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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]コミュニケーションがTRPGで見えなくなる理由。

 先の例で、「めがね」を挙げましたが、TRPGは、その世界に没入すると、コミュニケーションが見えなくなる現象の格好の例になります。

 近視のわれわれは、「めがね」に対して、遠ざかっている。「めがね」なしでは何も見えなくなるのに、われわれは、「めがね」を失った時点で、やっと、「めがね」への遠ざかりを奪おうとする。
 普段、「めがね」は、あくまで配慮や気づかいの対象ではなく、失くしたときにこそ意識される。失くしていないとき、「めがね」は意識から遠ざかっている。

 TRPGもあくまでコミュニケーションであり、他者は、配慮・気遣いの対象である「間主観」である。TRPGは、あくまで「めがね」であって、TRPGのセッションの話題(ゲーム世界の話題)に没入すると、コミュニケーションであることを忘れてしまう。「めがね」は意識から遠ざかっているようにコミュニケーションは意識から遠ざかっている。このとき、TRPGのセッションの話題(ゲーム世界の話題)に没入しているため、TRPGによるコミュニケーションが意識されないのである。

 われわれは、TRPGが、「めがね」と同様に、コミュニケーションの単なる道具であること、TRPGを切り結ぶ関係を断ち切られた時に、それが、本当にコミュニケーションであったのかを問うことができる。


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[TRPG]ゲーム性と物語:プラクシスとテオリア

 最近齧ったハイデガーやフッサールの現象学を適用すると、ある「めがね」には意味があり、その意味にはほかのものを想起させる作用があり、それを超えて飛び出す地平があると考える。
 つまり「めがね」を知覚した時点で、意味の解釈は起こり時間的内容を持った物語がわれわれの中に含まれている内から現出する。
 ちなみに、前期ヴィトゲンシュタインは、事物、事態、などと論理的に範疇をくくっていくが、それでももちろん、この「事物的めがね」には意味と想起と時間が含まれた考察である。
 分りやすく言うと「めがね」と言った時点で、たった一語で、厳密には「物語」があるということ。

氷川TRPG研究室
「RPGと物語:物語とは何か」
http://www.trpg-labo.com/modules/forum/index.php?topic_id=67
「RPGと物語:物語に対する態度」
http://www.trpg-labo.com/modules/forum/index.php?topic_id=68

>今回は、「物語」に対してどのような態度で臨むか、についてだ。

>これには二つの態度がある。

>ひとつは、「物語こそTRPGだ」と考える態度。
>もうひとつは、「物語は結果」と考える態度だ。

 この「物語こそTRPGだ」と展開させているTRPGのもろもろの処理は実践的プラクシスです。
 そして「物語は結果」は、反省的な理論的テオリアです。

 換言するなら「意味をしめすのが記号だ」「記号が意味を持つのだ」とソシュール記号論の陥穽か。

 この態度の比較は別のことを論じる取り違えをしているのではないでしょうか。
 テオリアを重んじるのか、プラクシスを重んじるのか、どちらでも構わないはずでしょう。どちらかに決めても極端なプレイスタイルになるだけで、かち合うわけではないでしょう。

 例えるなら、調理と食事のどちらを重視し、どちらが上手くできたのかを問うような取り違えです。

 食事をするときに、中華を食べにいこうと、おいしい「調理」を求めて外出し、席に着いてメニューを見て、注文し、普通はわれわれは「食事」を楽しんで帰ります。これを「外食する」と言います。

 「TRPGで遊ぶ(外食する)」には、面白い物語になるように、時間調整や場の確保、メンツ集め、システム選択、シナリオ作り、キャラクター作り(ここまでが調理)、そして、セッション(食事)を行います。ここまでが実践的プラクシスの境目です。

 ゲームが終わったときに物語性が充分に発揮できたのか、予想しなかったワクワクする様な方向に行ったのか、悲惨なダイスのトラブルに見舞われ続けお話が成り立たなかったのかなどが反省的な、理論的テオリアの領域です。
 あの中華料理は高いのに不味いとか、雰囲気がよかったとか、外食の解釈を総合的に行い、格付けしたりする。「調理」「食事」は物語要素もあれば、手順的ルール要素がある。反省的な、理論的テオリアにおいて、どちらかをある階層において分析しても、全体の連関性を失い、分析手法でもともと想定いた結果しか得られない。

 ですから、わざわざ込み入ったお話でもなく、きっちりと、「物語とは、反省会も含むようなTRPGというプラクシスもテオリアも含む展開の連鎖である」と思います。テオリアとプラクシスは同時にセッション中、行われています。「TRPG自体が物語」と言ってもいい。

 そしてまた、TRPGのシステムそれぞれに特徴があって、共通項となる理論構築は、あまり役に立たないと思います。TRPGの具体的な要素の共通項を語ることに何か意味があって生産的だとは僕は思えません。

 結局、TRPG自体が、物語であり、ゲームであって、ある要素を抽出してしまったら別物です。ですから、TRPG自体が「面白かったり、つまらない物語をTRPGのルールとマナーにのっとり」、話題に上ってくる「展開の連鎖」という全体からなる構成物として、部分を語るにはその連関に特に注意して語るべきではないでしょうか。


[TRPG]7.TRPGの解釈論性:解釈学的循環、有機体の論理(2)


ノエシス・ノエマ

 意識現象をノエシス-ノエマ関係で捉える。意識現象に意味統一を与えて、対象存在を構成する意識の働きをノエシスと言います。ノエシスを日本語に訳すとすれば「意識の意味付与作用面」かあるいは単純に「作用面」です。そしてこの構成された対象性をノエマと言います。
 例えば色や形や重さや匂いなどの感覚諸要素を素材にして薔薇という対象を意識が構成するとしますと、この構成する働きがノエシスで、構成された意識としての薔薇は対象面として捉えられています。この意識の対象面としての薔薇がノエマに当たるわけです。



フッサールの現象学

フッサール

 さて、数学者フッサールははじめ、ブレンターノのいわゆる記述心理学の影響を強く受けて、全体と多、基数や序数など集合論や数論の基本概念の起源を人間の心理過程のうちに求めようとしたが、やがて、数というものを「数える」という心的作用による構成物とみなす心理主義的な考え方に批判的になる。
 (中略) 『イデーンⅠ』(1913)への展開の中で、フッサールは、心理主義と論理主義の対立を止揚するような新しい立場を提示する。意識の志向的分析という立場である。そこでは、主観的な認識体験と客観的な認識内容(イデア的対象)との相関関係が、志向性という意識の動的連関(ノエシス-ノエマ連関)として捉えられる。いかなる存在であれ、それが対象として意味をもっているかぎり、それに対応する意識の構成的な作用に遡って関係づけられねばならない、という考え方である。
 意識のそうした世界構成的な働きがフッサールのいう超越論的主観性なのであって、それへと分析の作業場を転換する操作が現象学的還元である。(中略)現象学は世界から改めてそういう自明性の被いを剥ぎとり、世界がそのようなものとしてわれわれに現れてくるようになるそのプロセスを分析しようとするのである。
 ところで、対象はつねに一定の<地平>のなかで与えられる。われわれがある対象を志向するときには、同時にさまざまの意味の地平が、いつもその志向をあらかじめ規定するかたちでともに働き出している。(中略)対象はつねに世界を地盤としつつ、世界の中に現れると言える。(中略)それゆえに現象学は、世界を経験するわたしたちの意識においていつも働き出しているプロセス(受動的総合)、さらにはそういう先行的な構成過程全体の時間的な生成に、より深く分析のメスを入れていくことになる。この分析作業が発生的現象学と呼ばれるものである。
 そしてその過程で、現代哲学の新たな問題地平を開くようないくつかの重要な問題が浮上してくる。その核心にあるのは、超越論的な意識への還元という、現象学のもっとも基幹的な操作の不可能性という問題である。(中略)それがたとえば、身体性であり、間主観性[相互主観性]である。(中略)その後、伝統的な心身問題や他者問題、感覚論や社会性論に新たなパースペクティヴを開くものとして、現象学以外の哲学・人文社会科学の研究にも大きな影響を与えることになる。またこれらの過程全体が生活世界論として展開されるのだが、その中で、われわれがつねに現象としての世界の現れの背後に想定している科学的・客観的な世界の存立も、こうした「根源的なドクサの世界」としての生活世界に被せられた「理念の衣」にすぎないと相対化される。客観主義的な見方をとる科学においては[理念化という]方法の産物に過ぎないものと存在そのものとが取り違えられていると言うのである。この科学批判は、「究極的な基礎づけ」の不可能性、相対主義などといった現代の科学哲学の問題に大きな影響を与えた。

 



 

第二部 反省理論と解釈理論

第六章 解釈学の論理と展開

第二節 解釈学的循環 哲学的解釈学の展開

 解釈学的循環とよばれる全体と部分との交互規定の働きを経験の次元において見出しこれに精緻な分析を加えたのは、フッサールの現象学である。フッサールは、一方で、知覚を直接に与える直観の原的明証性とみなすが、他方では、知覚を「解釈作用(deuten)」ともみなしている。(中略)志向性の規定には、方向性の契機や明証性の契機とともに意味的差異性の契機が含まれていることを顧慮すれば、このことはけっして矛盾したことではない。意味的差異性とは、志向性が何かを何かとして思念する意味規定の作用であることに基づいている。いいかえれば意味と意味されるものとの間に起こる差異化の働きである。(中略)1920年代に着手された地平(Horizont)の現象学的分析は、まさにこの差異化つまり知の意味論的パースペクティヴ性の徹底的な考察であり、現象学と解釈学との交差領域を表す原型的な現象の解明となっている。(中略)対象はけっしてそのつどの規定によっては規定し尽くせるものではなく、そこにはたえず余剰が残る。主題的規定的作用と同時にこの「より以上のもの(Mehr)」へ向かっての超出が働くのであり、この働きが地平しこうせいである。(中略)さらには、対象の完全な所与性が実現不可能ではあるが、経験の進行がそれに向かって近似化してゆく目標としての、統制的理念とし捉えられ、そのことによって経験の過程はパースペクティヴ化と脱パースペクティヴ化との緊張関係とみなされ、経験の進行のなかで科学的思惟の成立を促す運動が起きていることが探られている。

 ハイデガーがなぜ、デカルトが「客観」という概念を残したのかについて、「存在と時間」では、デカルトが、神の存在を疑うことのできなかった時代背景にあったからだと指摘している。
 主観・客観の二元論はこのようなかたちで、神の解釈は絶対的な定言命題であり、解釈学的循環は起こらない。図にするとこのような感じ。

デカルト主客観論

 一方フッサールが経験の次元で見つけた解釈学的循環は、あえて図にすると、僕の解釈ではこうなる。

フッサール(ノエシス・ノエマ)
◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

 


[WESTERN](SoundTrack)ベスト・オブ・マカロニ・ウエスタン

 ベスト・オブ・マカロニ・ウエスタン(CD)

 1960~70年代に一世を風靡したマカロニ・ウエスタン。「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」などの名曲・名演の数々を、エンニオ・モリコーネはじめ、豊富なRCA音源の中から選曲した全20曲。スクリーンを彩ったあのヒーロー、名シーンが、音楽とともによみがえる。

 とあります。ゲーム会社コナミの小島プロのKさんが持ってきてくださいました。お薦め。


1 さすらいの口笛 エンニオ・モリコーネ楽団
2 荒野の用心棒 エンニオ・モリコーネ楽団
3 夕陽のガンマン エンニオ・モリコーネ楽団
4 荒野の1ドル銀貨 マッチ・デ・レオーネ楽団
5 続・荒野の1ドル銀貨 マウリツィオ・グラフ/エンニオ・モリコーネ楽団
6 さすらいの一匹狼 マグリオ・デ・バッシ楽団
7 続・荒野の用心棒 ルチアーノ・パガーノ楽団
8 続・さすらいの一匹狼 ロッシ・ビアンコ楽団
9 南から来た用心棒 ラオール
10 帰って来たガンマン リスティ・カルダレーラ楽団
11 続・夕陽のガンマン ウーゴ・モンテネグロ楽団
12 ガン・クレイジー ビアン・マンシオーネ楽団
13 荒野の10万ドル ルチアーノ・パガーノ楽団
14 無宿のプロ・ガンマン ルチアーノ・パガーノ楽団
15 皆殺し無頼 ワイルダー・ブラザース
16 怒りの荒野 リズ・オルトラーニ楽団
17 星空の用心棒 ルチアーノ・パガーノ楽団
18 復讐のガンマン ルチアーノ・パガーノ楽団
19 真昼の用心棒 グレコ・デ・アンジェリス楽団
20 情無用のコルト ニコ・フィデンコ


[SYS]「ヒット」「バイタル」「メンタル」プレッシャー

 「ヒット」「バイタル」「メンタル」プレッシャーとは、不都合な負荷の値を示します。
 これらのプレッシャーを受けても、物語上、盛り上がりの都合上、キャラクターのスペックには何の影響もありません。
 ただし、これらを演出してダメージを負ったり、疲れや病気、自棄酒などを演出したロールプレイができるようになります。それが評価されるものであればポイントが与えられます。
 命中判定の結果も都合上無しとして処理できますが、ありとしてもよいのです。

[SYS]暫定のキャラクターシート&レコードシート

 できるだけ公開していくと決めたことなので、以下が暫定のキャラクターシートとレコードシートになります。

↓ こちらがキャラクターシート(1)
キャラクターシート1

↓ こちらがキャラクターシート(2)
キャラクターシート2

↓ こちらがレコードシート「人間関係シート」
レコードシート1

です。

ダウンロード(pdf)

[SYS]ヒーローポイントを体質改善療法にすえる。(2)


 [SYS]ヒーローポイントを体質改善療法にすえる。

の続きです。

 PL一人につき、初期ポイントを(例えば20)として割り振ります。

 GMは「起・承・転・結」にあわせてPL一人につき(例えば計20点、起・承・転・結で各5点)シーン割りで供給の限界のポイントを持ちます。

 GMが、この限界のポイントを敬遠して減少させることにした場合には、PLの演出やアクティブな盛り上がりを失うのですから、GMは、この難しいセッションが楽しいものであったとされれば、多くの経験ポイントを得ます。
 逆の場合、GMが、この限界のポイントをもっと供給した場合、PLの演出やアクティブな盛り上がりで、たやすく支援されるので、GMは、この易しいセッションが楽しいものであったとされても、経験ポイントをあまり得られません。

 PLは初期ポイントを失うことで、「オイシイ・キャラダチ」を得ます。今後の展開でもともとポイントを得やすいはずだからです。
 逆の場合、「オイシクナイ・キャラダチ」を選べば、初期ポイントを増やされます。今後の展開で、ポイントを得にくいからです。

 プレイ進行で一時的にせよ獲得して行ったポイントを累積してカウントし、高ければ高いほど、PLは多くの経験値が得られます。

 ポイントは、都合の良い演出を発揮するために用いることが出来ます。「五線譜判定」では、もちろん、以下にあげる「ターゲット・システム」にもその用途のために適用されます。

サイコロによる偏差を突破する

サイトスクリーンの運用。

同時と逐次手番、命中部位、一括処理。

精度係数と半数必中界

サイクロイド・カム・ライン

CEPから判定誤差を十進法で得る理由。

 ただし確率論的に見て不自然な変更の演出には多くのポイントを賭けなくてはならない、とします。

 Wikiのロールプレイ支援システムで問題視される評価基準のバロメーターについての解決策になるはずです。

[TRPG]6.TRPGの解釈論性:解釈学的循環、有機体の論理


第二部 反省理論と解釈理論

第六章 解釈学の論理と展開

第一節 解釈学の論理を制約しているもの

とにかく解釈学の論理の事象的な基盤となっているものは、いったい何であるのだろうか。(中略)
まず第一に挙げられるのは、人間の知が原理的に免れえないパースペクティヴ性(Perspektivitat)または視点による拘束性(Gesichtspunktgebundenheit)である。第二に(中略)人間にとって生きられる論理としての「有機体(Organismus)」の論理が挙げられる。さらに、第三に記憶の固定化としての書物(Schrift)の原理が挙げられる。

第二節 解釈学的循環 哲学的解釈学の展開

 まずこの循環の働きが知見(ケントニス)を学問にまで高める場合に必要であること、そしてとくにテクストの読解(レーゼン)において生起すること、このことを定式化したのは、シュライエルマッハーである。彼は次のように語っている。
 「どんな場合でも完全な知識は、この見かけのうえの円環の内にある。すなわち個々の特殊なものは、それが部分をなしている一般的なものからのみ理解されうるとともに、その逆でもある、という円環の内にある。そしてどのような知識であれ、このように形成される場合にのみ学問的である。だから解釈されねばならないものは一度に理解されるのではなく、むしろどのような生も、先行的な知見(フォルケントニス)を豊かにすることによって初めて、よりよき理解をもたらすことができる。重要でないものの場合には、われわれは一度に理解されたもので十分である」

shu

 図示するとこのような解釈学的循環がシュライエルマッハーの有機体の論理でしょうか。
 ディルタイは、この節にも触れられていますが、

2.TRPGの解釈論性:解釈こそは技術である

で示したように、以下の図示でよろしいかと思います。


dhi

◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次