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西部劇のRPGを作る。まず、西部劇についての考察から始めねばならない。
西部劇はアメリカがペーパー・バックス(三文小説/ダイム・ノヴェル)時代に入ってから隆盛を極めたジャンルであり、1860~65年ごろ流行した。なんとこの5年間に約500万部を売ったとされる。この中にはデッドウッド・ディック、ハリケーン・ネル、カラミティ・ジェーンだとかバッファロー・ビル(実在の人物、本名ウィリアム・フレデリック・コーディ 1846 ~1917)を主人公としたネッド・バントライン(1823~86)の作品など有名なものが書かれた。
まずこの時代、エンターテイメントとしてこのジャンルは確実に大衆文化の中に地位を築いた。
この後、このジャンルは幾つかの潮流を辿ったようだ。まず一つは単純な娯楽作品として『勧善懲悪の劇画的なもの』。第二は現実主義的に西部世界を考察し、『歴史過程の問題をテーマとするもの』。第三は、そう言った問題から逃避する形で『ロマンティックな幻想世界として描くもの』である。
20世紀近くには一連の捕虜物語といった自然回帰、および文明批判をテーマとするもの、人種問題という深刻なテーマを描くものが現れる。
日本人にとっての西部とは、明らかに異質で架空として移る世界であり、おもな情報提供者は映画であり、ヴィジュアル性の強いジャンルである。人種問題は日本国内に現にあるにも拘らず、それを自分達自身に関わる問題として受け取ることができない。我々は西部劇をエキゾティクさ、アクション、または異国の精神文化への憧れについて評価するのだ。これは非常に残念なことであるが、アプローチの大きな手掛かりとなろう。
世界叙述の方法はいろいろあり、また、どれか一つに頼ることもできない。しかし基盤は大切である。哲学的世界観によれば文化の類型は、『実在文化』『価値文化』『社会文化』とされる。
年表は不可欠だ。まずこの激動する時代をとらえるには、戦史、技術史、政治史、などの時間軸が必要かもしれない。その他に宗教、人種、経済上の価値観を明らかにし、生活臭漂う世界として奉り上げなくてはならない。
しかし19世紀の歴史ガイドを書くわけでもないわけであるから、このRPGに必要であるか否かを常に注意する必要がある。
一番大切なことは『映画』の紹介であろう。これが現実を人工的に脚色したものであるにせよ、結局はRPGも同じ架空のジャンルなのであるから、大いに資料として役立てることができる。
以前書いた考えは変わらない。TRPGは絶対に自由のバイブルではない。コミュニケーションのツールの一つでしかない。
ストーリー統一の機能
ごっこ遊びにおいては役割に対する明確な位置付けが存在せず、それが行われる理由も、またその終結も明らかではない。
RPGがストーリーの流れをある意味で統一する基準であるという、その機能があるために我々はそれを用いるのである。
これはRPGが現実に適応した複数の人間同士のコミュニケーションであることに由来する。
コミュニケーションに共通の話題の知識、共通のものへの関心、共通する感性が必要なのと同じである。
共通の言語であると考える必要はない。
言語はコミュニケーションに限って用いられるだけのものではないからである。
赤子に対する母親が抱くような、一つの一人の自由を生み出す感覚と、TRPGを一緒くたにしてはいけない。
TRPGをより良く楽しむのは、コミュニケーションの素晴らしい例を考えるべきだ。それは哲学者のエーリッヒ・フロムのいう「愛」である。「愛されるためのこと」にではなく、「愛すること」に価値があるという考えだ。
彼によれば、「愛」とは、配慮・尊敬・責任・知である。相手に配慮すること、相手を死ぬときまで成長する尊いものであること、求められたならば応じること、そして相手の状態を良く知っておくこと、だという。
男女の愛でも、親子の愛でも、友愛でも、「愛すること」は素晴らしい。己に愛される資格を問うのではなく、己が愛する資格があるのかを問う。
コミュニケーションの素晴らしい例が、愛するということならば、TRPGのうまさは、単純に、楽しまされることより、楽しむことより、楽しませることにある。そのために、同じように、配慮・尊敬・責任・知を持ち出してもいいのではないか。
大丁さんの大丁の小噺から知ったのですが。
http://d.hatena.ne.jp/taitei/20080625/1214401336
卓上RPGを考える
http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/06/post-145.html
から、TRPGと現代ファンタジーを愛する男のブログ
http://blog.livedoor.jp/gensoyugi/archives/51428100.html
卓上RPGを考える
http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/06/post-146.html
この議論において、言葉の齟齬が大きくてお話になっていないと思いました。
あまりにも、鏡さんの言う「ミステリー」との語彙の齟齬が大きいので、「ミステリーの社会学」より、ミステリー作家によるミステリー作品の成立を並べてみます。
探偵クラブ「誓言」 |
ヴァン・ダイン「探偵小説作法二十則 |
ノックス「探偵小説十戒」 |
チャンドラー「九つの命題」 |
ハル「探偵小説とその十則」 |
このように、ミステリーには作法にスポーツのようなルールがあります。
鏡さんの言う「自由は」、サッカーで、「自由」にバットを使ってくださいとの暴論に近い。
ミステリーのような謎解きの解明という競技的なシナリオでは、「自由」は、得点を取る、負けない、勝つ、そういった競技上の「自由」であって、参加するかしないかにも「自由」を与えている点が、大きく齟齬を生んでいる。
>以下引用
まず、「制約の無い自由なんてそもそもありえない」との見解については、過去にも触れた通り、私も同じ意見です。ただし私は、ルールシステムや世界設定に基づく「制限(制約)」と、シナリオ作成者やゲームマスターの「期待/願望」に基づく「管理」とを、明確に分けて考えています。プレイヤーの発想や決断が「制限」されても「管理」はされない状態が、私の言う「自由」です。この点をご理解の上で「無茶で非現実的なもの」か否かをご判断ください。
>引用ここまで。
つまり際限のなき「自由」のことではない。「制約」「制限」「管理」と雑多に独自の語彙を振り回していて、混乱させる原因になっていると思う。
ゲーム性が必要だとか、ストーリー性が必要だとか、議論しているあいだにTRPGを遊ぶ人が少なくなった。
亡くなった友人の教えてくれた、馬場秀和さんの論文は、ゲーム性を、ゲームの理論で説明ができるようになっていること、ストーリー性は問題解決以外いらないという切り口だった。
展開がストーリー性だと言うのは、僕の主張。
わざわざ、トレーディングカードゲームに「なんたらかんたらドラゴン」などと書いてあって、これが止めを刺した、とか。ゲーム性だけを追及するなら、データを書いたカードでおしまいで済む。立派なチェス盤も将棋盤も要らず、駒にどう動けるのか書いた紙で充分。これを単に演出と言うなら、その演出と言う用語は、ゲーム性よりもストーリー性にこそふさわしい言葉ではないか。
話を戻す。展開がストーリー性だと言う、僕の主張を友人に話したところ、鉄釘が水溜りで腐っていくだけで展開にはなるが、ストーリーではないだろう?と言われた。
それだけでも僕はストーリーを見出すと。フロギストン説が支持されていた時代を考えれば、またはなぜ鉄と酸素が化合しやすいのか周期表を調べていけば、充分にストーリー性を見出せる。
展開がストーリー性をもたらさないなら、なぜ人は歌のないメロディーだけの曲でもカタルシスを得られるのか。
「大人はストーリーが無ければゲームを楽しめない。ゲーム性だけではゲームがいかに優れていても見向きもしない」
最近のパチンコ台でさえ、ストーリー性を求めているんだよ。
よく、ルールの奴隷になるな! と、TRPGのルールブックに書いてあった。
だけれども、過去、魔術師の呪文のようにギミック化された部分が、技の類で、全般的にギミック化するのはどうかと思う。
ギミックを生かそうとするあまり、楽しさが失われていないだろうか。
故 大貫昌幸氏がデザインした、「ダブルムーン伝説TRPG」から、始まった流れだと思います。
その後は、技のギミックに関して、細部の描写がなくて、困ることが多い。
たとえば、飛び上がって弱点を突き刺すとします。
天井の高さはどれくらい必要で、弱点は複数あるうちの最善のポイント限定なのか。
寝そべった態勢で組み合っているところで状況次第では狙える弱点は変動する。
こういった細部がすごく重要なんです。TRPGは、さまざまなシチュエーションドラマの中で、「ギミックを生かそうとするあまり、楽しさが失われていないだろうか」と、思うのです。
細部が欠けていると特に感じる例としては、昔、「雷撃系」の呪文が金属張りの部屋では使えなかったとか、ね。このあたりの細部描写が欠けていて、面白さが少なくなったのかな、と。
呪文にしろ技にしろギミックのそれぞれには、プロセスが伴っていて、あるプロセスの一部の具象化が成り立たない、ではどうするか? という、特別性、異色性が、欲しいところです。