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下の記事http://western.blog.shinobi.jp/Entry/59/の確率論的な、決定的な誤りを犯しているTRPGに、馬場秀和氏は、「疑似体験としてのロールプレイ」を提唱しました。
これは「なりきりロールプレイ」に対して、馬場氏は反駁したものです。
こんな確率論的におかしな奇妙な世界に「疑似体験」、ヴァーチャル・リアリティを求められるでしょうか。
決定的に、「なりきり」に軍配が上がり、「いい歳して赤面」でしょう。
ファクターに分類するスポーツ科学にコーディネーションというものがあります。ニコライ・ベルンシュテインが基礎を築いたものです。
こちら、http://www.jacot.jp/coordinationtraining.htm など。
消去される可能性も考えて、サッカーでの適用例を。
コーディネーション | |
定位能力 | 絶え間なく動いている味方、相手、ボール並びにゴールとの関係で、自分の身体の位置を時間的・空間的に正確に決める能力(情報処理) |
変換能力 | プレーの最中に(例えば相手をかわしているとき)突然知覚した、あるいは予測された状況の変化に対して、運動を切り替える能力(予測、先取り) |
識別能力 | タイミングを合わせ、ほどよい力加減で緻密な行為をするために、身体各部を正確に、無駄なく互いに同調させる能力(巧緻性、ボール感覚) |
反応能力 | 予期されていた信号、あるいは予測されなかった信号(例えばそれたボール)に対して合目的的なプレーを素早く開始する能力 |
連結能力 | ボールを操作するここの技術・戦術的行為を空間的・時間的かつダイナミックにつなぎ合わせる能力(コンビネーション能力) |
リズム能力 | 自身の運動リズムを見つけたり、真似したり、さらには決定的なタイミングをつかむ能力 |
バランス能力 | 空間や移動中における身体バランスを維持したり、崩れをすばやく回復させる能力 |
ところが、ファクターのどれを伸ばすかという「訓練分析理論」であって、勝敗を予想しうる「勝利分析理論」ではないのです。
TRPGは、「訓練分析理論」の方を経験値などで成長・訓練をする理論のままで、そのまま「勝利分析理論」とは一致しないことを忘れて、成否判定に適用しているのではないでしょうか。
そんな「疑似体験」をわれわれは望まないはずです。
ついでにいえば、「ゼロサム」は「零和」が訳語です。零和だけ外来語読みするのは、僕が知る限り(妹は経済学をやりましたので、その教科書も読みました)では後の時代のこと。完全情報とか逐次手番とかも外来語読みしないのがおかしい。おそらく、馬場氏は論考に必要な教育を選ばなかったのでしょう。
僕が勉強中、ノーベル賞を取った統合失調症患者で同性愛者のJ・ナッシュ氏の均衡解など合理的選択論なのであって、ゲーム理論はゲームが何故楽しいのかという、答えを与えない。楽しいゲームとは何かを論じる学問ではそもそもない。定義の難しい、「合理的」を論じるだけで、まだまだこれからの仕事、難問が山積みなのです。「合理的」であることで、有意義な時間が過ごせるかは分からないはず、というか、関係がない。
大誤解の連発をしでかしていると思います。
ということは、見方によっては、根拠不明なまま、物を拵えずに、ヤクザのように因縁つけで心理戦を仕掛けていたのでしょうか。実のところ、チキン・レース・ゲームの脅迫戦略に過ぎなかったと推測します。
これからはそんな心理戦は目もくれず、無評価とします。無価値とは言いませんが、根拠がおかしい。語学だけできることは認めます([TRPG]コスティキャンの翻訳は誤訳。)が、語学は何を語るかという内容が常に問題です。
とくに、それに拠る所が大きい論([TRPG]アディオス、馬場理論よ。)も、ひとまず、撤回していきましょう。
コスティキャンの分析もファクター分類をしただけなので、「訓練分析理論」のままに過ぎないのでデザインの参考にはなりにくい。いくらゲームの性能諸元を語って聞かせても、ゲームのデザインどころか、ゲームにお誘いすることもできない。ゲーム性はあくまでもそのゲームの面白さで、たいていの場合、ある状況のときこうしたのが面白かったというお話から伝えられるものです。
われわれは「訓練分析理論」でコンピュータ・チェスのアルゴリズムのように駒の価値を決める前に、チェスが面白い仕掛けであることが分かるよう、「何々のエチュード(詰めチェス)」のような物語的な「勝利分析理論」を見据えなくてはならないのです。
そしてさらに、「何々のエチュード」を編み出す方法論こそが、TRPG論に必要です。
ナッシュの興味深い人生に興味があれば、おすすめの映画です。
コメント
1. 馬場理論でゲーム理論の話はしていない気が
まず、馬場理論はキャラプレイの部分を否定しているものではありません。
キャラプレイの前にそのPCが仕事をちゃんとするようにしろということだと思います。
戦士のPLが「俺のキャラは臆病者だから、戦闘が始まると逃げ出すね」
のようなことをやるなって話だと俺は解釈していますが。
役割を果たさないキャラは他の人の迷惑になるし。
ゲーム理論の話が出ているのですが、それは何処の話なのでしょうか?
俺が見つけたのは「コスティキャンのゲーム論」というところなのですがここでいいのですか?
確かにゼロサムって言葉は使われていますけど、
ゲーム理論とは関係がないと思うのですがどうなのでしょうか。
そこだとしたら、何処が使われ方が変なのかを教えていただきたいのですが
2. ごめんなさい。ちょいと時間を。
ワープロ時代に、印刷物で読ませていただいたので、検索かけてみます。
たくさんの人が多様な解釈をしているのは存じています。
3. 例えば、こちらを。
馬場秀和のRPGコラム 1999年1月号
ちょっと拾ったこの記事の中で、RPGの間違った遊び方をする人間はイナゴの大群としています。ゲーム感覚を説いていますが、テーブルゲームのゲーム感覚のごり押しの典型例です。
この流れは一貫していて、間違っていないRPGは問題解決だと落とす。
この根拠をhatoさんが心当たりのある「コスティキャンのゲーム論」から借りてきています。その根拠薄弱を脅迫戦略で恫喝してカバーしています。心理戦だから、そんなことをしているのです。
記憶に頼らず、通読して、さらば、馬場理論その2でも書きましょうか。
4. 無題
その段落の前に
『テーブルゲームのプレイ経験なしにRPGを始めた人々
は、それがゲームだということが理解できなかった。それはキャラクターになり
きって演技し、皆で盛り上がるストーリーを作る遊戯だと思い込んでしまった』
という行があります。
コレに対して、本来のゲームというのは
『-意志決定
-目標
-障害物
-資源管理
-ゲームトークン
-情報(コスティキャンのゲーム論より引用)』
を含むものと馬場は定義しています。
ここで挙げられているゲームの定義は今のTRPGにも当てはまる部分が多いです。
俺はFEARゲーしかやったことがありませんが、そのとおりだと思います。
逆にこれらを排除したゲームとはどのようなものがあるのでしょうか?
教えていただけると幸いです
5. 本来のゲームに当てはまらないのです。
こちらは、TRPGのゲームバランスの不確定性、ユーザーによるクリエイティブなデザインが「何か(物語でしょう)」のために及ぶということをシステムの一端に着目して確率数学的に証明しました。
「意図しない合成の典型例」を一読していただければ理解できるはず。単なる和事象でさえTRPGはこのあやふやさです。
>『テーブルゲームのプレイ経験なしにRPGを始めた人々
は、それがゲームだということが理解できなかった。それはキャラクターになり
きって演技し、皆で盛り上がるストーリーを作る遊戯だと思い込んでしまった』
とありますね。思い込みではなく馬場氏ではなく正解ではないかということの根拠を、こちらはきちんと示しています。
6. 無題
というか、出来ない理由がよく分かりません
7. では、こう考えては。
『-意志決定
-目標
-障害物
-資源管理
-ゲームトークン
-情報(コスティキャンのゲーム論より引用)』
を意味合いも変えずに適用できるでしょうか。これが無根拠の用語であって、きれいさっぱりバイバイしたほうがいいのではないでしょうか。
8. 無題
意思決定:何処にコマを設置するか
目 標:相手に勝つ
障 害 物:相手の行動
資源管理:自分の手ごまをどう使うか
トークン:コマ
情 報:自分の状態と相手の状態
こうなると思いますが、いかがでしょうか?
9. 要素だけの抽出で分かることは。
このように共通化されて、分かることは、
料理を、甘味・酸味・苦味・塩味・旨味という味覚だけで、論じていることがお分かりになると思います。
何かの要素が加わって確かに味付けは変わりますが、味覚だけで、論じて,料理の仕方や材料、手順、食卓を囲んでの楽しい食事のやり方などを無視することと同じではないでしょうか。
10. だって、ゲームの定義ですから
味も食材も何も使われていないもので料理と呼べるものはあるでしょうか?
そして、上に挙げられている定義が当てはまらないゲームの例があるのならば教えてください。
あと、補足。
馬場さんは「RPG」というのはゲームという要素によって成り立っていると考えています。
ゲーム性の無いRPGはRPGとして成り立たない。
この人がいているのはここに行き着くと思います。
あと、コレは純粋な俺の疑問なのですが、ゲームと確率の関係がよく分からないので、できれば詳しい解説をしてもらえると助かります。
11. ひとつ根本的な質問を。
この点について、否と考えておられるわけではないのですよね?
「RPGは役割演技によって物語を成立させるものである」
この定義は、「即興演劇・アドリブ芝居・コント・寸劇・漫才・連歌」の類がRPGである、と考えておられる訳ではないのですよね?
馬場氏とBetaさんの、「RPG」におけるRとPとGの解釈の違いに差異が出るのは、当然だと思います。馬場氏の語るR、P、G、が真理であり、他の解釈が間違いであるとは私も思いません。
そこで一度、Betaさんの思うところのRPGにおけるゲームとは、どのようなものかを教えていただきたく思います。
(出来れば、「即興演劇・アドリブ芝居・コント・寸劇・漫才・連歌・自主制作映画」の類がTRPGではなく、TRPGのみがTRPGであると定義できるような解釈をお願いします)
12. 味も食材も何も使われていないもので料理
挙げられていないゲームの例として、ゲーム理論では完備情報、完全情報、情報対称性、同時手番、逐次手番、零和、非零和、二人、一人、多人数、そのほかの分類をします。
協力ゲームや、非協力ゲーム、アローの一般可能性定理、支配戦略、ナッシュ均衡戦略、脅迫戦略、などと戦略研究も盛んです。囚人のジレンマについても無限回のジレンマのときはどうなるか、ベイズの定理によって確率を求めたりとか。
その知識の集積に当たって、実用性も何もない理論展開がコスティキャンの論法です。
意思決定:何処にコマを設置するか
目 標:相手に勝つ
障 害 物:相手の行動
資源管理:自分の手ごまをどう使うか
トークン:コマ
情 報:自分の状態と相手の状態
において、意思決定のないゲームは勝負が全く価値がなく、支配戦略を取れるゲームです。
普通の健康状態で、息を吸うかはくか、価値がなく、どちらも選択できますが、選ぶ必要もなく息をします。選べますが。よく引き合いに出されるのはパスカルの賭けです。最近は宗教原理主義者のテロが含まれて、納得できないのですが。
目標の、相手に勝つというのも、相手に勝つ価値がなければ成立しません。
特にオセロではトークンと資源管理と障害物が不明瞭です。自分の資源が障害物になります。
情報については、完備情報、完全情報または、その否定なのか一部なのかが問題なのであって、単に情報としてあることが不明瞭です。
そのうえで、ゲームと確率の関係ですが、コンピューターのチェスゲーム処理で、カリング(刈り込み)にも用います。
TRPGでは、本質は単にごっこ遊びにしないための仕掛けで、公平性の問題の解決に用いられています。ですから、こちらは公平性について口酸っぱく説くことになります。
13. 無題
それを料理と呼べるのか、という話です。
俺はそれを料理と定義しません。
あと、上であげれられているゲーム理論のものはすべてコスティキャンのゲーム論は当てはまります。
むしろ、当てはまらない理由を言ってくれると助かります。
オセロに関する質問に対する返答
目標について
コレについては一般論で、他にも「接待プレイ」「暇つぶし」「簡略化によって得られる真理」などが挙げられます。
そして、そこに魅力を感じない人はそもそもゲームをしないでしょう。
その他について
そもそも、不明確であってはならない理由がよく分かりませんが。定義はもともと広義の意味合いを含むものですし。あいまいだとおっしゃられた部分は複合的に存在することによって、オセロをゲームとして成り立たせているのです。他もまた然り。
個人的には、シモンさんの質問に対する返答気になります。多分、俺との最大のずれは底だと思うので
15. 「TRPGはゲームである。」 について
TRPG特有の具体的なものを具体的に扱うとき、検証できる確率が得られない場合があります。眠っている人を殺せる確率、などです。これらを、デフォルメまたは推定しなければなりませんから、多くのルールブックで言及されない以上、ユーザーがデザインします。
「TRPGはゲームである。ゲームでありながら、抽象化せずに生産的創造性で具体性を持ったままデザインされるゲーム」と考えています。ですから、映画俳優並みのキャラクタープレイも大いに結構、ただし、それに見合うデザインで、独善性を取り除けばいい、と。
その根幹は、処理上のキャラクタープレイの事前実装、キャラクタープレイの成立の合意形成、ランダマイザーの都合で成される処理の否定、現実的な確率論での処理が前提です。
これらを基盤として、アプローチするならば、馬場氏の言う問題が以下に具体的デザインを欠く思慮であったか分かると思います。ひいては、TRPGが娯楽として一歩進むことのできる。
願うことなら、誇りながら大人として遊ぶことのできるものに、仕上がるのではないでしょうか。
16. 無題
17. なるほど
最初の段落を要約するとRP+Gとしてとらえているということですよね?
俺はGあってのRPだと思っています。
RPGにキャラプレイは無くてもいいがゲーム性は無くてはならない。
ダンジョンにもぐって宝物を取りに行くゲームならばわかりやすいのかな。
そこにはキャラプレイは必要ないわけで要はダンジョンに潜って役割を果たせばいいし。
というわけで、俺はG+RPの立場です。
すべての参加者(GM含む)が一つのルールで運用されるならば、そこに不公平は発生しないと思うのですが?
18. ちがいます。
先ほどの味覚の喩えがお分かりにならないので付け加えます。
コスティキャンは、料理を味覚だけの要素で論じている、だから、間違いだといえる。
ゆえに味覚だけ論じてもそれは料理の分析にはならないから、コスティキャンは、間違っていると言っているのです。
19. その解釈の仕方は乱暴だと思う
アレで定義しているのは、材料、味つけ、調理方法。この三つがあって料理である。のようなものだと俺は思っています。
このように、ある程度はあいまいでその分作る人が自分の料理を作りやすいようになっています。
あいまいというよりも、多くのものを発生しやすいためのものだと思います。
あと、勘違いされているようなので一応言っておきます。
ゲーム理論のゲームに置いてもあの定義はすべて成り立ちます。
ナッシュ均衡があろうが、完全情報ゲームだろうが(以下略)だろうと、意思決定は存在します。
ゲーム理論はお互いに合理的な決定をする、という前提になって行動をします。
そこに意思決定は存在します。
20. 失礼。もう一歩戻ります。
「ゲームとは何?」
まず、TRPGにおける「ゲーム」とはどのようなものであるか。どのようなものであるとお考えか。その点から尋ねるべきだったかもしれません。
馬場氏(あるいはコスティキャン氏)は「ゲームとはゲームトークンを用い、資源管理を行ないながらおこなう意思決定である(意訳)」みたいな、そんな話を主張されているんですよね?
私は、Betaさんが、「TRPGとはPLとGMが、PCとそれ以外を用いて、物語を生み出すゲームである。
PLはPCを、GMはPC以外の全ての要素を用いて、PCおよびそれ以外の情報を元に、物語に介入し、より面白い物語を求めるものである」とお考えかと思ってきました。
つまり、
(PLの場合)
意思決定:PCをどう動かすか
目 標:より良い物語を成立させる
障 害 物:(目標に障害となる範囲での)PC以外の全て、自PC及び他PCの設定
資源管理:自分のPCをどう使うか
トークン:PC
情 報:PC状態とそれ以外(GMの描写等)
(GMの場合)
意思決定:PC以外の全てを、どう扱うか
目 標:より良い物語を成立させる
障 害 物:世界設定・NPC設定・PCらの設定、行動など。
資源管理:(世界全て-PC)をどう使うか
トークン:(世界全て-PC)
情 報:PCらの状態・行動とそれ以外(裏設定含む)
この、「互いの意思決定のせめぎあい」がゲームである。安易な悲劇、ハッピーエンドでも物語となるが、そこによりカタルシスを求めるため、葛藤や(PCらの)意思決定を求める(意思決定をPL&GMが行なうゲーム)。
そう考えておられると思ったのです。
あるいは、ひょっとすると、「GMの用意した脚本に従い、PLがPCを演じる。コレこそがTRPGである。ここでゲームとは、一人のPCばかりが活躍し過ぎないよう、サイコロでも振って、適当に活躍シーンに水を差す。この部分がゲーム」とかお考えなのでしょうか? だとすると根本的に誤解しているので、考え方を変えねばなりません。
PS.
>何かのコメント消えていないでしょうか。
多分消えてないと思います。全文記憶してないので自信はないですが、「あれ、これ書いたはずなのにないぞ」みたいに思ったことはないので、大丈夫かと。
21. D&DはTRPGか?
たとえ単純なダンジョンハックでも、道中ワンダリングモンスターに全滅させられても、PCらが選んで旅立ち、自分たちを信じて冒険を行なった結果であれば、そこに物語は成立すると思います。故に、自分は(たとえ物語の成立がTRPGの目的だとしても)単純なダンジョンハックですら、TRPGとして成立すると思います。
「戦士A」が「僧侶」を庇い、「魔術師」の支援を受け「戦士B」が敵陣に突入したとしても、物語は成立すると思います。
(もちろん、ここで「戦士Aことアルフレッドは農家の息子。僧侶ことクレアと同じ年頃の妹が居た」「戦士Bことベンジャミンは貴族の末弟、本当は騎士として、領民を守って戦場に立つのが夢だった」みたいな設定があれば、より物語が深くなるとは思います。そんな伏線が事前に張り巡らされていれば、さぞ盛り上がることでしょう。)
TRPGはココから始まって、より深みのある物語を求め、進化してきた。なら納得しますが、「D&Dの単純なダンジョンハックに物語はない、故に、(初期の)D&DはTRPGではない」なら…大いに疑問を感じます。
22. ついでに…
「TRPGにおけるRPとは役割演技である。TRPGの目的は役割演技を行なって物語の成立を求めるものである。故に『即興演劇・アドリブ芝居・コント・寸劇・漫才・連歌・自主制作映画』はTRPGである」も否であるとは思います。思いますが、Betaさんの言葉でそこを否定してもらいたく思うんです。(…このままでは定義が成立していないんで…)
23. 意思決定が全てではない
意思決定が全てではないです。
TRPGでは誰が勝者となるのでしょうか。
合理的な選択の繰り返しが、楽しいTRPGを成立させられるとは思いません。
ゲームの成り立ちが意思決定で語られるなら、サイコロに話題を書いた物を振って、転がすことはゲームといえなくなるのでしょうか。
TRPGでの意思決定は、分配に重きを置くのではなく、物語上の用語で言う「テーゼ」「アンチテーゼ」の意味合いです。その中での意思決定を指すのであって、合理的かどうかではありません。朝ごはんの二つの生卵まで、意思決定しているわけではないのです。
その証拠に、馬鹿なロールプレイをし続ける「パラノイア」は、意思決定へのパロディになっています。意思決定によって馬鹿な行動を思い立ち、意思決定する。その繰り返しが楽しみ続けられるでしょうか。「パラノイア」をひたすら遊び続けるサークルは聞いたことがありません。ゲーム性が意思決定であって、それが成り立てばTRPGが成立するという論法は、この事実によって覆ります。
コスティキャンが、味覚だけで云々という話は、物語の面白さを選択するという大きな枠を外し、場面だけを観察対象にさせるからおかしいと指摘しているのです。
世界>事実>事態>事物であり、事態論のみで分析するのは誤りです。事実はユーザーが遊ぶことであり、楽しめることです。世界はTRPGが好きな方がいる。論理対象の尺貫法、スケールがおかしいという指摘です。
24. SIMONさんへ。
25. TRPGの話はしていなかったんですが
よくよく考えれば俺はTRPGじゃなくて、馬場理論でコメントをはじめたんでしたね。
アレで話していたのはゲームと呼ばれるものについてです。
合理的な判断というのは、ゲーム理論のところで俺が話したものですよね?
ゲーム理論の前提は「人間は必ず合理的に判断する」だからこそ、それをメタにして対策を考えるのが基本です(少なくとも俺が学んだ初歩のほうでは)。
そのため、ゲーム理論のゲーム以外では合理的な選択は必要ではありますが、絶対ではありません。
やったほうが勝ちやすくなるというのは間違いないはずですが。
あと、意思決定に重点を置いたのは、Betaさんが、意思決定が存在しないゲームがある。ゆえに定義は成り立たないという趣旨の発言をされたからです。
>サイコロに話題を書いた物を振って、転がすことはゲームといえなくなるのでしょうか。
コレだけならばゲームとは定義できません。
何をもって勝利となるのか
何を持って優越をつけるのか
少なくともそれくらいの条件は必要です。
逆に、それが存在するのならばゲームです。
勝利条件を満たせる話を「決める」
あとコスティキャンの部分はTRPGの定義じゃないですよ?
TRPGのGの部分になくてはならない部分の定義です。
TRPGに置いてはGではない部分もあり、それを根拠に否定するのは奇妙な感じもします。
26. 追記
パラノイアについてなのですが、BETAさんはプレイしたことあるのでしょうか?
俺はプレイしたことはないです。
でも、友人から一時期薦められていくつかのサイトで情報を集めたことがあるのですが、
ぜんぜん言っていることが当てはまっていない気がします。
俺はパラノイアはRPをGにした作品の一つだと思います。
betaさんのいうバカなRPというのはどの辺りことを指しているのでしょうか?
27. パラノイアのプレイ経験