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ノエシス・ノエマ

 意識現象をノエシス-ノエマ関係で捉える。意識現象に意味統一を与えて、対象存在を構成する意識の働きをノエシスと言います。ノエシスを日本語に訳すとすれば「意識の意味付与作用面」かあるいは単純に「作用面」です。そしてこの構成された対象性をノエマと言います。
 例えば色や形や重さや匂いなどの感覚諸要素を素材にして薔薇という対象を意識が構成するとしますと、この構成する働きがノエシスで、構成された意識としての薔薇は対象面として捉えられています。この意識の対象面としての薔薇がノエマに当たるわけです。



フッサールの現象学

フッサール

 さて、数学者フッサールははじめ、ブレンターノのいわゆる記述心理学の影響を強く受けて、全体と多、基数や序数など集合論や数論の基本概念の起源を人間の心理過程のうちに求めようとしたが、やがて、数というものを「数える」という心的作用による構成物とみなす心理主義的な考え方に批判的になる。
 (中略) 『イデーンⅠ』(1913)への展開の中で、フッサールは、心理主義と論理主義の対立を止揚するような新しい立場を提示する。意識の志向的分析という立場である。そこでは、主観的な認識体験と客観的な認識内容(イデア的対象)との相関関係が、志向性という意識の動的連関(ノエシス-ノエマ連関)として捉えられる。いかなる存在であれ、それが対象として意味をもっているかぎり、それに対応する意識の構成的な作用に遡って関係づけられねばならない、という考え方である。
 意識のそうした世界構成的な働きがフッサールのいう超越論的主観性なのであって、それへと分析の作業場を転換する操作が現象学的還元である。(中略)現象学は世界から改めてそういう自明性の被いを剥ぎとり、世界がそのようなものとしてわれわれに現れてくるようになるそのプロセスを分析しようとするのである。
 ところで、対象はつねに一定の<地平>のなかで与えられる。われわれがある対象を志向するときには、同時にさまざまの意味の地平が、いつもその志向をあらかじめ規定するかたちでともに働き出している。(中略)対象はつねに世界を地盤としつつ、世界の中に現れると言える。(中略)それゆえに現象学は、世界を経験するわたしたちの意識においていつも働き出しているプロセス(受動的総合)、さらにはそういう先行的な構成過程全体の時間的な生成に、より深く分析のメスを入れていくことになる。この分析作業が発生的現象学と呼ばれるものである。
 そしてその過程で、現代哲学の新たな問題地平を開くようないくつかの重要な問題が浮上してくる。その核心にあるのは、超越論的な意識への還元という、現象学のもっとも基幹的な操作の不可能性という問題である。(中略)それがたとえば、身体性であり、間主観性[相互主観性]である。(中略)その後、伝統的な心身問題や他者問題、感覚論や社会性論に新たなパースペクティヴを開くものとして、現象学以外の哲学・人文社会科学の研究にも大きな影響を与えることになる。またこれらの過程全体が生活世界論として展開されるのだが、その中で、われわれがつねに現象としての世界の現れの背後に想定している科学的・客観的な世界の存立も、こうした「根源的なドクサの世界」としての生活世界に被せられた「理念の衣」にすぎないと相対化される。客観主義的な見方をとる科学においては[理念化という]方法の産物に過ぎないものと存在そのものとが取り違えられていると言うのである。この科学批判は、「究極的な基礎づけ」の不可能性、相対主義などといった現代の科学哲学の問題に大きな影響を与えた。

 



 

第二部 反省理論と解釈理論

第六章 解釈学の論理と展開

第二節 解釈学的循環 哲学的解釈学の展開

 解釈学的循環とよばれる全体と部分との交互規定の働きを経験の次元において見出しこれに精緻な分析を加えたのは、フッサールの現象学である。フッサールは、一方で、知覚を直接に与える直観の原的明証性とみなすが、他方では、知覚を「解釈作用(deuten)」ともみなしている。(中略)志向性の規定には、方向性の契機や明証性の契機とともに意味的差異性の契機が含まれていることを顧慮すれば、このことはけっして矛盾したことではない。意味的差異性とは、志向性が何かを何かとして思念する意味規定の作用であることに基づいている。いいかえれば意味と意味されるものとの間に起こる差異化の働きである。(中略)1920年代に着手された地平(Horizont)の現象学的分析は、まさにこの差異化つまり知の意味論的パースペクティヴ性の徹底的な考察であり、現象学と解釈学との交差領域を表す原型的な現象の解明となっている。(中略)対象はけっしてそのつどの規定によっては規定し尽くせるものではなく、そこにはたえず余剰が残る。主題的規定的作用と同時にこの「より以上のもの(Mehr)」へ向かっての超出が働くのであり、この働きが地平しこうせいである。(中略)さらには、対象の完全な所与性が実現不可能ではあるが、経験の進行がそれに向かって近似化してゆく目標としての、統制的理念とし捉えられ、そのことによって経験の過程はパースペクティヴ化と脱パースペクティヴ化との緊張関係とみなされ、経験の進行のなかで科学的思惟の成立を促す運動が起きていることが探られている。

 ハイデガーがなぜ、デカルトが「客観」という概念を残したのかについて、「存在と時間」では、デカルトが、神の存在を疑うことのできなかった時代背景にあったからだと指摘している。
 主観・客観の二元論はこのようなかたちで、神の解釈は絶対的な定言命題であり、解釈学的循環は起こらない。図にするとこのような感じ。

デカルト主客観論

 一方フッサールが経験の次元で見つけた解釈学的循環は、あえて図にすると、僕の解釈ではこうなる。

フッサール(ノエシス・ノエマ)
◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

 

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