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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]人間の判断過程の特異的な側面

 ゲーム理論での意思決定をうんぬんするよりも、心理学上の判断過程の研究からの指摘のほうが有益に感じます。
 以下は、TRPGに限らず、人間の判断過程の特異的な側面すべてに言えることでしょう。



C.ウィッケンズによる人間の判断過程に関する十二の特異的な側面への指摘
1 人は初期の経験事象や情報に重きをおくため、それ以降の情報を重視しない。
2 人間は保守的なため、情報源から十分な情報を引き出そうとしない。
3 ある選択肢への思い込みをもつと、その選択が極端なものか、最適なものかどうかを評価しようとしない。
4 多くの情報を集めるにつれて必ずしも正確ではなくなるのに、自分の判断により深く信頼を寄せる(自分の判断に有利な情報を集めていることに気づかない)。
5 人間は適切に吸収しうる以上に欲張って情報を集めようとする(情報に溺れる)。
6 人はすべての情報があたかも等しい信頼性を持つかのように扱う。
7 人間はせいぜい一度に三~四仮説しか扱えないほどの能力しかもちあわせていない。
8 人は数種の重要な特徴に焦点を絞りがちで、しかもその特徴にかかわる二~四つの可能な選択肢に最も高い順位を与えて判断しがちである。
9 人は自分のとった行動を確証する情報を求め、反証するような情報やテスト結果を避けがちである。
10 得られるもの以上に潜在的損失を過大視するため、その損失を意識した判断をする。
11 人は、ネガティブな結果よりある程度の好結果が得られればそれを選択すると信じ、最高の結果よりそこそこの好結果を受け入れる、と信じている。
12 人はひどくネガティブな結果より、まあ仕方ないという結果のほうを受け入れるものと信じる傾向にある。

 人間のどんな判断過程でも、当てはまる指摘でしょう。
 TRPGを上手に運用するには、こういった十二の指摘を念頭においてプレイすると、楽しい時間を作り出せるのではないでしょうか。

 このような判断過程の特性をうまく活かすことで、セッションに新しい刺激を与えたり、失敗の原因を探ることができます。
 たとえば、

 1.人は初期の経験事象や情報に重きをおくため、それ以降の情報を重視しない。
 5.人間は適切に吸収しうる以上に欲張って情報を集めようとする(情報に溺れる)。
 7.人間はせいぜい一度に三~四仮説しか扱えないほどの能力しかもちあわせていない。

 意外性をあたえるには、初期の情報から重視されていない情報に、ポイントをおく。
 情報を集めすぎる動きには、キーからはなれると、全く信用のおけない情報を増やすことで、時間の浪費を防ぎ、情報収集を切り上げるようにさせる。
 こ難しい推理を要求されるシナリオでは、三~四の仮説までしか扱えない以上、方針がまとまるようにマスターは、情報を整理して得られるようにしなくてはならない。

 判断過程の特性をうまく利用出来るはずです。逆にうまく利用できないと、楽しめないセッションになってしまいます。


 ゲーム理論の意思決定からは、あくまで、これらの判断過程の錯誤をフォローするような、「理論上、合理的な選択」を論じます。全く別の話です。


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[TRPG]ゲーム性がこの世に本当にあるならば

 TRPGをデザインするに当たって、一体、何がゲーム性かを考えてデザインしなくてはならないのは当然だと思います。

 池波正太郎先生が、仰るところによれば、

「やれ、芸術でござい、なんでございと偉そうなことを言ってもね、自分が書いたもので金を貰って、それで暮らしているんですからね、これは商売なんですよ。
 自分で書いたものを自費で出版して、ただで人に配ってというなら、これは何とでも好きなように言えばいい、芸術でございとかね。だけど金を貰って生活している以上は商売なんだから、客が喜ぶものでなくてはなりません。そうじゃありませんか。」

 TRPGのユーザー(GM、PL)は、互いにお金のやり取りや商売をしていないのですから、彼らは彼らなりに、楽しめばいいのです。やれ、芸術でございとやってもいい。その場に観客がいるわけでもないので、内輪ネタのユーモア、パロディ、パスティーシュを発揮してもいい。

 TRPGをデザインする立場は違います。
 TRPGの開発は、単一の個人から生み出すことはどうしてもできなくて、テストプレイを必要とします。模倣や全く簡略したものならば、その必要はないかもしれません。しかし、TRPGに新しい試みを仕込むときには必ずテストプレイが必要になります。
 そのテストプレイは協力してくれる方の時間と労力を奪い取ります。
 いかにTRPGに対して愛情を持っているとしても、TRPGの新しい試みへの挑戦は多くの場合、徒労に終わりますから、犠牲者を出してしまうようなアイデアには協力は得られません。

 そのためには、TRPGをデザインするにはある種の哲学、ゲーム性への見解が必要です。
 人を説得できるゲーム性へのアプローチが分かりやすく説明できなければなりません。

 私は、演技つまりロールプレイ(RP)のシークエンス(並び)を、いわば高い役に揃えることは、ストーリーの構築とゲーム性との間に矛盾のない親和性があると主張します。
 ロールプレイの積み重ねにおいて良い並び、良いストーリーに揃えるのはゲーム性と何ら背反しないと思うのです。

 ゲーム性というものは、TRPGのように勝負や儀礼の要素がなければ、遊びを指します。
 本質的に遊びとはカラクリ(機械)のなかの隙間に遊ぶものです。

 サルトルが世界劇場という説明をして、世界はペルソナを被って演技されているだけだから、そこから抜け出すという論法で自己実現を説きました。しかし、私は世界が演技だらけとは思わないです。

 この世界がすべて問題解決で成り立っているような論法にも同意できないです。ひとは皆、狂気におかされたり、忘却されたり、死ぬことによって、自らの手で得たものをすべて失うという結末を分かっています。

 遊びとは人生の真剣な張りつめた営みの隙間で、一種の幸運な遭遇によって生み出される営みです。
 遊びとは、遊びであるという互いの了解的な笑顔つまり楽しみ合う心のもとに、機会を捉え、機知を駆使して、機運をつかみ、機微や機転を働かせるものだと思います。
 勝負や儀礼の要素がないゲーム性は遊びの根底と一致しているのだと思います。

 何がゲームを成り立たせているのか。この内訳は遊びを楽しみ合うという心が核心です。ネコやイヌであってもこれは同じです。

 ですから、私がTRPGをデザインするに当たって第一のアプローチは、機会、機知、機運、機微、機転の余地を作ることによって、遊びを楽しみ合うという心を、一番大切にすることだと思っています。

 これをゲーム(G)とすると、RP÷Gでは必ずG>0であってGが0では成り立ちようがない重要なことだと思います。
 面白くて楽しいゲームを論じることには、ゲーム理論を持ち出したりするようなことより、重要なことになると思います。そして、TRPGの楽しさを伝えるヒントにもなると思います。

2011.5.27追記

 遊びというコミュニケーションは、対人的なコミュニケーションとは別の様式のコミュニケーションだと思います。
 芸術作品へのコミュニケーションが同じようにまた、対人的なコミュニケーションとは別の様式と考えれば、仮象論的二重性を論じることなく、説明ができますし、何よりも感覚的に納得出来ると思います。芸術作品を鑑賞する行為は、何も分裂したり、二重化された、倒錯ではないからです。
 遊びも、分裂したり、二重化された、倒錯ではなく、人間的なコミュニケーションのうちの一形態だと考えられます。

ゲーム性の仮説(メモ)

「遊びの現象学」を読んで。

コベントリー・ジレンマ(Coventry Dilemma) 

戦闘システム論からTRPGの物語論。

私のゲームを遊ぶメタ[個人メモ]

RP/Gとはなにか。


[TRPG]セカイ系、空気系サブカルチャー物語の類型

セカイ系

>日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つである。


>「方法的に社会領域を消去した物語」はセカイ系諸作品のひとつの特徴とされ、社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かない点をもってセカイ系の諸作品はしばしば批判も浴びた。
 つまりこの時期にはセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に「世界の果て」とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている。


>これらのセカイ系作品については前述したように社会領域を描いていない点を批判された他、コバルト文庫の看板作家だった久美沙織はセカイ系作品をとり上げた際に、少年が戦闘せずにそれを少女に代行させ、その少女から愛されて最後には少女を失うという筋書きは「自分本位の御都合主義で、卑怯な責任放棄」に過ぎないと述べ、評論家の宇野常寛は「母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止」していると断定した。


>「セカイ系という運動、もしくは重力は、2010年代を迎えた現在、ほぼ消滅したといっていい」が、「現代学園異能」や「空気系」といった形式で継承されたとしている。

セカイ系
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB


空気系

>空気系(くうきけい)とは、主にゼロ年代以降の日本のオタク系コンテンツにおいてみられる、美少女キャラクターのたわいもない会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品群。日常系(にちじょうけい)ともいう。

>空気系作品では困難との対峙や葛藤・本格的な恋愛といったドラマツルギー(英語)を極力排除することで物語性が希薄化されており、代わりに魅力的な美少女キャラクターたちが効果的に配置されている(東浩紀の提唱した「データベース消費」への適応といえる)。
 物語性が希薄であることは、原作が4コマ漫画であるという形式上の理由による面もある。

>空気系作品の受容のされ方を、評論家の宇野常寛は「「萌え」サプリメント」あるいは「事実上のポルノグラフィ」と形容しており、美少女キャラクターを萌えあるいは性愛の対象とする消費者にとって不都合な存在である男性キャラクターはあまり登場しない傾向にある。

>2007年にアニメ化された美水かがみの『らき☆すた』は、セカイ系の流行が過ぎ去って「物語の語りにくさ」が指摘される中で、物語性を放棄して二次創作の意欲を喚起するような魅力的なキャラクターによる人気によって支持を得た。
 ただし、『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』の制作に関わった山本寛は、(『らき☆すた』のような)ネタ消費型アニメはその場しのぎのものと考えていて、今後は「物語の復権」の方法を模索する方向を目指したいと2009年の時点で発言している。

>2009年・2010年にはかきふらいの『けいおん!』がアニメ化されてヒットしたが、(空気系作品の特徴である)男性キャラクターやドラマツルギーの排除が徹底的であったことがヒットの理由だとアニメ評論家の氷川竜介はみている。
 この作品は前述のセカイ系の図式において中景だけでなく遠景までをも消去し、近景しか存在しないという構造をつくっている作品として言及されることがある。


空気系
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B0%97%E7%B3%BB

------------------------------------------ 
 以上、メモです。

 こうしてみると、ドラマツルギーの放棄は空気系諸作品において、行われている。つまり、困難との対峙や葛藤・本格的な恋愛というものが希薄でも物語は成立する実証です。

 一方、セカイ系の社会領域を描いていないという点は、個人的には非常に困惑するもので、これを欠落させるのはできません。

社会領域に結び付けられるモード理論

 個人的独自用語で、小説(に限らずゲームでも)に大事なのは「モード」だと思います。ある特定の者が社会のどの位置に属しているのかを、はっきり描いたほうがいいと思います。
 では、社会の中のどのような道具的存在であるのか。社会の中での価値観をどう受け取っている立場なのか。
 
modeの意味 - 英和辞典 Weblio辞書
http://ejje.weblio.jp/content/mode
【名詞】【可算名詞】
1
a
方法,様式,流儀 〔of〕.
用例  a mode of life 生活様式, 風俗.
a (new) mode of expression (新しい)表現方法.

b
(機能上の)形態,様式,モード.
用例  the receiving [transmitting] mode (通信機器の)受信[送信]モード.

2
[the mode] (服装・芸術などの)流行(の型), モード 《★【比較】 fashion よりも気取った表現で高級をほのめかす》.
用例  It's all the mode. それは大流行だ.

3
【文法】 (動詞の)法.

4
【音楽】 旋法; 音階.

用例  the major [minor] mode 長[短]音階.
[ラテン語 modus 「(測定の)方法,尺度」の意; 【形容詞】 modal]



 語源はラテン語 modus 「(測定の)方法,尺度」の意です。
 つまり、社会領域への尺度がモードなのです。



 ファッションについては、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E8%A1%8C
以下引用

>イノベーター理論は、1962年にスタンフォード大学の社会学者であるエベレット・M・ロジャースによって提唱された。特定様式が流行する過程において、その社会を構成するメンバーを分類したものである。

イノベーター(Innovators:革新者)
新しいものを進んで採用するグループ。彼らは、社会の価値が自分の価値観と相容れないものと考えている。全体の2.5%

アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者)
社会と価値観を共有しているものの、流行には敏感で、自ら情報収集を行い判断するグループ。オピニオンリーダーとなって他のメンバーに大きな影響力を発揮することがある。全体の13.5%。

アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者)
ブリッジピープルとも呼ばれる。新しい様式の採用には比較的慎重なグループ。全体の34.0%。

レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者)
フォロワーズとも呼ばれる。新しい様式の採用には懐疑的で、周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。全体の34.0%。

ラガード(Laggards:遅滞者)
最も保守的なグループ。世の中の動きに関心が薄く、流行が一般化するまで採用しない。全体の16.0%。中には、最後まで流行不採用を貫く者もいる。


引用終わり。

 こうしたモードのイノベーター理論は、キャラクターに当てはめると簡単に社会領域に結び付けられると思います。
 逆にセカイ系をする場合はモードを出さないことだと思います。 

 例えば、TORG(トーグ)では、PCであるストームナイトが、侵略された地球での人々は一体どのような位置づけをしているのかわかりません。ルールブックにも各ソースブックにも見当たりません。
 それは他のTRPGでもセカイ系のジャンルを扱う作品においてだいたい言えるのかもしれません。

 



 リビングランドの宇宙ヒトデさえPCさえいなければ…。


[TRPG]マスターとプレイヤーの他に必要なひと。

 オンラインセッションはともかく、TRPGのセッションには、時間と場の都合(許可や利用料)を管理する必要があります。

 コンベンションで言うと主宰者、飲み会で言うと幹事さんのようなひとが必要です。
 大抵の場合、サークルだと会長さんになるのでしょうが、会長さんが不在の時に困るのです。

 小さな集まりだと、ゲームマスターがこれを兼ねていることも多いのですが、揉め事に感情的に相手してセッションでつまらない采配をして、気晴らしをするということが多い。

 人間だから仕方が無いのですが、セッション中、遅れてきた人を爪弾きにして、寝ている人を注意しない、セッションは時間オーバーという身勝手も起きます。


 遅れてくる人を待つ時間を決めてプレイを始める。間に合わないなら、見学してもらう。
 寝ている人はとっとと帰ってもらって、セッションは時間が来たら中断して撤収する。
 ゴミ管理をしないといけないならば、手分けして処理する。

 こういうことはちゃんとできないと、場を失うことになるし、楽しいひとときを共有することが、いずれ不可能になる。

 とはいうものの、自戒。

 当方は起立性低血圧でよく遅刻するので、「始めててください。見学でいいから行きます」となってしまう。昇圧剤を飲んでも疲れていると、ダメですね。

[重複組合せ]サイコロを高い順に並べた組み合わせの数


 サイコロを高い順(低い順でも同じ)に並べた組み合わせの数です。ただしゾロ目を含みます。

 n+r-1Crより。ゾロ目を含まなければ、nCrです。



個数 4面体 6面体 8面体 10面体 12面体 20面体
1個 4 6 8 10 12 20
2個 10 21 36 55 78 210
3個 20 56 120 220 364 1540
4個 35 126 330 715 1365 8855
5個 56 252 792 2002 4368 42504
6個 84 462 1716 5005 12376 177100
7個 120 792 3432 11440 31824 657800
8個 165 1287 6435 24310 75582 2220075
9個 220 2002 11440 48620 167960 6906900
10個 286 3003 19448 92378 352716 20030010

 

20面体サイコロ複数個の最大値%表      
個数 1個 2個 3個 4個 5個 6個
最大値19超え 5 9.52 13.64 17.39 20.83 24
最大値18超え 10 18.57 25.97 32.41 38.04 43
最大値17超え 15 27.14 37.08 45.29 52.12 57.87
最大値16超え 20 35.24 47.01 56.23 63.52 69.36
最大値15超え 25 42.86 55.84 65.44 72.64 78.11
最大値14超え 30 50 63.64 73.12 79.84 84.68
最大値13超え 35 56.67 70.45 79.45 85.44 89.52
最大値12超え 40 62.86 76.36 84.58 89.72 93.01
最大値11超え 45 68.57 81.43 88.70 92.93 95.48
最大値10超え 50 73.81 85.71 91.93 95.29 97.17
最大値9超え 55 78.57 89.29 94.41 96.97 98.30
最大値8超え 60 82.86 92.21 96.27 98.14 99.03
最大値7超え 65 86.67 94.55 97.63 98.91 99.48
最大値6超え 70 90 96.36 98.58 99.41 99.74
最大値5超え 75 92.86 97.73 99.21 99.70 99.88
最大値4超え 80 95.24 98.70 99.60 99.87 99.95
最大値3超え 85 97.14 99.35 99.83 99.95 99.98
最大値2超え 90 98.57 99.74 99.94 99.99 100.00
最大値1超え 95 99.52 99.94 99.99 100.00 100.00

合ってるといいな。

個数 1個 2個 3個 4個 5個 6個
最大値20 1 20 210 1540 8855 42504
最大値19 1 19 190 1330 7315 33649
最大値18 1 18 171 1140 5985 26334
最大値17 1 17 153 969 4845 20349
最大値16 1 16 136 816 3876 15504
最大値15 1 15 120 680 3060 11628
最大値14 1 14 105 560 2380 8568
最大値13 1 13 91 455 1820 6188
最大値12 1 12 78 364 1365 4368
最大値11 1 11 66 286 1001 3003
最大値10 1 10 55 220 715 2002
最大値9 1 9 45 165 495 1287
最大値8 1 8 36 120 330 792
最大値7 1 7 28 84 210 462
最大値6 1 6 21 56 126 252
最大値5 1 5 15 35 70 126
最大値4 1 4 10 20 35 56
最大値3 1 3 6 10 15 21
最大値2 1 2 3 4 5 6
最大値1 1 1 1 1 1 1
総組合せ数 20 210 1540 8855 42504 177100

現象学的な間主観・配慮の階層

相対主義からの脱却


 フッサールの「間主観」とハイデガーの「配慮・気づかい」をTRPGに適用すると、当方の理解では上の図になります。

 赤矢印がセッションへの出力。
 橙色の矢印が、ゲーム上の配慮関係。

 GMは赤矢印と橙色の矢印全体に関わるのでベン図としました。
 黄色の矢印は、ゲームを楽しむ仲間としての配慮関係。


 間主観について(現象学の基本理念1)[フッサール現象学]によれば、

>「相対主義」と「絶対主義」が頭の中にあるとすると、「様々な見方を認める」なら、「絶対主義」を認めることになる一方、他方で「相対主義」が「絶対主義」を認めるのはおかしい。

となります。

>現象学では、超越視点(客観視点)をもたない。私の視点が全てであり、全ては主観内で閉じ、その外部に出ることは背理である。
>(簡単に言えば)外部をエポケー(保留)した主観を、「超越論的主観」という。

 さらに、ハイデガーは各存在の配慮・気づかいを重視していて、その函数に収まらない形での「意義」を主張します。TRPGを行う「意味」はなくても、「意義」が成立すればいいのだと思います。

 ゲームシステムはGMとPC:A,B,C,Dに関わり、GMとPL:A,B,C,Dの間主観を超越論的「主観」でみたA,B,C,Dそれぞれの判断で所与されます。このとき、各判断に意義がなければ、どんなTRPGであっても意義のないものとなると思います。

 TRPGのゲーム性というものがもしこの世に本当にあるならば、面子から生み出される意義(観客的位置も含む)が重要で、その面子から意義が生まれるようにフォローされているTRPGが良いTRPGだと言えるかもしれません。


[確率]コイン四枚中二枚がオモテ。

 単純に4枚のコインが2枚表になる確率は、1/2+1/2+1/2+1/2の4/2ではなくて、
 2×2×2×2=16通りのうち、
 
 =6になる。
 3/8で1/2より小さい。1/2だと勘違いしている方もいると思います。

ある試行で事象Aが起こる確率がpであるとき、この試行をr回繰り返して行う重複試行において、事象Aがn回起こる確率は

Excelでは、

COMBIN(4,2)*(1/2)^2*(1/2)^(4-2)
=0.375
と計算できます。

3/8=0.375

コインの表が三枚出る確率があるので、二枚表になる確率がその分削れると考えられると思います。

[TRPG]ゲーム性の仮説(メモ)

 西村清和先生の「遊びの現象学」から、ゲーム性の仮説を立ててみます。

 まず、遊びを「遊隙」と読み替えるのではなく、「チャンス」と読み替えます。
 「チャンス」は、(機)会であり、「企て」の動(機)であり、「僥倖:アレア」の(機)運に相当する。

 あるシチュエーションにおいて発生する(機)微を読み取り、(機)運を掴み、(機)会とする。
 ゲーム性は、もし本当にこの世にあるならば、総じてこの構造で成り立つのではないか。

 ゲーム性を論じるとき、ジレンマや選択肢をおいた場合、どちらのひどい罰や犠牲を受けるかという、フィリッパ・フットトロリー問題を避けられない。アポリアに陥るだけで分析に到らない。なぜなら、それがゲーム性の構成物に過ぎないからだ。
 また、問題解決をおいた場合、単なるゲーム理論を主張しただけの「遊び」から目をそらした、当てずっぽうを避けられない。ゲーム理論は数学からの読み解きであり、数学は全て問題解決を目指すものである以上、そこから導き出されるのは、問題解決でしかない。これは単純なトートロジーでしかない。

 なぜ、人と人が行うTRPGというゲームに、常識や想像力やコミュニケーションが必要なのか。
 そもそも「僥倖」の(機)運、(機)微、(機)会を生かせないからとは言えまいか。
 そして、(機)知に富んだ豊かな時間を台無しにすることから、つまらなさを説明できないだろうか。

 以上、メモです。

 注)アレアというのは、動物のかかとの骨のサイコロ、「賽は投げられた」(ALEA JACTA EST アレア・イヤクタ・エスト)・・ラテン語から由来。立方体に削られたサイコロもローマ時代にはあって、カエサルが「アレア」と言ったという事から、勝機が高いという意味合いを含んでいる。どうやら、wikiにも載っていないようなので、一応注釈。

[TRPG]「遊びの現象学」を読んで。