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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]TRPGの特性は役割演技

 重ねて強調します。
 例えば、VCと渾名のついたルフィンというハーフエルフ(SW)のPCはそれを作り出したPLにしか、役割演技させることはできない。
 同じレベルのスキルを持たせて、同じ装備を身につけさせても、別のキャラクターになる。PCはPLのものです。誰も代わりはいない。
 チェスや将棋だとしたら途中でさえ誰かと交代できたりしますが、TRPGにはそれができない。ファイター系の代わりはいるが、特定の具体的なキャラクターの代わりはできない。
 テーブルゲームで、パクス・ブリタニカのロシアは、やる人がいれば誰がやってもいい。TRPGにはそんなことはできない。

 役割演技、これこそが、TRPGの本質です。
 役割演技と、役割分担が重要な根拠は本質的に違うところにあります。


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コメント

1. 無題

>役割演技と、役割分担が重要な根拠は本質的に違うところにあります。
この部分については誰も反論はしていないと思いますよ?
俺が言っているのは、馬場理論を引き合いに出すのはなんか違う、という話なのですが。

>役割演技、これこそが、TRPGの本質です。
結局のところ馬場理論とのずれは
馬場理論:ゲームの役割分担
BETAさん:役割演技のゲーム

というずれというだけでは?
まあ、そのずれが大きいのですがね

2. ちょっと質問

> 同じレベルのスキルを持たせて、同じ装備を身につけさせても、別のキャラクターになる。PCはPLのものです。誰も代わりはいない。
 チェスや将棋だとしたら途中でさえ誰かと交代できたりしますが、TRPGにはそれができない。

といっていますが、まったく同一の動きはロールはできませんが、そのキャラを動かすことはTRPGでもできます。
逆に将棋でも確かに人を変えて駒を打つことができますが、戦術や細かな采配は、人がかわればかわってくると思うので、どう考えてみても、根拠にならないと思います。

3. あと、ゲームの話について

チェスや将棋でも他のPLと変わるのはダメでしょう。
そこには、AさんとBさんの対決というものが存在します。
それを、CさんとBさんという対決に途中から変更するということは別のゲームになります
ルール的にも、進め方的にも、そこに生まれる価値という意味でも。

たとえば、子供の大会で優勝したら羽生名人と戦えるとしましょう。
少年にとっては羽生名人と将棋をすることに価値が生まれます。
いざ対戦というときになって、羽生名人が突然弟子に指させるというのは対戦の価値がなくなります。

それを認めるというのなら、PLの交代も認めるべきでは?
指し方は人それぞれの性格があります。
それは、PLの個性と同じものなのではないのでしょうか?

4. 一時代役とか

キャンペーンが長く続いて、たまたまその日参加できなかったPLのPCをGMが代役でNPCとして出すことはありえると思うんです。当然、その普段はPCのNPCは、物語の中においても、従来と同じような立ち位置にあると思います。(普段皮肉屋のPCがNPCとして登場した折、GMのストーリー進行に積極的に協力するキャラクターになっているとかしたら…GMが怒られるべきでしょう)

もちろん、そのPCがNPCとなり、そのPLが欠席した結果、欠席しなかった場合に生まれる物語とは異なる物語が、そのセッションでは生まれることでしょう。そういう意味での「代わりはない」なら理解できますが。
(でもその場合、やはり将棋でも差し手が変われば生まれる棋譜は変わりますので、引き合いとしては不適当かと…。)

5. あと、GMの場合は?

>PCはPLのものです。誰も代わりはいない。
前述の通り、原則この言葉には納得がいきます。
でもこれは、GMの役割を語っていませんよね。
GMが有名な公式NPCを出したとして、次に別のGMが同じNPCを出した。この場合、物語上、当然この二人は同一人物です(偽者・影武者の場合を除けば)。
これは、持ちまわりキャンペーンなどでは良くあることだと思います。

「VCと渾名のついたルフィンというハーフエルフ(SW)のPC」のPLが演じるところのルフィンと、たまたまそのPLが欠席した折GMが代理で演じたルフィンの生み出す物語は本質的には違うかもしれません。でも、参加者(PL&PC&GM&NPC)にとっては、それはどちらも「VCと渾名のついたルフィンというハーフエルフ(SW)」です。(不参加者であるルフィンのPLにとって、その話はルフィンの物語ではないでしょうが…)

(もちろん、後からそのPLが、「それはルフィンじゃない」というほどのRPの逸脱があった場合には別の問題が生じるでしょうが、ここでは、そのシチュエーションは「別の問題」として無視します。)

6. 例えば水戸黄門

里見浩太朗の水戸黄門も石坂浩二の水戸黄門も、物語上の役割は諸国漫遊し勧善懲悪を為す先の副将軍であるところの水戸黄門。(演劇の場合監督・脚本の解釈が入るので役者だけでは語れませんが)生み出される物語は小異でああるものの大同です。どんなに画期的な解釈を入れても、水戸黄門でなくなるような解釈は失敗でしょう。
物語の一期一会性は理解しますが、どちらの水戸黄門も、同じキャラクターであるべきではないでしょうか。

7. PLの交代。

 チェスでは特に、スティールメイト(引き分け)とチェックメイトの違いを教えるのに、PLが交代する光景が見られます。
 将棋でも「詰み形」を覚えなければ勝ちようがないので、その部分からプレイされます。

 それから、馬場さんはRole-Playを役割分担と珍訳して議論展開していますが、そもそもそこからついていくことができません。どこのファンタジー英語の辞書のことでしょうか。
 皆さんもご自分の辞書を確かめてください。こちらは英語の専門家ではないのですが、分担は「シェア」であり、Playには、演じるという意味が必ずあるはずです。事実、確認願いたい。

8. 無題

僕は馬場理論はどうでもいいのですが、PLの交代に関する解答は理解できません。僕の質問がわるかったのでしょうか?失礼ですが本文コメント欄を読んでもあなたの考えが理解できません

9. 水無月さんへ。

 こちらでは、はじめまして。
 将棋には定跡、チェスには戦法がありまして、研究され、「勝ち」のために「合理的な」戦術を取ります。
 しかし、PLのPCのようなクリエイティブな「演技」の積み上げられたものは、交代はあれど、本質的に演技の答えがない以上交代者のものになります。
 モーツァルトの遺作の「レクイエム」は途中で作曲が止まりまして、弟子が作曲を引き継ぎましたが、明らかにモーツァルトではない部分は分かります。
 なぜなら「合理的に」音楽理論に沿っても答えが出ないことだからです。聴かれる音楽の音が鳴ればいいだけのことが「勝ち」、所詮「勝ち」は「勝ち」までのこと。
 所属していたサークルのメンバーが亡くなり、彼のPCの引継ぎはありませんでした。引き継げる方が、どこにもいません。
 事実は事実、そこから議論するのが、正しい答えの出し方で、空理空論で語ってはいないことをせめて理解していただきたいと思います。

10. hatoさんへ。

 馬場さんの考えと違うズレのご指摘有難うございます。
 RPGのRPが、役割演技としか翻訳しようがないのを、さも、別翻訳があると強弁し、いわば詐欺師まがいの根拠から出発されている、まず、それを明らかにしつつ、今後、馬場さんのコラムを検討したいと思います。

11. SIMONさんへ。

 水戸黄門だと、実在のモデルがいてややこしいので、「ジェームズ・ボンド」と「ふうてんの寅さん」を持ち込みます。
 ショーン・コネリーの「ボンド」がよかった。とか、竹中直人の「男はソレを我慢できない」のタイガーはありえないとか、ですね。
 GMの交代の件についても、僕が所属していたサークルではなくなったメンバーがマスタリングしたTRPGは封印されました。TORGやミレニアムズ・エンド、デッドランズ、などです。

12. playには

とりあえず、playには確かに演じるという意味もありますけど、「(役目・任務を)果たす」という意味も普通の英和辞書にもありますよ。

あと、亡くなった人のPCを引き合いに出すのはなんか違う気がします。
それに、二人が行っているのはPCを使うことが出来るであって、引き継ぐではないし。
将棋でも名人同士の対戦の途中で片方が亡くなったら、それを途中から指す人は思います。
研究の一環として指し筋を考えるのは別としてですけど。

馬場さんとBetaさんはTRPGの遊び方が根本的に異なるので引き合いに出すのは違う気が。
先ほど述べたとおり誤訳といって騒ぐほど訳でもないし。
何度も言っている気がするけど、馬場理論は
TRPGの勝利条件はPLが目標を達成することである。
PLが目標を達成するために各自が役目を果たす。
その過程でキャラプレイがあっても構わない。
上に行くほど優先順位が高い。
というのがおおまかな流れです。
個人的にはBetaさんの理論とも共存できると思うんですけど。どうなんでしょう?
他の部分ではなく、俺が上げている部分について返答してくれると助かります。

13. 書き忘れ

書き忘れがあったので一応書いておきます

馬場理論:PCの役割を演じる
BETAさん:PCの役を演じる

結局のところ、RPをこう訳しているからずれるのも当然という気もします。

14. 無題

あらためて個別の回答をありがとうございます。
ですが理解できないという気持ちはかわりません
将棋に定石があるのは知っていますがそれでもPlがかわれば駒の打ち方はかわりますし音楽を引き合いにだしてもそれは馬場理論よりも詭弁です
またPL交代の件ですが僕の環境ではやめたメンバーのPCはGMが自由に使えます
残念ながらそれも事実です
思いますにプレイヤーがことなればプレイ内容がかわるのは当然のことでありそれをTRPGの特性といわれても納得できないのは当然だと思います
また他のかたに対する回答もよみましたがますますこの記事に賛同できないと思いました

15. hatoさんへ。(2)

>TRPGの勝利条件はPLが目標を達成することである。
>PLが目標を達成するために各自が役目を果たす。
>その過程でキャラプレイがあっても構わない。
>上に行くほど優先順位が高い。

 というまとめだとしたら、共存できません。RP(役割演技)の抜けたRPGはありません。ちなみに、WikiによるとRole-Playingは、ゲームがつくられる以前からありました。ヤコブ・モレノの心理療法です。
 役割分担という珍訳は珍訳で、これは、譲りようがありません。
 その珍訳を根拠に、キャラクタープレイは、伝達のときに有効な芝居として、要らなかったりするものと位置づけるのですから、疑ってかかるしかないと思います。
 こちらと馬場さんのズレと仰いますが、馬場さんがズレているだけです。こちらは、ロール・プレイング・ゲームを論じています。
 ワーク・シェアリングのセオリーに過ぎないことを、強弁しているのが馬場さんの理論の全てのような気がします。

16. なるほど

なるほど、分かり易い説明ありがとうございます。
では、次の質問で、演技がなくてもRPGが成り立つ場合もあると思うのですが、いかがでしょうか?

17. 水無月さんへ。(2)

 確かにこれだけでは、同意は得られないと思います。
 大筋として、将棋やチェスのPLの交代とRPGのPLの交代について、意味合いが大きく異なる理由を説明したいと思います。

 俵ねずみさんの論考でアートとゲームと分類されていますが、ラテン・ギリシャ時代には、「アルス」という言葉がありました。技術や芸術、哲学を総称したものです。(アーティファクトなどがその名残りです)
 RPGは人工物(アーティフィシャル)でありながら、その実態は技術の集成物とはいえない部分、まさに「アルス」が生じます。この割合は大きく単純な合理的なものではありません。PLの人格の、自己表現の、解釈の、感性の、インスピレーションの、さまざまな反映です。
 そのため、アート(語源はアルスです)のモーツァルトのレクイエムを例に出すのは詭弁とはいえないと、こちらは思います。
 「信仰とは理性ではなく、感情の産物だ」とロシア文学作家は述べていますが、信仰心の交代が致命的にできない次元で、交代ができないということと、同じ次元にあると僕は思います。

18. hatoさんへ。(3)

>では、次の質問で、演技がなくてもRPGが成り立つ場合もあると思うのですが、いかがでしょうか?

 RP/Gの式で、ゲームがゼロならば計算できませんが、RPがゼロならば、RPG要素のない「ゲーム」として成り立ちます。ゲームが母数とこちらは思うのですが、図にすると説明しやすいと思いますので、作図のお時間を頂きたいと思います。

19. 無題

僕は頭が悪いので、他のよくわからない学者の言葉じゃなく、自分の言葉で語ってください。
それと詭弁じゃないかどうかを考えるのは、読み手のほうです。
残念ですが、Betaさんの記事や返信を読んでも、こちらの納得のいくような内容ではありません(というか、こちらの意図が伝わっていないようなまとはずらな返信だと思いますので)し、理解をすることはできないと思いますので、この記事に関するコメントはこれに最後にしたいと思います。
 ただ、馬場理論が詭弁だとBetaさんが判断したように、今のままの論考ですと、Betaさんの論考もまた詭弁だと僕は判断せざる終えないのが偽らざる心境です。

20. 水無月さんへ。(3)

 よく分からない学者といいますが、ドストエフスキーです。作家です。
 「アルス」は学者の言葉ではなく、古代のギリシャ人、ローマ人が用いた言葉です。学者は持ち出してはいません。的外れだと仰る件、どのあたりか分かりません。
 ぜひ、ご理解いただけない箇所を指摘願います。

21. ボンドと寅さん

>ショーン・コネリーの「ボンド」がよかった。とか、竹中直人の「男はソレを我慢できない」のタイガーはありえないとか、ですね。

これは、「感想」ですよね、でも今語ってらしたのは、「役割演技の唯一性」ですよね。
コネリーのボンドが良かった。と、
コネリーのボンド以外はボンドじゃない。
は違う。
あくまで役者(まぁ本当は演出家なんでしょうが)の解釈の差異であって、「コネリーのボンド」以外のボンドを否定するものではない。
これが、「VCと渾名のついたルフィンというハーフエルフ(SW)のPC」をGMが別の話でNPCとして登場させたとしたら、そのNPCもまた、「VCと渾名のついたルフィンというハーフエルフ」であると主張する理由です。

役割演技の重要性は否定しません。
ですが、PCであろうとNPCであろうとルフィンはルフィン、だと思います。
喩えとして不適当だと思う。という話です。

22. Re:ボンドと寅さん

>これは、「感想」ですよね、でも今語ってらしたのは、「役割演技の唯一性」ですよね。

>あくまで役者(まぁ本当は演出家なんでしょうが)の解釈の差異であって、「コネリーのボンド」以外のボンドを否定するものではない。

 のうちの解釈「論」が、PLに当てはまる部分が大きいために、ルフィンはトラブルメーカーで、ウィットにあふれ、周りを明るくするキャラの交代ができないというのです。
 ここでキーワードは「解釈」であり、「合理的意志決定」ではないからこそ、将棋やチェスのPLの交代の差異を挙げました。
 その差異にあからさまにお気付きであれば、意味合い的にたとえを出したのは、難もありますが、他にない喩えではないかと思います。もし、伝わらなければ別の喩えによって説明を考えてみます。

23. 他の参加者の解釈も重要

例えば、トラブルメーカーで、ウィットにあふれ、周りを明るくするキャラであれ、と創られたルフィンを、キャンペーンのシナリオ1話2話でGMがNPCとして扱うことは不可能だと思います。

ですが仮に(例えば)百話二百話を共に過ごし、その間のルフィンの変化をつぶさに観察してきたほかの参加者であれば、『こんなときルフィンならこうする』が(100%の精度とは言いませんが、かなりの高確率で)理解できると思います。

逆に、(何か明確な理由がない限り)ルフィンのPLであっても、他の参加者が「ここでこうするなど、ルフィンにはありえない」と思うような行動を、ルフィンにさせるべきではないでしょう。

物語に対する関与と、それを受けての変化があるからこそ、そのPCのPL以外にも、PCの演技の向かうべき方向性が見えると思います。

例えば、(あくまで、例えばです。私は「ルフィン」を知りませんから…)ルフィンが悪魔から呪いを受け、仲間たちを罠に導かねば死ぬとなったとしましょう。ルフィンのPLはルフィンを死なせたくないあまり、日頃の道化の仮面の下、巧みに冷酷な策略を弄し、いつもの調子でトラブルを招く如く偽装し、パーティの仲間を、一人ずつ確実に罠に誘い込む。という展開はあるでしょうか?

なんらルフィンを知らない私でも、おそらくソレがルフィンではありえないことくらい予想できます。もちろん、ルフィンのPLと、ルフィンと共に旅をしたPLたちが口をそろえて「そうではない」という可能性はあります。でもそれは、私の与り知らぬ話です。

たとえキーワードが「解釈」であって、「合理的意思決定」でないとしても、「合理的解釈」は余人にも可能だと思います。故に、(決定権の有無は兎も角、)PCの解釈が、そのPLにしかできないという意見には疑問を感じます。

同じ装備、同じ能力値を持った上で、同じ名前、同じ過去設定を持ち、同じ冒険を経て、同じ判断を下してきたキャラクターであれば、その先に行なうであろう行動は合理的に解釈できます。その上で、合理的に解釈した同じような行動を取る二人のキャラクターは、(二人が同時に存在しない限り)同じキャラクターだと思います。

(もちろん、合理的解釈で行動・判断の予想のつかないシチュエーションに出くわしたときはその限りではありませんが…)

24. 合理的意志決定と合理的解釈

 「合理的」意志決定で、例えばピザの耳が好きな人とピザの具が好きな人がいたとします。まっぷたつに分けるのは「合理的」ではありません。
 「合理的」なのは互いに納得の幾分だけの具と耳の分配です。
 「合理的」解釈もただその延長にあります。
 解釈論は、「合理的」であることを許さないことが多々あります。
 ピザの場合、「何故耳がすきなのか」を答えようがないことと同じではないでしょうか。その当人がいないときにピザの耳を残しておかれてもそれは、喜ばれるでしょうか。

25. 合理的意志決定と合理的解釈補足

 ルフィンの例に当てはめるなら、どんなピザでも耳をただ残すのと同じ「合理的」意味合いだと思います。

26. つまり

>例えば、(あくまで、例えばです。私は「ルフィン」を知りませんから…)ルフィンが悪魔から呪いを受け、仲間たちを罠に導かねば死ぬとなったとしましょう。ルフィンのPLはルフィンを死なせたくないあまり、日頃の道化の仮面の下、巧みに冷酷な策略を弄し、いつもの調子でトラブルを招く如く偽装し、パーティの仲間を、一人ずつ確実に罠に誘い込む。という展開はあるでしょうか?

つまり、ルフィンの例で言えば場合によってはやるかもしれないし、やらないかもしれないということですか?

ルフィンがウィットに富んだトラブルメーカーであるハーフエルフであることは、ピザの耳がすきか具がすきか程度に、理由もなければ意味もない、単なる感想であって、気分次第で覆る設定だということでしょうか?

だとすれば、「TRPGが皆で物語を作り上げるゲーム」においてその設定は何の意味も持っておらず、まだしも、「役割分担=ムードメーカー担当・代役可」の役割分担のほうがしっくり来ると感じます。

27. roleの意味合い。

 初級クラウンでの例なのですが、the leading role:主役 a mother's role:母親の役目[仕事] play an important role in a school play:学校劇で重要な役を演じる role play:現実に似せた場面を設定し、それぞれの役割を演じさせることで対応を学ばせる教育方法。

 学校劇で重要な役を演じるを、学校劇で重要な役をつとめるでも担うでも訳は確かに成り立ちますが、母親の役割の代わりができるとか、実際、無理でしょう。母親は母親、母親代わりを演じても母親代わりです。
 ですから、こちらは、分担、交代の意味合いをどうして含むことが、しっくりくるのか分からないのです。その意味合いに固執することに何の意味もないというのが、こちらとの考えの違いでしょうか。
 思うに、「外見は中身だ」と「中身は中身だ」というレトリックの交錯を起こしているかと。確かに役割分担とすると、デザインされるシステムにバラエティーを語れます。
 そもそも、根底にコミュニケーションで成り立っている人間関係の中で、TRPGを行うという前提で、語ろうとしている意味合いが伝わっていない気がします。

28. その意味合いに固執することに何の意味もない

まったく同感です。

roleが初級クラウンに役割と載っていようが分担と載っていようが演技と載っていようが何の意味もありません。TRPGにおいて、プレイヤーが演じるところのキャラクターが、余人=他の参加者に理解され得る存在ではないと語られる点にこそ問題はあります。

そもそも、根底にコミュニケーションで成り立ち、相互のroleのやり取りによって物語を紡ぐと嘯きながら、なぜ、キャラクターはプレイヤーにしか解釈できないと断じられるのかがまったく理解できません。それでは、TRPGは参加者たちの単なるエゴの押し付け合いに堕します。

キャラクターの解釈の、主たる決定権は確かにそのプレイヤーにあります。ですが、roleがgame中の関係性の変化の影響を受けるように、逆説的には関係性の変化も受けずに、プレイヤーの思いつきで変化するべきではないでしょう。それは、プレイヤーの権利ではなく、他の参加者の物語を奪う行為です。

29. 観察、解釈、模倣。

 人間同士なら(人と人の間という意味合い)ば、説得し了承を得てというのもありですが、観察、解釈、模倣には限界があります。
 アニマル・ウォッチングで、ペンギンやニホンザルをいくら観察しても越えられない溝がある。ドードー鳥がいくら観察されつくされても、絶滅した今となっては、解釈、さらには模倣はできない。その生態はドードー鳥のしかも個体のもの。
 ただし、オランダ人が持ち込んだ犬によって滅んだという物語においては、CGで再現されたドードーでまかなえる。ドードーの個体の役割としては天敵を知らない鳥という機能であれば良い。
 物語上の機能、もしくは属性が、模倣される分にはPLの参加の意味は逆説的に無意味で、ゆえに、はじめに想定されうるシナリオの構築ができている。その逆説的仮説(シナリオ)が覆ったりするのが、実際のセッションとすれば、説明がつくかもしれません。

 ところで、SIMONさんにコメント返しのお礼をしたいのですが…。

30. 結論から言うと

ルフィンの活躍したキャンペーンの後に、同じ世界観でGMがルフィンをNPCとして登場させても、それはルフィンではないということですね。
同じ世界観ではなく、同じ歴史を持つ同じような世界であって、そのNPCもただの、VCと渾名のついたルフィンというハーフエルフであって、前のキャンペーンのルフィンではない。と。

また、唐突に天啓を受け、全く無意味に、ルフィンが孤児院の子供たちを虐殺し、鎮圧に来た自警団にファイアボルトを撃ち込んだとしても、PLがそう解釈したといえば、他のPL、GMにも解釈の威を挟むことはできない。なぜなら、それがオリジナルのルフィンだから。第三者がどれほど観察し、関わりを持とうと、他の何者にもルフィンを真に理解することはできない。そういう結論と解釈してよろしいですね。

比喩・引用ではなく、Yes/Noでご教授ください。

あと…コメントのお礼といわれても、自分も(貴Blogに)勝手に興味を抱いて、勝手に言い散らかしているだけなので、お気遣いなくとしか答えようがないです。

あえて言うなら、今後とも物語から見るTRPGに関し、興味の持てる見地を提供していただけると共に、いつか西部劇TRPGの完成品を拝見する機会を与えていただければ、それに勝るお礼はありません。

(むしろここ数回のコメントに関してはお礼どころか苦情を言われても仕方ないものになっている気もしますが…)

31. Re:結論から言うと

 ルフィンの例で言えば、物語上ありえないエゴの発揮を恐らくそのコミュニケーションの場の崩壊と意図して、

>唐突に天啓を受け、全く無意味に、ルフィンが孤児院の子供たちを虐殺し、鎮圧に来た自警団にファイアボルトを撃ち込んだとしても、

 が成り立つかもしれません。例えば、ルフィンが、リプレイに無断で載せられ、某巨大掲示板などに悪意を持ってさらされたり、ならば、ルフィンの最期としてはあり、yesです。
 他の事情でその場のほかのプレイヤーの物語を奪うとしても、あり、yesです。

 物語上ありえない場合のとっぴな役割演技は、コミュニケーションの不成立に原因があり、コミュニケーション上の成立でもエゴの衝突になるのは、物語上の不成立。
 あちらが立てばこちらが立たずのジレンマで分析するのが正論かと思います。

 役割分担は、個人的には役割演技で成される構成であって、ロールプレイとは役割分担だから、と強弁するものではないものと思います。
 全員戦士のパーティーでも、それぞれが「マジックユーザーなんか信じないぜ。俺たち戦士で片がつくぜ」というパーティーが開かない扉にぶち当たるのはありです。
 それが壊滅的被害を受けても、やはり、「俺たちの信念が間違っているわけではない」と、演りあうのは、ありです。
 その後、役割分担の大切さを説くのは役割演技でこなせば良いと思います。

32. 個人的には残念ですが

納得しました。

ルフィンとは関わりのない「痰壷」のせいでルフィンの物語が終わり得る、というのは残念な話ですが…。

昔々、田中芳樹先生は「創竜伝」のヤオイ本を見て「子供をポルノに出して喜ぶ親は居ない」と憤慨し、作中で男色趣味のある敵を登場させ、四兄弟に撃破させたことがある。一方、菊池秀行先生はヤオイ本に登場したDr.メフィストを受け入れ、その後の作品でDr.メフィストに男色趣味を与えた。なんとなくその話を思い出しました。
(実際のところ、因果関係は当の先生方にしか把握できない話ではありますが)

役割分担に関しては、自分もおおよそ同感かと思います。
全員、ちょっと短絡熱血突貫戦士のパーティーでもロールプレイは可能だと思いますが、物語上の立ち位置、スタンス、キャラ立ての観点からも、役割分担は重要(必須ではなくあくまで、重要)だと思いますので。

33. Re:個人的には残念ですが

 こちらも残念ですが、人間関係の健全な構築ができない方(僕も自覚は不十分と認識しております)は、現実、このような問題にぶち当たります。
 馴れ合いと揶揄されても、馴れ合いに固執したりして、コンベンション参加を拒否するのは、こういった問題からではないかと思います。
 コンベンション・ジプシーなんて、内輪の呼び名でさえ、差別的に用いられたことがあります。
 所詮人間のやること、できることまでです。
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