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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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現象学的な間主観・配慮の階層

相対主義からの脱却


 フッサールの「間主観」とハイデガーの「配慮・気づかい」をTRPGに適用すると、当方の理解では上の図になります。

 赤矢印がセッションへの出力。
 橙色の矢印が、ゲーム上の配慮関係。

 GMは赤矢印と橙色の矢印全体に関わるのでベン図としました。
 黄色の矢印は、ゲームを楽しむ仲間としての配慮関係。


 間主観について(現象学の基本理念1)[フッサール現象学]によれば、

>「相対主義」と「絶対主義」が頭の中にあるとすると、「様々な見方を認める」なら、「絶対主義」を認めることになる一方、他方で「相対主義」が「絶対主義」を認めるのはおかしい。

となります。

>現象学では、超越視点(客観視点)をもたない。私の視点が全てであり、全ては主観内で閉じ、その外部に出ることは背理である。
>(簡単に言えば)外部をエポケー(保留)した主観を、「超越論的主観」という。

 さらに、ハイデガーは各存在の配慮・気づかいを重視していて、その函数に収まらない形での「意義」を主張します。TRPGを行う「意味」はなくても、「意義」が成立すればいいのだと思います。

 ゲームシステムはGMとPC:A,B,C,Dに関わり、GMとPL:A,B,C,Dの間主観を超越論的「主観」でみたA,B,C,Dそれぞれの判断で所与されます。このとき、各判断に意義がなければ、どんなTRPGであっても意義のないものとなると思います。

 TRPGのゲーム性というものがもしこの世に本当にあるならば、面子から生み出される意義(観客的位置も含む)が重要で、その面子から意義が生まれるようにフォローされているTRPGが良いTRPGだと言えるかもしれません。


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