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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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西部劇のマンネリズムまたはシンタックス(文法)

 開発当初から意識していたのですが、西部劇にはお約束があります。

 ヒーローは必ず左腕又は肩を負傷する。

 ガトリングガンが出てきたら、とりあえずエキストラの悪役は「わーー」と叫んで倒れる。

 などなどです。これは史実と映画の扱いの上では、全く異なり、西部劇のマンネリズムまたはシンタックス(文法)と呼べるものです。この部分を簡単に組み込めるような優しい設計を計ることで、マスタリングしやすくなるかと思います。

 ファンタジーものの「お姫様と王子様は末永く幸せに暮らしました」というお約束と一緒で、また、「スフィンクスは必ず謎掛けをしてくる」などがそうです。
 西部劇は開拓精神ばかりではなく、騎士道精神が最も重要で、「もっとも男が男らしく、もっとも女が女らしかった時代」と呼ばれる舞台なのです。

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[SYS]サイクロイド・カム・ライン

Grid.png

 本ゲームデザインの企図は、演技こそシステムに反映させるべきだ、と言うのが一つあります。

 ひねり出したのが「サイクロイド・カム・ライン(SCライン)」の概念です。

 このSCラインに外接する円の半径の大小、SCライン自体をジグザグや、曲線の山型、谷型として、発揮の期待量をコントロールします。

 横軸と縦軸が、片方立てれば片方立たず、の場合、SCラインは横軸と縦軸の交差点(原点)に対して図のように谷型や山型になります。

 外接する円は、時間進行の消耗やダメージによって拡大していきます。微妙なコントロールが発揮できなくなります。
 この円にはサイト・スクリーンを用います。

 SCラインは、ストーリー上のキャラクターのヒーローポイントを置き換える新しい手法です。
 例えば、「大好きな幼馴染を必死に守るとき」のSCラインは変化します。
 コンシューマーCRPGの「ガンパレードマーチ」に似たシステムだそうですが、SCラインの概念はないそうです。

 エントリー記事

http://western.blog.shinobi.jp/Entry/49/

の一般判定の方法の延長。

 この方式によって、ロスト・ワールドの色物系の

クイーンズ・ブレイド

のような、ゲームブックのパラグラフから、脱出させることも可能かと思われる。


 「五線譜判定」

の二つの要素を抽出したりもできる。

 それから、お店のお客様からの情報によると、社会思想社の「ウォーロック」で名を馳せた摩由璃さんの消息をお聞きすることができ、脳溢血で倒れたけれども、何とかご回復し角川系で作品を書いていらっしゃるそうです。


[TRPG]TRPGの宿命。

 カイヨワの「遊びと人間」より。抜粋。
 


 

 

 

アゴン
(競争)

アレア
(運)

ミミクリ
(模倣)

イリンクス
(眩暈)

パイディア
(遊戯)
騒ぎ
はしゃぎ
馬鹿笑い

凧揚げ
穴送りゲーム
トランプの
 一人占い
クロスワード
ルドゥス
(競技)

競争
取っ組み合いなど
↑規則なし

運動競技

ボクシング
玉突き
フェンシング
チェッカー
サッカー
チェス
スポーツ競技全般

鬼を決める
 じゃんけん
裏か表か遊び
賭け
ルーレット

単式富くじ
複式富くじ
繰越式富くじ

子供の物真似
空想の遊び
人形、おもちゃ
 の武具
仮面
仮装服

演劇
見世物全般

子供の
「ぐるぐるまい」
メリ・ゴーランド
ぶらんこ
ワルツ

ヴォラドレス
縁日の
 乗り物機械
スキー
登山
空中サーカス


 われわれの求めるTRPGはルドゥスのあるミミクリとアゴンであって、アレアやイリンクスは求めない。ミミクリのルドゥスこそが「ストーリー性」「ロールプレイ(役割分担ではなく役割演技)」である。
 なお、ミミクリはイリンクスと結びつきやすいのは、アゴンがアレアと結びつきやすいのと同様である。これは遊び全体に言えて、TRPGの特有の傾向ではない。






 

社会機構の
外縁にある
文化形式

社会生活に
組み込まれている
制度的形態

堕落

堕落の内訳

アゴン
(競争)
規則のある
競争において、
自分の能力だけに
よって勝利を
得ようという野心

スポーツ

企業間の競争
試験、コンクール

暴力、
権力意志、
術策

 成功だけを目的とするようになる。
 公正な競争の規則は蔑視される。
 規則は窮屈で偽善的な約束事に過ぎぬとみなされる。
 卑劣な攻撃も、勝てば正当化される。

アレア
(運)
運命の判決を
不安と受身の姿勢で
待つために、
意志を
捨て去ること

富くじ
競馬場
施設賭博

株式投機

迷信、
占星術など

遊戯者が偶然を尊重しなくなる。
不可知の力と前兆の不思議に人生の運営をゆだね、虚構の照応体系を機械的に適用しようとする誘惑は、人間の本質的な特権をできるだけ活用しようとする勇気を人間から奪い去り、人を宿命論に追いやる。
現象間の関係を鋭く見抜く力を奪ってしまう。逆境に耐え、成功を勝ち取る気力をくじく。

ミミクリ
(模擬)
他人の人格を
装う好み

カーニヴァル
演劇
映画
スター崇拝

制服、礼儀作法
儀式、
表現に携わる職業

狂気[疎外]
二重人格

模擬が模擬でなくなると、自分を他者であると信じ、それに従って行動し、本当の自分を忘れる。表面だけでなく奥深いところで自分が自分でなくなる。
この自己喪失は、明確な限界が疎外を防ぐが、夢と現実の識別がはっきり付かなくなったとき、すなわち、その人物が空想的で侵略的な
第二の性格を、(自覚的にも)身に付けて来ると[疎外]が発生する。
その第二の性格は当然現実と両立しないが、現実に対して途方もない権利を要求する。やがて疎外者[狂人]、他者となっているものが、現実と言う頑固な舞台装置、承認し得ない、不可解な、挑戦的なこの装置を否定し、屈服させ、破壊しようと絶望的にあがくことになる。

イリンクス
(眩暈)
眩暈の追求

登山、スキー
空中サーカス
スピードの陶酔

眩暈の統御を
見せる職業

アルコール中毒、
麻薬

望ましい興奮や官能的パニックを、人は薬品[麻薬]かアルコールに求めることになる。
遊び、すなわち、常に偶発的で自由な活動とは正反対のところに追いやり、酔いと中毒とにより、眩暈は現実への進入を強め、その度合いは、慣れ[中毒]が生じるにつれて一層広がり、有害になる。
この慣れのため、そこを越すと目当ての惑乱を味わいうる[刺激―反応の]閾が絶えず押し上げられていく。


 ミミクリによる堕落やパイディア傾斜の回避に、奇妙な(鏡氏の)自由論、つまりミミクリのパイディアを目論みアゴンへのルドゥス否定で結局アゴンのパイディア傾斜(又は堕落)に走る論や、ゲーム理論を盾にした(馬場氏の)大層なアゴンへの傾斜による(イリンクスに関与しやすい)ミミクリのルドゥス否定論は具体例とさせていただくが、TRPG論考サイトで認められると思う。

 創造的、生産的な組み合わせは競争と模擬、アゴンとミミクリである。カイヨワ氏はこの組み合わせは滅多にないとしながら、この二つにこそ生産的創造的要素が認められるとしている。TRPGはゆえに、生産的で創造的な遊びであることを宿命付けられている。

 堕落が起きなければいいだけのことを、百家争鳴の喧々諤々の議論になるのはおかしなことで、創造的、生産的なことをもっと語るべきだと思う。

 また、「補論: 二 教育学から数学まで 2 数学的分析」には、ゲーム理論についての遊びへの適用の全く正当な反論が述べられており、僕もカイヨワ氏と意見を一致する。数学者がカードゲーム程度の確率を求めたり、意志決定論を述べたとしても、人間は遊びに合理的選択を強制されては楽しめない。

 「補論: 三 遊びと聖なるもの」には、肝に銘じたい箇所がある。
 「ごまかしをやるものよりも悪いものがいることも、忘れてはならない。それは、規則を馬鹿にしたり、規則には根拠がないと言ったりして、遊びを拒み、あるいは蔑む者である。(中略)こういった「祭に水をさす人」(aguafiestas)すなわちうわべだけの懐疑論者や、疑い深い人ほど、文化にとってぶちこわしなものはないのだ。彼らは、何事につけても薄笑いをうかべ、そのことで、自分を偉いものに見せられると無邪気に思いこんでいる。自分たちで、もっと愉快でもっと大事な新しい遊びの規則を作ろうという心づもりで偶像を破壊し、?聖を行っているなら話は別だが、そうでないかぎり、彼らは、無限の苦労が蓄積してきた貴重な宝を、徒し心から傷つけているにすぎないのだ。」
 とある。自戒としたい。


[TRPG]関係、変化、解釈。

 懐かしの幼稚園当時、僕は「ハカセくん」キャラで、図鑑が大好きでした。
 幼稚園の先生は、ある程度の漢字が読める僕を可愛がったそうです。泣き虫で、分らないことは分らないことと、済ませることができず、わからないことが悲しみでした。

 遠足の幼稚園のアルバムには、「どうして遅いのか」と泣きじゃくっていて、手をつないでいる女の子が困った顔をしている恥ずかしい写真があります。

 その先生から、教えられたことがあります。

 かいつまむとこうです。
 「何にでも関係があって、変化があって、解釈がある」
 もっと単純に、つながりがあって、変わるから、そこではじめて考えるんだよ、と。今では恥ずかしいながらも温かな思い出です。

 何でも知りたがり君のために保母さんは、このように教えるものだと、新聞に載っていました。

 これは、どんな学問にも、どんな理論にも、根底に流れています。

 TRPGの基礎も同じ、です。
 「関係」「変化」「解釈」です。それを繰り返してセッションは運営されます。
 そして、その発展も、同じ原理が働きます。

 そこから、TRPGの特徴的な要素や特徴的な理論が構築されるということで、的外れにはならないと僕は思います。
 突拍子の憂いや、疑わしい権威らしきものからの出発などしなくてもいいのではないでしょうか。
 われわれは、ハイデガーや仏教の教えどおり、因果律で事物を捉えます。そう宿命付けられた「ハコ」なのです。

[TRPG]僕のゲーム理論のTRPGへの適用。

 ガンプレイで、トルネード吉田先生が、両手バタフライ(両手てふてふ)と言う技を披露されるのですが、拳銃を両手で、上方向にも下方向にも、横回し(普通の回し方は垂直回しだとしたら、水平回しです)をすることが出来ます。
 

 お話を伺ったところ、何が難しいかと言えば、それら手元を見ずに、「いつもより多めに回っています~」と首を観客に向け、観客の顔を見ること、拍手を得ることだそうです。
 

 ガンプレイの上達であればそんなことはどうでもいいことなのですが、ショーとしては「必ず」やらなければならない。
 

 これはTRPGでも同じことが言えます。
 いくら、データ上の強さや、特色や、意志決定や、役割演技などを巧く行えたとしても、皆を楽しますことができるかが、重要なのです。
 名チェスプレイヤーの指南はあと一歩のところになるように手を落として貴族たちにチェスを楽しませました。賞金がかかっても勝負以前に娯楽でしかない。
 

 まず、第一にそこの誤解が解けないと、ゲーム理論の単純なお話さえ理解不能になってしまいます。
 

 ゲーム理論で、利得表の前書きに何の内容であるかが示されます。お金だったり、人の命だったり、ピザの切れ端だったり、布切れだったりします。もし、貴方がその立場であれば、という想定があります。
 

 TRPGの場合、「その立場であったら」、その時点で架空の人間の役割演技であり、なおかつ娯楽であることが前提になります。
 

 ゲーム理論から何百歩か遠ざかっているという指摘は間違いでしょうか。
 

 ゆえに、ゲーム理論を楯にTRPGの上達云々は間違いであり、役割演技、芝居、感情移入の駆逐は、ゲーム理論を援用するうえでさえ、全くの誤謬になるのです。


 

 

[TRPG]アディオス、馬場理論よ。

 馬場理論の持ち出すゲーム理論の誤謬は、功利主義から来ている。
 ヴィトゲンシュタインは、倫理を論理学で分析する方法を「論理哲学論考」で行った。彼の師のラッセルが、その後函数に閾値や属性を与えるタイプ理論を発表、それに批判的な弟子は師の功利主義に対抗して「論理哲学探究(探求)」を発表。

 ラッセルの影響下、ノイマンが「ゲーム理論」を創始。

 ところが、ヴィトゲンシュタインの影響下、フィリッパ・フットが掲げる単純な倫理学パラドクスの「トロリー(トロッコ)問題」にさえ、回答が出すことができないことが判明する。
 結局、「幸せ」「楽しさ」「不満」「不幸」「痛み」「喜び」「美しさ」が計量できると考えた変な人の妄想です。

 人間が飼うケダモノ「家畜」を「人間」自身に適用する考え方です。わが子を殺された命の代償として、カネで解決する方便にすぎません。

 ゲーム理論の函数に数値しか入らないで勉強した方は、これを単にゲーム理論上のジレンマと考える傾向があるが、盲目的な功利主義から抜け出せていないから、説得力を持たない。まず、前提に功利主義があり、数理主義、合理主義、客観主義がある。それがさも「合理的で真」と錯覚する。

 (哲学方面からの函数の入り方を経験していれば、ゲーム理論でまず、そんな単純な錯覚を起こさない。経済学から齧ると、話が通じないのはこのためかと推測……。)

 TRPGは、この手のパラドクス(注意。利害衝突だけを扱うゲーム理論用語である「ジレンマ」や「意志決定」とは呼ばない)を倫理的な問題でも、また別の様々な方面(笑いや恐怖など)からも多く扱える。
 それはTRPGが展開の連鎖で「ストーリー」性を保っているからこそ、可能にしている。

 そして、きちんとした責任放棄が「架空の人物を演技する(ロールプレイ)」ことで認められるゆえに、娯楽であることを可能にする。

 そのため、TRPGではPLがロールプレイを行うに当たって「我々の」ストーリー性を意識しなければ、楽しめないのは当たり前ではないかと思う。

 こう結論付けて、さっさと不愉快な馬場理論への反証を終えます。



 この本はゲーム理論の基本的な考え方がクイズ形式で易しく解説されています。ゲーム理論の実像を知ることができ、誰でも理解できるかと思います。


 この本はゲーム理論の「ジレンマ」が実はチキン(レース)・ゲームに置き換えられることを説明しています。生物界の進化の歴史の秘密が、ゲーム理論で説明できることを示し、社会心理学への適用も扱っています。特徴的なのは利得表に数値を用いないことで、文系の読解力で充分に理解しやすく書かれている点が優れています。



 

 

 ノーベル賞をとったJ・ナッシュについて。ナッシュ均衡は、この分野で最大の発見でした。


[WESTERN]大砂塵

 DVDになっていない西部劇。メロドラマ系。
 この作品の面白いところは、すごくご都合主義で、観る人に、ハラハラさせて、何を描きたかったのかさっぱり分からないところ。簡単に意味もなく人が殺される。いい人ポイントを稼がないと生き残れないが、その基準はすごく相対的。
 音楽はビクター・ヤング、主題曲はすごく素敵で期待させる。DVDでは出ていないので、貴重だけれども、あまりお勧めしない。

 賭博場にルーレットのカジノが登場する。考証してみたところ間違ってはいない。それでも珍しいです。
 馬は自分の厩舎を覚えているもので、乗り捨てられた馬の主のアジトを簡単に案内してしまいます。悪事をするなら、自分の馬は殺すかしておかないと駄目ですね。

 馬についてもう一つ、



 で、確か借金のカタに取られた名馬に、蹴ると振り落とす癖をつけていた男の話が出てきます。



アディオス、戦友。

ゲーム理論のTRPGへの適用の限界

 ゲーム理論の経済数理的展開は、ほとんどが「ジレンマ」「混合戦略」などの別称さえあるにせよ、最大利得解においては、チキン(レース)・ゲームを対象としている。シグナリング、脅迫他の手段手法において、ゲーム理論は、目覚しい功績のナッシュ均衡でさえ致命的なことに「損害」の概念から抜け出せていない。ラッセルのタイプ理論が出発点と目され、ラッセル自身の弟子であるヴィトゲンシュタイン論理実証主義側から激烈に批判されているのに、ノイマンの固執によってなお踏みとどまったままである。第二次世界大戦の傷跡が修復されていないためか、サルトルハイデガーでさえにじり寄った現象学さえにも歩み寄ろうとしていない。

 TRPGは、協力型ゲームとは言い切れず(フリーライダーが干される構造は注目に値する)、コミュニケーションによるある種の協奏型非零和のゲームであり、そこには、脅迫ではなく、賞賛という形式が適用される未開拓なゲーム形式である。

 最大利得と最小利得、均衡、支配戦略、均衡解などに当てはまらず、ほぼ報酬系のない点、合理的であることを強要できない点から、前提からして、経済数理的展開のゲーム理論の次元においては無理で、哲学的展開が必要である。この方面においてゲーム理論は立ち遅れており、残念ながら、経済数理的モデルで発達めまぐるしいセオリーの適用が不可能であることをまず、明記しておく。

 また、ゲーム理論で展開されるモデルは現在のところ端的に自然界のモデルを理解し、進化の過程を説明できる、いわば「ケダモノの論理」にすぎず、サイモンの提唱した「人工物の科学」として不適切な全く正反対の結論を導き出すため、有害で幼稚な段階にあることを自覚して用いなくてはならない。その証拠にスポーツ科学にゲーム理論は全く取り入れられていないか、役に立っていない。TRPGがゲームだからと言って安直に分析にゲーム理論を用いてはならない。

 この「ケダモノの論理」は、主体的な人間とその感性の介入の余地を入れないものであり、心理学が個としての人間の心理を洞察することができないのと同様であり、これを援用しない原始的な基礎理論が必要である。

 TRPGユーザーは「ゲーム理論」の迷妄の信仰をやめるべきである。

 この信仰を広めた無知な人間の罪は重い。

 TRPGにだけ、シグナリング、脅迫他の手段手法や問題解決の創作が対応しているのだとするのは愚の骨頂であり、ジレンマの戦略的選択に関してもTRPGは、GMとPLの利害の衝突でもなく、もちろん、PLとPLの衝突でもないため、TRPGとゲーム理論の曲解は冒涜と断言できる。

 付言するなら、そんな暗鬱たる同調者がTRPG仲間を失って行きSSRIを飲んでも効かず、苦しみながら、ゲームを開く日の早朝に亡くなった。われわれは希望を求めたのであり、絶望とペシミズムを求めるのではない。 ゲーム理論は楽しいゲームを作る理論ではない。TRPGはゲーム理論で成り立つ構造は見かけ上の一部分にしかなく、重宝しても気を利かせた機転にさえ劣る。

 パスカルは「幾何学の精神と繊細の精神」が大切だと言っている。TRPGは知的挑戦ばかりではなく、心理学が対象にしないいわゆる「こころ」、智・情・意の挑戦である。その能力に障害を持った病的な精神には負担が大きい。