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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]TRPGは自由のバイブルではない。

 以前書いた考えは変わらない。TRPGは絶対に自由のバイブルではない。コミュニケーションのツールの一つでしかない。


ストーリー統一の機能

 ごっこ遊びにおいては役割に対する明確な位置付けが存在せず、それが行われる理由も、またその終結も明らかではない。
 RPGがストーリーの流れをある意味で統一する基準であるという、その機能があるために我々はそれを用いるのである。
 これはRPGが現実に適応した複数の人間同士のコミュニケーションであることに由来する。
 コミュニケーションに共通の話題の知識、共通のものへの関心、共通する感性が必要なのと同じである。
 共通の言語であると考える必要はない。
 言語はコミュニケーションに限って用いられるだけのものではないからである。


 赤子に対する母親が抱くような、一つの一人の自由を生み出す感覚と、TRPGを一緒くたにしてはいけない。

 TRPGをより良く楽しむのは、コミュニケーションの素晴らしい例を考えるべきだ。それは哲学者のエーリッヒ・フロムのいう「愛」である。「愛されるためのこと」にではなく、「愛すること」に価値があるという考えだ。

 彼によれば、「愛」とは、配慮・尊敬・責任・知である。相手に配慮すること、相手を死ぬときまで成長する尊いものであること、求められたならば応じること、そして相手の状態を良く知っておくこと、だという。

 男女の愛でも、親子の愛でも、友愛でも、「愛すること」は素晴らしい。己に愛される資格を問うのではなく、己が愛する資格があるのかを問う。

  コミュニケーションの素晴らしい例が、愛するということならば、TRPGのうまさは、単純に、楽しまされることより、楽しむことより、楽しませることにある。そのために、同じように、配慮・尊敬・責任・知を持ち出してもいいのではないか。


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