと。完全情報とか逐次手番とかも外来語読みしないのがおかしい。おそらく、馬場氏は論考に必要な教育を選ばなかったのでしょう。
僕が勉強中、ノーベル賞を取った統合失調症患者で同性愛者のJ・ナッシュ氏の均衡解など合理的選択論なのであって、ゲーム理論はゲームが何故楽しいのかという、答えを与えない。楽しいゲームとは何かを論じる学問ではそもそもない。定義の難しい、「合理的」を論じるだけで、まだまだこれからの仕事、難問が山積みなのです。「合理的」であることで、有意義な時間が過ごせるかは分からないはず、というか、関係がない。
大誤解の連発をしでかしていると思います。
ということは、見方によっては、根拠不明なまま、物を拵えずに、ヤクザのように因縁つけで心理戦を仕掛けていたのでしょうか。実のところ、チキン・レース・ゲームの脅迫戦略に過ぎなかったと推測します。
これからはそんな心理戦は目もくれず、無評価とします。無価値とは言いませんが、根拠がおかしい。語学だけできることは認めます([TRPG]コスティキャンの翻訳は誤訳。)が、語学は何を語るかという内容が常に問題です。
とくに、それに拠る所が大きい論([TRPG]アディオス、馬場理論よ。)も、ひとまず、撤回していきましょう。
コスティキャンの分析もファクター分類をしただけなので、「訓練分析理論」のままに過ぎないのでデザインの参考にはなりにくい。いくらゲームの性能諸元を語って聞かせても、ゲームのデザインどころか、ゲームにお誘いすることもできない。ゲーム性はあくまでもそのゲームの面白さで、たいていの場合、ある状況のときこうしたのが面白かったというお話から伝えられるものです。
われわれは「訓練分析理論」でコンピュータ・チェスのアルゴリズムのように駒の価値を決める前に、チェスが面白い仕掛けであることが分かるよう、「何々のエチュード(詰めチェス)」のような物語的な「勝利分析理論」を見据えなくてはならないのです。
そしてさらに、「何々のエチュード」を編み出す方法論こそが、TRPG論に必要です。
ナッシュの興味深い人生に興味があれば、おすすめの映画です。
閑話休題。
フレームワークがなくて、サブルーチンしかないデザインの単純系とはこういうこと。独立試行になる。
「たとえば、十日間の行程で、一日当たり、1/6の確率でワンダリングモンスターに遭遇すると仮定する。」
モンスターに何回遭遇するかを考えてみる。
分かりやすく書くと、6面体サイコロを順番に10個振り、1が出る確率が高いのはいつかということ。これはよくあるシナリオデザインのミスで、一日目が最も高い。1回目が1/6、2回目は5/6*1/6だから。
まず、すくなくとも一回でもモンスターに遭遇する可能性は(1-((5/6))^10)*100=83.8494%。
遭遇しない可能性のほうは、100-83.8494=16.1506%。
独立試行の定理 |
0 16.150558289 %
1 32.301116578 %
2 29.071004920 %
3 15.504535957 %
4 5.426587585 %
5 1.302381020 %
6 0.217063503 %
7 0.024807258 %
8 0.001860544 %
9 0.000082691 %
10 0.000001654 %
錯覚を起こしやすいのは10*(1/6)=1.666666667回が最も多いと考える理屈。
実際は、最も多いのは1回。
次が、2回、0回(!)、3回、4回、5回、6回の順で、それ以上はかなり低い。
だから、「たとえば、十日間の行程で、一日当たり、1/6の確率でワンダリングモンスターに遭遇すると仮定する。」というのは、ワンダリングモンスターに遭遇するゲームとしてデザイン的におかしい。ここで、リアリティがないと感じるのは、サブルーチンだけで構成されているからです。