忍者ブログ

GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

[TRPG]7.TRPGの解釈論性:解釈学的循環、有機体の論理(2)


ノエシス・ノエマ

 意識現象をノエシス-ノエマ関係で捉える。意識現象に意味統一を与えて、対象存在を構成する意識の働きをノエシスと言います。ノエシスを日本語に訳すとすれば「意識の意味付与作用面」かあるいは単純に「作用面」です。そしてこの構成された対象性をノエマと言います。
 例えば色や形や重さや匂いなどの感覚諸要素を素材にして薔薇という対象を意識が構成するとしますと、この構成する働きがノエシスで、構成された意識としての薔薇は対象面として捉えられています。この意識の対象面としての薔薇がノエマに当たるわけです。



フッサールの現象学

フッサール

 さて、数学者フッサールははじめ、ブレンターノのいわゆる記述心理学の影響を強く受けて、全体と多、基数や序数など集合論や数論の基本概念の起源を人間の心理過程のうちに求めようとしたが、やがて、数というものを「数える」という心的作用による構成物とみなす心理主義的な考え方に批判的になる。
 (中略) 『イデーンⅠ』(1913)への展開の中で、フッサールは、心理主義と論理主義の対立を止揚するような新しい立場を提示する。意識の志向的分析という立場である。そこでは、主観的な認識体験と客観的な認識内容(イデア的対象)との相関関係が、志向性という意識の動的連関(ノエシス-ノエマ連関)として捉えられる。いかなる存在であれ、それが対象として意味をもっているかぎり、それに対応する意識の構成的な作用に遡って関係づけられねばならない、という考え方である。
 意識のそうした世界構成的な働きがフッサールのいう超越論的主観性なのであって、それへと分析の作業場を転換する操作が現象学的還元である。(中略)現象学は世界から改めてそういう自明性の被いを剥ぎとり、世界がそのようなものとしてわれわれに現れてくるようになるそのプロセスを分析しようとするのである。
 ところで、対象はつねに一定の<地平>のなかで与えられる。われわれがある対象を志向するときには、同時にさまざまの意味の地平が、いつもその志向をあらかじめ規定するかたちでともに働き出している。(中略)対象はつねに世界を地盤としつつ、世界の中に現れると言える。(中略)それゆえに現象学は、世界を経験するわたしたちの意識においていつも働き出しているプロセス(受動的総合)、さらにはそういう先行的な構成過程全体の時間的な生成に、より深く分析のメスを入れていくことになる。この分析作業が発生的現象学と呼ばれるものである。
 そしてその過程で、現代哲学の新たな問題地平を開くようないくつかの重要な問題が浮上してくる。その核心にあるのは、超越論的な意識への還元という、現象学のもっとも基幹的な操作の不可能性という問題である。(中略)それがたとえば、身体性であり、間主観性[相互主観性]である。(中略)その後、伝統的な心身問題や他者問題、感覚論や社会性論に新たなパースペクティヴを開くものとして、現象学以外の哲学・人文社会科学の研究にも大きな影響を与えることになる。またこれらの過程全体が生活世界論として展開されるのだが、その中で、われわれがつねに現象としての世界の現れの背後に想定している科学的・客観的な世界の存立も、こうした「根源的なドクサの世界」としての生活世界に被せられた「理念の衣」にすぎないと相対化される。客観主義的な見方をとる科学においては[理念化という]方法の産物に過ぎないものと存在そのものとが取り違えられていると言うのである。この科学批判は、「究極的な基礎づけ」の不可能性、相対主義などといった現代の科学哲学の問題に大きな影響を与えた。

 



 

第二部 反省理論と解釈理論

第六章 解釈学の論理と展開

第二節 解釈学的循環 哲学的解釈学の展開

 解釈学的循環とよばれる全体と部分との交互規定の働きを経験の次元において見出しこれに精緻な分析を加えたのは、フッサールの現象学である。フッサールは、一方で、知覚を直接に与える直観の原的明証性とみなすが、他方では、知覚を「解釈作用(deuten)」ともみなしている。(中略)志向性の規定には、方向性の契機や明証性の契機とともに意味的差異性の契機が含まれていることを顧慮すれば、このことはけっして矛盾したことではない。意味的差異性とは、志向性が何かを何かとして思念する意味規定の作用であることに基づいている。いいかえれば意味と意味されるものとの間に起こる差異化の働きである。(中略)1920年代に着手された地平(Horizont)の現象学的分析は、まさにこの差異化つまり知の意味論的パースペクティヴ性の徹底的な考察であり、現象学と解釈学との交差領域を表す原型的な現象の解明となっている。(中略)対象はけっしてそのつどの規定によっては規定し尽くせるものではなく、そこにはたえず余剰が残る。主題的規定的作用と同時にこの「より以上のもの(Mehr)」へ向かっての超出が働くのであり、この働きが地平しこうせいである。(中略)さらには、対象の完全な所与性が実現不可能ではあるが、経験の進行がそれに向かって近似化してゆく目標としての、統制的理念とし捉えられ、そのことによって経験の過程はパースペクティヴ化と脱パースペクティヴ化との緊張関係とみなされ、経験の進行のなかで科学的思惟の成立を促す運動が起きていることが探られている。

 ハイデガーがなぜ、デカルトが「客観」という概念を残したのかについて、「存在と時間」では、デカルトが、神の存在を疑うことのできなかった時代背景にあったからだと指摘している。
 主観・客観の二元論はこのようなかたちで、神の解釈は絶対的な定言命題であり、解釈学的循環は起こらない。図にするとこのような感じ。

デカルト主客観論

 一方フッサールが経験の次元で見つけた解釈学的循環は、あえて図にすると、僕の解釈ではこうなる。

フッサール(ノエシス・ノエマ)
◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

 


PR

[TRPG]6.TRPGの解釈論性:解釈学的循環、有機体の論理


第二部 反省理論と解釈理論

第六章 解釈学の論理と展開

第一節 解釈学の論理を制約しているもの

とにかく解釈学の論理の事象的な基盤となっているものは、いったい何であるのだろうか。(中略)
まず第一に挙げられるのは、人間の知が原理的に免れえないパースペクティヴ性(Perspektivitat)または視点による拘束性(Gesichtspunktgebundenheit)である。第二に(中略)人間にとって生きられる論理としての「有機体(Organismus)」の論理が挙げられる。さらに、第三に記憶の固定化としての書物(Schrift)の原理が挙げられる。

第二節 解釈学的循環 哲学的解釈学の展開

 まずこの循環の働きが知見(ケントニス)を学問にまで高める場合に必要であること、そしてとくにテクストの読解(レーゼン)において生起すること、このことを定式化したのは、シュライエルマッハーである。彼は次のように語っている。
 「どんな場合でも完全な知識は、この見かけのうえの円環の内にある。すなわち個々の特殊なものは、それが部分をなしている一般的なものからのみ理解されうるとともに、その逆でもある、という円環の内にある。そしてどのような知識であれ、このように形成される場合にのみ学問的である。だから解釈されねばならないものは一度に理解されるのではなく、むしろどのような生も、先行的な知見(フォルケントニス)を豊かにすることによって初めて、よりよき理解をもたらすことができる。重要でないものの場合には、われわれは一度に理解されたもので十分である」

shu

 図示するとこのような解釈学的循環がシュライエルマッハーの有機体の論理でしょうか。
 ディルタイは、この節にも触れられていますが、

2.TRPGの解釈論性:解釈こそは技術である

で示したように、以下の図示でよろしいかと思います。


dhi

◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

[TRPG]5.TRPGの解釈論性:解説から。(2)

学問に王道なし、です。
 「わかりやすさ」症候群患者は、病人ですから自分で努力してくださいね。

解説

谷 徹

 これは氏に対する賛辞というよりも、むしろ単なる事実誤認だが、この事実をわざわざ確認したのは、現代の「わかりやすさ」症候群に陥った読者には、本書を読む上で、ある種の「覚悟」を決めていただきたいからである。そもそも「わかりやすい」というのは、既成の概念の枠内(閉域)に収まっている、ということだろう。しかし、そうした枠組みですべてが理解できるなどと考えてはなるまい。むしろ、そうした枠組みを開き、突破して「知」を希求するのが、まさに哲学者である。そういう哲学者の書いた哲学書として、本書は、入門書のようには読めない。しかし、氏とともにと突破を成し遂げた読者には、大きな知的感動――あえて言えば知に貫かれるような感動――が待ち受けているだろう。


◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

[TRPG]そもそも感情移入は。

 TRPGであるからこそ、われわれが、PLとしてPCを用いて遊ぶとしても、PCはどこまでいっても<他者>であって、さらにはPCはハイデガーのいうような道具的存在に過ぎない。PLとPL同士も、またPLとGMもまた<他者>である。ただし、この<他者>はTRPG上で、「配慮(気づかい)」しあう存在の共同体に他ならない。

 われわれがどんなに感情移入し、自己同一視しようとも、<他者>の(例えば)虫歯の痛みを同様に体験して、痛みを計測しているのではない。

 われわれが、感情移入し、自己同一視しようとする一面とは、<他者>の(例えば)虫歯の痛みを同様に体験して、痛みを計測しているのではなく、<他者>への「配慮(気づかい)」のうちでのわれわれのあり方の問題でしかない。

 例えば、演劇で感情移入するときに、ハムレットの苦悩を測っているのではなく、配慮(気づかい)を伴う解釈を俳優の表現によって、われわれが行っている。
 さらに、その解釈の前には「相(アスペクト)」というわれわれの知覚しうる、いわば意識の枠組を通して、気づかされている。

 芸術作品の「美」はそれを解釈する側にある「相(アスペクト)」がなければ、作品とコミュニケーションをとることができない。
 解釈する側にある「相(アスペクト)」とは、虫歯の痛みも一度も体験したことがなければ、指標としてはないし、美もまたおなじように、一度も体験したことがなければ、指標はない。

 もちろん、TRPGの面白さは、それを知覚するための指標、「相(アスペクト)」によって、枠組付けられた中に解釈される。

 もしわれわれのTRPGでのコミュニケーションのやりとりのなかに、別次元の様式や、高次元の様式、基底部の次元があるとしても、それは堂々巡りの差別化を企てた、単なる対応照応関係があるだけに他ならず、「異なるコミュニケーションの様式(TRPGでのコミュニケーション)」であることを示せば、認めるだけのことに過ぎない。
 様々な学問領域から、安易に用語を持ち込んできたりしても、僕は次のように警鐘を鳴らす。

 僕が、無神経に誠実に指摘しておきたいことは、TRPGを語る上での、別のことを語ることの問題には、TRPGの向上や普遍化などといったためには何にも役に立たない、雑談に過ぎないことを、方法論的に得られる結果を想定している(例えば数学理論、メタ言語学など)のにもかかわらず、あえて適用して、客観的事実や観点として信じさせる方法的欺瞞で強弁することで、TRPGに、そしてそれを楽しむ人に、あだなすこと、混乱させること、誤解させること、惑わすことなどこそが、本来的に注意すべき重大なことであるという認識があるかということです。


[TRPG]4.TRPGの解釈論性:解説から。

この哲学書における現象学と解釈学の邂逅とは、次の記事に挙げる地平の開けにおいて、

 「存在者(意味)と存在(意味母胎)との関係」
 「存在(意味母胎)から存在者(意味)が生じてくる運動を、その内側から解明する」

 ことにある。
 読み進めて行くには、大きな手がかりです。

解説

谷 徹

 反省が理論的(テオリア的)な営みだとすると、反省以前の次元は実践的(プラクシス的)な次元である――この場合の実践は、理論の応用や実行でもなければ、理論理性の上位次元でもなく、理論に先行する次元である。(中略)ただし、世界は「受動的原信念」と言う仕方で経験されている。(中略)自我は「対象」に(中略)「能動性」を発揮するが、その能動性は、あくまでも対象の地盤として(目立たない)世界の存在の「受動的原信念」を前提しているのである。
(中略)
 反省以前には、自我は、それが反省において形成しようとする閉域をまだ形成しておらず、世界の存在に開いているのである。この開いた関係のなかには、身体が介在し、さらにまた間主観的な他者が介在している。自我は、この開いた関係の中で動機づけられている。(中略)実践という問題次元は、自己意識と世界の開放的・動的な関係を、実践的な問題次元は、開いているのである。
 こうして、現象学は、反省哲学を克服して、この新たな開放的動的関係を見出す。しかし、これは、反省や対象化という方法の自己克服を要求する。この時、現象学的な自己意識はこの開放的・動的関係そのもののなかに入り込んで、いわばみずからこの関係を実現・成就していこうとするのである。ここに現象学の方法的転回が生じる。これは、自我の閉域の「外部」あるいは「下部」からの呼び声に従った、ある種の目的論的転回である(略)。
 この点を踏まえると、新田氏の試みがいっそう明確になるだろう。つまり、氏は、地平と自我の閉域とを越えて、存在者(意味)と存在(意味母胎)との関係を問い、しかも後者から前者が生じてくる運動をその内側から解明しようとしているのである。


◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

[TRPG]3.TRPGの解釈論性:現象学は学の域を規定する

 現象学的手法について、分かりやすい節です。
 この手法が、あとで解釈学と交差する邂逅を迎えます。
 本書においての主役の登場に当たります。この節は、ほぼそのまま引用しなければ、理解不能だと思われましたので、省略には注意しました。

 この現象学の考え方において、TRPGはゲームだ、遊びだ、とカテゴライズしてしまって、自然主義や科学を当てはめることが、いかに安易な無反省に立っている事がわかるのではないでしょうか。

 「一般定立の判断中止(エポケー)」、存在定立を放棄するのではなく、定立に何の変化も加えないでただ「使用しない」状態に移すという操作によって、対象に関するすべての判断や理論の妥当を禁止することによって、つまり存在妥当を方法的に排除することによって、対象に関わる意識の働きの現場をありのままに取り押さえることができると見る。

 この方法が、それもまた方法であることを自覚した立場から、TRPGを見たとき、社会学や、心理学、ゲーム理論(数学)など、人間のコミュニケーション上で行われるTRPGにどこまで適用できるでしょうか。

 そして、様々なゲーム・システムのTRPGの遊び方に面白さにつながる巧い・下手の共通項が本当にあって、そのまま当てはまるでしょうか。

 僕はそれぞれのTRPGには、別々の巧い・下手があって当然だと思います。

 学問の領域をTRPGすべてに共通適用させようと企てることも無理ではないかと思います。
 「楽しさ」は自然科学的に解剖できるかもしれませんが、それで得られる結果は、その手法がはじめから想定していた結果のみが得られるだけだと思うのです。

第二節 現象学の意図と方法

現象学の根本意図

 フッサールでは知とは、その原初的形態について言えば、意識の主観の作用によって意味として構成されたものであり、この相関関係の対象項として成り立つ。意識作用と対象意味との相関性は、志向性(Intentionalität)という概念で言い表される。
 (中略)この志向性そのものの原理を問い、これを意識の全体的な本質連関を形成する原理機能として捉えた。すなわち志向された対象が単に思念されるだけでなく、直観において充実される仕方、つまり明証(Evidenz)の問題にまで深めたのである。
 明証とは、存在者が自ら現われ出るままに存在者を規定していること、すなわち存在者の自己能与(Selbstgebung)のことであり、意識の側からいえば意識に対して「自ら与えられているもの」の傍に立ち臨み、存在者が現れ出るままに存在者を規定していることであり、存在者への真の近みから存在者について原初的に知を形成する理性の機能を意味する。ところが、明証は、フッサールによると、対象があるがままに自らを与える原的明証(例えば知覚)を原様態としてさまざまの派生様態(例えば想起とか想像)をもち、段階的体系を形成している。したがって、意識の全体的連関の志向的分析とは、根源的明証を原点として構成されている明証の体系の露呈なのであり、フッサールの企てる知の体系的基礎づけとはまさにこの志向的分析の体系的実施にほかならなかったのである。

現象学の方法的態度

 自然主義は、「事象自体への帰行という基礎的要求を、自然事物に関わる経験によってすべての認識を基礎づけようとする要求と同一視し、もしくは混同している」ところに原理的誤謬を犯している。事象を自然的事象にのみ限局することによって、その結果、論理的対象を自然的経験に解体したり、経験そのものを自然的事象に組み入れたりして、「理念の自然化」や「意識の自然化」に陥っている。こうした自然主義の態度は、本来は科学のひとつの方法的態度なのではあるが、しかし方法であること忘れてしまうと精神的なものや理性的なものまでも、自然的なものであるかのように断定するひとつの形而上学的独断になってしまう。
 なぜこのような方法的偏見や科学的先入見が発生してくるのか。フッサールは、このような先入見の発生の根拠となるものを、人間の意識につきまとう最も自然的であり、基本的といえる「自然的態度(natürliche Einstellung)」に見出している。
 この態度の特徴を、フッサールは、第一に対象の意味と存在を自明的とする捉えかた、第二に世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組の暗黙の前提、第三に世界関心への没入による意識の本来的機能の自己忘却という点に見ている。
 フッサールが自然的態度の最も根本的な特性とみなすのは、この態度に生きる限り、どんな場合でもつねに世界の存在が暗黙裡に前提されていることであり、この世界確信を一般定立(Generalthesis)と呼んでいる。さらに、自然的態度におけるすべての対象関係は、世界と言う枠の内で行われ、科学的認識もすべて世界関心に含まれると言う意味で世界関係的、世界拘束的である。したがってこの世界関心の内で意識が自らを反省するにしても、自らを「世界の内の一つの存在者」として見出すだけであって、純粋な理性機能としての自己に気付くことはできない。
 そこでフッサールは、自然的態度を方法的に乗り越えてこれらの問いを問い抜くために、「現象学的還元」(phänomenologische Reduktion)とよばれる態度変革の方法を唱えたのである。(中略)「機能しているままの相において」取り出すことでなければならない。フッサールは、「一般定立の判断中止(エポケー)」とよんでいる。エポケーは意識の作動を中止することではあるが、しかし、存在定立を放棄するのではなく、定立に何の変化も加えないでただ「使用しない」状態に移すという操作である。
 (中略)対象に関するすべての判断や理論の妥当を禁止することによって、つまり存在妥当を方法的に排除することによって、対象に関わる意識の働きの現場をありのままに取り押さえることができると見るわけである。
 (中略)対象意味と意識作用との相関的関係を分析するのは、非世界関心な、つまり「無関与的な」反省のまなざしであり、この現象学的反省によって遂行される志向的相関構造の分析は「志向的分析」と呼ばれている。『イデーン』Ⅰでは、この分析論は、感覚与件(ヒュレー)を生化させて対象的統一として構成していく意識作用であるノエシスと、ノエシスによって構成された対象意味であるノエマとの相関構造の分析とされ、ノエシス・ノエマの分析論の体系的な見取り図が描かれた。志向的分析論に引き続いて『イデーン』Ⅱ、Ⅲでは、存在者を本質的に区分する存在領域(自然や精神)の構成的分析および、経験科学の根底にある本質学としての領域存在論の、現象学的基礎付けが企てられた。


◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

[TRPG]2.TRPGの解釈論性:解釈こそは技術である

TRPGの解釈学性は、このディルタイの解釈学論においては、体験―表現―了解の円環過程のうちにあり、創造的力動的作用と見られるべきである。ディルタイが解釈(Interpretation,Auslegung)と呼んでいる技術とは、了解が、固定された表現をとおして表現以上のものを追体験してゆくに必要なものだと言える。

 そして、了解には「受容する」能力と「自己活動的に形成する」能力とが分かちがたく統一されているから、了解や解釈が受容的にして同時に創造的であるゆえに、「著者を、著者自身が自己を了解していた<よりもよく(ベッサー・アルス)>了解することが必要である」と唱えることができる。

 しかしディルタイが審美主義的立場に立つ方向へ向かうとなると、拒まざるを得ない。
 『了解や解釈が受容的にして同時に創造的である』とするならば、審美主義的立場は、創造的力動的作用との主張に反し、静動、静観、いわゆる、お地蔵さまプレイを正当化する。

 TRPG論考者が、しばしば、そのような審美主義的プレイに陥ることがあるのは、新カント学派の形式的かつ固定的な「主観―客観―関係」に固執したTRPGのもつ変化に対する警戒と防禦的後退とも言える姿勢によって貫かれたか、または、ディルタイと同じような陥穽に嵌り、TRPGの「遊び」もしくは「ゲーム」の、創造的力動的作用を、TRPGの中のセッション中に発揮できないのかもしれない。

 実のところ、了解というものの中に解釈と言う技術があるならば、そればかりではなく、表現にも解釈を根底においた技術があるはずだと僕は思う。

第一部 現象学と解釈学――その接近と提携

第一章 現代ドイツ哲学の動向――学的認識から経験へ

第一節 新カント学派から生の哲学へ

新カント学派の歴史認識論

 新カント学派の形式的かつ固定的な「主観―客観―関係」に固執したこの試みは、科学的認識に対して外部から付加された認識論としての素朴性を脱却していないばかりか、(中略)現実のもつ変化に対する警戒と防禦的後退とも言える姿勢によって貫かれている。

生の自己了解

 生動性はけっして客観的観察によって捉えることはできず、むしろ内からそれを気づくしかないところのものである。この「気づく働き(Innesein)」は、「気づく作用」と「気づかれる内容」との分離できない統一態であり、それ自体、直接的な自己確実性を意味している。ディルタイはこれは「体験」の統一性として見出すのである。(中略)「体験は、その諸部分が共通の意味によって結合されている統一のことである」とディルタイはいっている。
 (最も注目さるべき点は)生の自己了解が単に過ぎ去ったものの再生的反復ではなく、むしろ生をまさしく生たらしめている生の自己創造的な営みであるという点である。表現はそれなりに表現される体験内容の単なる反復と言うよりも、生の深層部まで照らし出す働きを有し、了解もまた了解者にとって表現以上のものをもたらすと言う意味で創造的である。体験―表現―了解の円環過程は、反復運動ではなく、生の汲み尽しがたさを表す創造的力動的作用と見られるべきである。
 了解が、固定された表現をとおして表現以上のものを追体験してゆくには技術が必要であり、ディルタイはこの技術を解釈(Interpretation,Auslegung)と呼んでいる。
(中略)
 (アリストテレスの詩学、キリスト教の聖書解釈、シュライエルマハーによって、了解が作品の創造過程の追構成であり、創造する精神の源泉にまでたどり直す方法とされたのであるが、ディルタイによれは、それは)了解には「受容する」能力と「自己活動的に形成する」能力とが分かちがたく統一されているからにほかならない。このように、了解や解釈が受容的にして同時に創造的であることに基づいて、「著者を、著者自身が自己を了解していた<よりもよく(ベッサー・アルス)>了解することが必要である」と言う命題が成り立つ。

歴史的相対主義とディルタイの限界

いうまでもなくこの審美的立場は、内在主義の方向とは相容れない矛盾した矛盾した方向にある。(中略)ディルタイの哲学を導いた最も基本的なモチーフは、ひとつは、直接的な知がいかに生動性と結びつくのかという問いであり、もうひとつは、歴史的内在的知がいかにして歴史認識の普遍性をもちうるのかという問いであった。しかし生の概念が不規定であるために、いずれのモチーフも徹底して問い抜かれず、知の根源性はフッサールの現象学によって、生の自己了解の根源的事実性の意味はハイデガーの存在論によって、それぞれ改めて問われることになるのである。


◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

[TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

TRPGの解釈学論性を考えるために「現象学と解釈学」新田義弘をレジメて行こうと思います。
 オビには、『「現代哲学」の深みへ 二つの流れの邂逅と離別』とあります。 

現象学と解釈学

 

新田義弘(ちくま学芸文庫)

まえがき

第一部 現象学と解釈学――その接近と提携



第一章 現代ドイツ哲学の動向――学的認識から経験へ


2.TRPGの解釈論性:解釈こそは技術である
3.TRPGの解釈論性:現象学は学の域を規定する

第二章 現象学の歴史的諸展開――本質現象学から「人間と世界」の現象学へ
第三章 現象学研究の現況――生活世界と地平と現象学

第二部 反省理論と解釈理論



第四章 現代哲学の反省理論
第五章 解釈学の現況
第六章 解釈学の論理と展開



6.TRPGの解釈論性:解釈学的循環、有機体の論理
7.TRPGの解釈論性:解釈学的循環、有機体の論理(2)

第三部 現象学の近代批判



第七章 ハイデガーによる技術批判
第八章 フッサールによる科学の客観主義批判
第九章 フッサールの目的論と近代の学知

第四部 媒体性の現象学への道



第十章 近さと隔たり――隠れたる媒体についての所感
第十一章 現象学に課せられたもの
第十二章 現象学的思惟の自己変貌――フライブルク系現象学の現代的展開への展望

初出一覧
あとがき
解説 谷 徹


4.TRPGの解釈論性:解説から。
5.TRPGの解釈論性:解説から。(2)
索引