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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]RP/Gとはなにか。
ロールプレイング・ゲーム

 こちらの理想的ロール・プレイング・ゲームは、黒をコミュニケーションと考えると、上図になります。RP/Gは、Gの中のRP、図で表すとこういう意味です。

 馬場氏が危惧している、彼が問題にしているのは下図のほうでしょうか。


TableGame 

 テーブルゲームにさえ、サークル崩壊を起こすという、ゲームがあります。
よくそう言われる「ディプロマシー」は、ゲームがコミュニケーションを破壊したりする。ロール・プレイングはゲームとは無関係に等しいのにさらにコミュニケーションを破壊する。このような図で表してみました。

 こちらが念頭に入れているのは下図のような状態です。


ロールプレイング・ゲーム2

 RP/GとRP/コミュニケーションとRP/コミュニケーションの崩壊であるゲームです。この状態を理想のカタチに仕立てるのが目標です。

 RP/G=RPGとすれば、ゲーム性がないことを、G=0とすればRPGは間違いを起こしていることになります。
 RPがない、RP=0とすれば、RPGはRPの成分を持っていないといえます。
 Gを求めるにはRPとRPGを考えてやればいいのだと思います。



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コメント

1. RP/Gの前に

すみません。RP/Gの前に、
Gの定義について語ってください。

RPが役割演技だということはわかりました。
「戦士1のPLが戦士1を演じる」ことか、
「戦士アルバートのPLが戦士アルバートを演じる」ことか、
「立身出世を夢見、故郷の農村を旅立ったかつては農家の倅であった、戦士アルバートのPLが(中略)演じる」ことか、
「心配性の魔術師をなだめすかし、PTのメンバーを冒険にいざなう戦士1のPLが(中略)演じること」かは、いまいち判りかねますが、とにかく、「PTをひとつの機能集団としてみたときに、そのうちの、主に敵対者を食い止め、排除することを担当とするキャラクターをPLが担当すること」でないことはわかりました。

一方で、ゲームについては未だに定義がありません。

「各自が役割を分担しつつ、設定された目標を攻略すること」でないという主張はわかりました。
(ただし、ここで「分担される役割」が「各キャラクター」、「設定された目標」が「より面白い物語を生み出すこと」として、なおこのゲームが否定されるのかは疑問ですが)

RP/Gにおいて、RP=0であってもRPG=0として成立させるにもかかわらず、式そのものを成立させなくなるほどのGとは、いったい何なのか、それを教えて欲しいと思います。

2. Re:RP/Gの前に

 ゲームは設計されたものでしか語れません。ここで、公平性や固有性を論じても結果として生産物がなければ無意味です。
 デザインされたものの分析の解釈はプレイされてみて分かるもので、こちらのように、作るしかないと思います。

3. えーと、つまり、

ゲームとは、「PLがトークンを介して資源管理を行い、目的達成を目指す」モノではないが、何かと聞かれれば語れない。

こういうことでしょうか?

4. RPGのGは。

 ゲーム理論に近い意味で意志決定の積算としたり、

>PLがトークンを介して資源管理を行い、目的達成を目指す

 だけでは語れない。もし語ることができるならば時間が許せば誰もがゲームをデザインできるはずです。
 ゲームで楽しさを得られるかどうか、という大問題をクリアできていれば、何かの大正解があるはずです。クイズの答えとか、数学の答えとか、と同じように。

 GのないRPは、社員教育や心理療法です。
 そのGの抜けっぷりは、比較対象にならないと、思います。
 Gの要素として色々デザインを公開してきましたが、魅力を感じられるでしょうか。

5. それはシステムじゃないですか

>もし語ることができるならば時間が許せば誰もがゲームをデザインできるはずです。

それはシステムの話ではないでしょうか?
ゲームと言うのは「RPGのシステムを介して参加者たちが楽しむ(楽しもうとする)モノ」だと思います。
ゲームを楽しませるようにデザインされるものがシステムであって、ゲーム自体のデザインはGM(より言うなら、シナリオ作成者)なら誰でもやっていることです。
まさに、「時間が許せば誰もがゲームをデザインできる」のです。

その「ゲーム」を楽しめるように、色々デザインを公開されている件に関しては、興味を持って今後とも応援したいと感じています。

ですが、ご自身でも、デザインされた「Gの要素」そのもの単品だけではゲームではないとお考えではないでしょうか?
それらを積み重ねれば、ゲームになるわけでもない。
運用する人間(GM)がいて、運用する状況(シナリオ)があって、初めて、ゲームを構成する要素として機能します。
システムを造るのはBetaさんであっても、ゲームを作るのはシナリオの参加者です。

(たとえば五線譜システムだと)状況に応じて成否の可能性要素を抽出し、成否の原因を求めるシステム自体はゲームではなく、それぞれの状況下において、参加者たちが何に成否の可能性を求め、どのような物語を生み出すかがゲームなのです。(少なくとも、そのためのシステムと解釈しています。間違っていたなら遺憾ですが)

6. 時間が許せば誰もがゲームをデザインできる

 このお話の次元では、同意します。

 肝心な「ゲームで楽しさを得られるかどうか、という大問題をクリアできていれば、何かの大正解があるはずです。クイズの答えとか、数学の答えとか、と同じように。」を否定してかつ、何が残るのかと。代え難い人と過ごした時間しかない。

 五線譜システムは、そういった運用状況が「想像」できる場合には、有効なのですが、誤差関数分布を用いたほうが適切な運用もあるのです。希少性の公平さが説得力を持つとき、としましょうか。
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