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本ゲームデザインの企図は、演技こそシステムに反映させるべきだ、と言うのが一つあります。
ひねり出したのが「サイクロイド・カム・ライン(SCライン)」の概念です。
このSCラインに外接する円の半径の大小、SCライン自体をジグザグや、曲線の山型、谷型として、発揮の期待量をコントロールします。
横軸と縦軸が、片方立てれば片方立たず、の場合、SCラインは横軸と縦軸の交差点(原点)に対して図のように谷型や山型になります。
外接する円は、時間進行の消耗やダメージによって拡大していきます。微妙なコントロールが発揮できなくなります。
この円にはサイト・スクリーンを用います。
SCラインは、ストーリー上のキャラクターのヒーローポイントを置き換える新しい手法です。
例えば、「大好きな幼馴染を必死に守るとき」のSCラインは変化します。
コンシューマーCRPGの「ガンパレードマーチ」に似たシステムだそうですが、SCラインの概念はないそうです。
エントリー記事
の一般判定の方法の延長。
この方式によって、ロスト・ワールドの色物系の
のような、ゲームブックのパラグラフから、脱出させることも可能かと思われる。
の二つの要素を抽出したりもできる。
それから、お店のお客様からの情報によると、社会思想社の「ウォーロック」で名を馳せた摩由璃さんの消息をお聞きすることができ、脳溢血で倒れたけれども、何とかご回復し角川系で作品を書いていらっしゃるそうです。
カイヨワの「遊びと人間」より。抜粋。
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アゴン |
アレア |
ミミクリ |
イリンクス |
パイディア |
競争 |
鬼を決める |
子供の物真似 |
子供の |
われわれの求めるTRPGはルドゥスのあるミミクリとアゴンであって、アレアやイリンクスは求めない。ミミクリのルドゥスこそが「ストーリー性」「ロールプレイ(役割分担ではなく役割演技)」である。
なお、ミミクリはイリンクスと結びつきやすいのは、アゴンがアレアと結びつきやすいのと同様である。これは遊び全体に言えて、TRPGの特有の傾向ではない。
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社会機構の |
社会生活に |
堕落 |
堕落の内訳 |
アゴン |
スポーツ |
企業間の競争 |
暴力、 |
成功だけを目的とするようになる。 |
アレア |
富くじ |
株式投機 |
迷信、 |
遊戯者が偶然を尊重しなくなる。 |
ミミクリ |
カーニヴァル |
制服、礼儀作法 |
狂気[疎外] |
模擬が模擬でなくなると、自分を他者であると信じ、それに従って行動し、本当の自分を忘れる。表面だけでなく奥深いところで自分が自分でなくなる。 |
イリンクス |
登山、スキー |
眩暈の統御を |
アルコール中毒、 |
望ましい興奮や官能的パニックを、人は薬品[麻薬]かアルコールに求めることになる。 |
ミミクリによる堕落やパイディア傾斜の回避に、奇妙な(鏡氏の)自由論、つまりミミクリのパイディアを目論みアゴンへのルドゥス否定で結局アゴンのパイディア傾斜(又は堕落)に走る論や、ゲーム理論を盾にした(馬場氏の)大層なアゴンへの傾斜による(イリンクスに関与しやすい)ミミクリのルドゥス否定論は具体例とさせていただくが、TRPG論考サイトで認められると思う。
創造的、生産的な組み合わせは競争と模擬、アゴンとミミクリである。カイヨワ氏はこの組み合わせは滅多にないとしながら、この二つにこそ生産的創造的要素が認められるとしている。TRPGはゆえに、生産的で創造的な遊びであることを宿命付けられている。
堕落が起きなければいいだけのことを、百家争鳴の喧々諤々の議論になるのはおかしなことで、創造的、生産的なことをもっと語るべきだと思う。
また、「補論: 二 教育学から数学まで 2 数学的分析」には、ゲーム理論についての遊びへの適用の全く正当な反論が述べられており、僕もカイヨワ氏と意見を一致する。数学者がカードゲーム程度の確率を求めたり、意志決定論を述べたとしても、人間は遊びに合理的選択を強制されては楽しめない。
「補論: 三 遊びと聖なるもの」には、肝に銘じたい箇所がある。
「ごまかしをやるものよりも悪いものがいることも、忘れてはならない。それは、規則を馬鹿にしたり、規則には根拠がないと言ったりして、遊びを拒み、あるいは蔑む者である。(中略)こういった「祭に水をさす人」(aguafiestas)すなわちうわべだけの懐疑論者や、疑い深い人ほど、文化にとってぶちこわしなものはないのだ。彼らは、何事につけても薄笑いをうかべ、そのことで、自分を偉いものに見せられると無邪気に思いこんでいる。自分たちで、もっと愉快でもっと大事な新しい遊びの規則を作ろうという心づもりで偶像を破壊し、?聖を行っているなら話は別だが、そうでないかぎり、彼らは、無限の苦労が蓄積してきた貴重な宝を、徒し心から傷つけているにすぎないのだ。」
とある。自戒としたい。
ガンプレイで、トルネード吉田先生が、両手バタフライ(両手てふてふ)と言う技を披露されるのですが、拳銃を両手で、上方向にも下方向にも、横回し(普通の回し方は垂直回しだとしたら、水平回しです)をすることが出来ます。
お話を伺ったところ、何が難しいかと言えば、それら手元を見ずに、「いつもより多めに回っています~」と首を観客に向け、観客の顔を見ること、拍手を得ることだそうです。
ガンプレイの上達であればそんなことはどうでもいいことなのですが、ショーとしては「必ず」やらなければならない。
これはTRPGでも同じことが言えます。
いくら、データ上の強さや、特色や、意志決定や、役割演技などを巧く行えたとしても、皆を楽しますことができるかが、重要なのです。
名チェスプレイヤーの指南はあと一歩のところになるように手を落として貴族たちにチェスを楽しませました。賞金がかかっても勝負以前に娯楽でしかない。
まず、第一にそこの誤解が解けないと、ゲーム理論の単純なお話さえ理解不能になってしまいます。
ゲーム理論で、利得表の前書きに何の内容であるかが示されます。お金だったり、人の命だったり、ピザの切れ端だったり、布切れだったりします。もし、貴方がその立場であれば、という想定があります。
TRPGの場合、「その立場であったら」、その時点で架空の人間の役割演技であり、なおかつ娯楽であることが前提になります。
ゲーム理論から何百歩か遠ざかっているという指摘は間違いでしょうか。
ゆえに、ゲーム理論を楯にTRPGの上達云々は間違いであり、役割演技、芝居、感情移入の駆逐は、ゲーム理論を援用するうえでさえ、全くの誤謬になるのです。
馬場理論の持ち出すゲーム理論の誤謬は、功利主義から来ている。
ヴィトゲンシュタインは、倫理を論理学で分析する方法を「論理哲学論考」で行った。彼の師のラッセルが、その後函数に閾値や属性を与えるタイプ理論を発表、それに批判的な弟子は師の功利主義に対抗して「論理哲学探究(探求)」を発表。
ラッセルの影響下、ノイマンが「ゲーム理論」を創始。
ところが、ヴィトゲンシュタインの影響下、フィリッパ・フットが掲げる単純な倫理学パラドクスの「トロリー(トロッコ)問題」にさえ、回答が出すことができないことが判明する。
結局、「幸せ」「楽しさ」「不満」「不幸」「痛み」「喜び」「美しさ」が計量できると考えた変な人の妄想です。
人間が飼うケダモノ「家畜」を「人間」自身に適用する考え方です。わが子を殺された命の代償として、カネで解決する方便にすぎません。
ゲーム理論の函数に数値しか入らないで勉強した方は、これを単にゲーム理論上のジレンマと考える傾向があるが、盲目的な功利主義から抜け出せていないから、説得力を持たない。まず、前提に功利主義があり、数理主義、合理主義、客観主義がある。それがさも「合理的で真」と錯覚する。
(哲学方面からの函数の入り方を経験していれば、ゲーム理論でまず、そんな単純な錯覚を起こさない。経済学から齧ると、話が通じないのはこのためかと推測……。)
TRPGは、この手のパラドクス(注意。利害衝突だけを扱うゲーム理論用語である「ジレンマ」や「意志決定」とは呼ばない)を倫理的な問題でも、また別の様々な方面(笑いや恐怖など)からも多く扱える。
それはTRPGが展開の連鎖で「ストーリー」性を保っているからこそ、可能にしている。
そして、きちんとした責任放棄が「架空の人物を演技する(ロールプレイ)」ことで認められるゆえに、娯楽であることを可能にする。
そのため、TRPGではPLがロールプレイを行うに当たって「我々の」ストーリー性を意識しなければ、楽しめないのは当たり前ではないかと思う。
こう結論付けて、さっさと不愉快な馬場理論への反証を終えます。
この本はゲーム理論の基本的な考え方がクイズ形式で易しく解説されています。ゲーム理論の実像を知ることができ、誰でも理解できるかと思います。
この本はゲーム理論の「ジレンマ」が実はチキン(レース)・ゲームに置き換えられることを説明しています。生物界の進化の歴史の秘密が、ゲーム理論で説明できることを示し、社会心理学への適用も扱っています。特徴的なのは利得表に数値を用いないことで、文系の読解力で充分に理解しやすく書かれている点が優れています。
ノーベル賞をとったJ・ナッシュについて。ナッシュ均衡は、この分野で最大の発見でした。
DVDになっていない西部劇。メロドラマ系。
この作品の面白いところは、すごくご都合主義で、観る人に、ハラハラさせて、何を描きたかったのかさっぱり分からないところ。簡単に意味もなく人が殺される。いい人ポイントを稼がないと生き残れないが、その基準はすごく相対的。
音楽はビクター・ヤング、主題曲はすごく素敵で期待させる。DVDでは出ていないので、貴重だけれども、あまりお勧めしない。
賭博場にルーレットのカジノが登場する。考証してみたところ間違ってはいない。それでも珍しいです。
馬は自分の厩舎を覚えているもので、乗り捨てられた馬の主のアジトを簡単に案内してしまいます。悪事をするなら、自分の馬は殺すかしておかないと駄目ですね。
馬についてもう一つ、
で、確か借金のカタに取られた名馬に、蹴ると振り落とす癖をつけていた男の話が出てきます。