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 現象学的手法について、分かりやすい節です。
 この手法が、あとで解釈学と交差する邂逅を迎えます。
 本書においての主役の登場に当たります。この節は、ほぼそのまま引用しなければ、理解不能だと思われましたので、省略には注意しました。

 この現象学の考え方において、TRPGはゲームだ、遊びだ、とカテゴライズしてしまって、自然主義や科学を当てはめることが、いかに安易な無反省に立っている事がわかるのではないでしょうか。

 「一般定立の判断中止(エポケー)」、存在定立を放棄するのではなく、定立に何の変化も加えないでただ「使用しない」状態に移すという操作によって、対象に関するすべての判断や理論の妥当を禁止することによって、つまり存在妥当を方法的に排除することによって、対象に関わる意識の働きの現場をありのままに取り押さえることができると見る。

 この方法が、それもまた方法であることを自覚した立場から、TRPGを見たとき、社会学や、心理学、ゲーム理論(数学)など、人間のコミュニケーション上で行われるTRPGにどこまで適用できるでしょうか。

 そして、様々なゲーム・システムのTRPGの遊び方に面白さにつながる巧い・下手の共通項が本当にあって、そのまま当てはまるでしょうか。

 僕はそれぞれのTRPGには、別々の巧い・下手があって当然だと思います。

 学問の領域をTRPGすべてに共通適用させようと企てることも無理ではないかと思います。
 「楽しさ」は自然科学的に解剖できるかもしれませんが、それで得られる結果は、その手法がはじめから想定していた結果のみが得られるだけだと思うのです。

第二節 現象学の意図と方法

現象学の根本意図

 フッサールでは知とは、その原初的形態について言えば、意識の主観の作用によって意味として構成されたものであり、この相関関係の対象項として成り立つ。意識作用と対象意味との相関性は、志向性(Intentionalität)という概念で言い表される。
 (中略)この志向性そのものの原理を問い、これを意識の全体的な本質連関を形成する原理機能として捉えた。すなわち志向された対象が単に思念されるだけでなく、直観において充実される仕方、つまり明証(Evidenz)の問題にまで深めたのである。
 明証とは、存在者が自ら現われ出るままに存在者を規定していること、すなわち存在者の自己能与(Selbstgebung)のことであり、意識の側からいえば意識に対して「自ら与えられているもの」の傍に立ち臨み、存在者が現れ出るままに存在者を規定していることであり、存在者への真の近みから存在者について原初的に知を形成する理性の機能を意味する。ところが、明証は、フッサールによると、対象があるがままに自らを与える原的明証(例えば知覚)を原様態としてさまざまの派生様態(例えば想起とか想像)をもち、段階的体系を形成している。したがって、意識の全体的連関の志向的分析とは、根源的明証を原点として構成されている明証の体系の露呈なのであり、フッサールの企てる知の体系的基礎づけとはまさにこの志向的分析の体系的実施にほかならなかったのである。

現象学の方法的態度

 自然主義は、「事象自体への帰行という基礎的要求を、自然事物に関わる経験によってすべての認識を基礎づけようとする要求と同一視し、もしくは混同している」ところに原理的誤謬を犯している。事象を自然的事象にのみ限局することによって、その結果、論理的対象を自然的経験に解体したり、経験そのものを自然的事象に組み入れたりして、「理念の自然化」や「意識の自然化」に陥っている。こうした自然主義の態度は、本来は科学のひとつの方法的態度なのではあるが、しかし方法であること忘れてしまうと精神的なものや理性的なものまでも、自然的なものであるかのように断定するひとつの形而上学的独断になってしまう。
 なぜこのような方法的偏見や科学的先入見が発生してくるのか。フッサールは、このような先入見の発生の根拠となるものを、人間の意識につきまとう最も自然的であり、基本的といえる「自然的態度(natürliche Einstellung)」に見出している。
 この態度の特徴を、フッサールは、第一に対象の意味と存在を自明的とする捉えかた、第二に世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組の暗黙の前提、第三に世界関心への没入による意識の本来的機能の自己忘却という点に見ている。
 フッサールが自然的態度の最も根本的な特性とみなすのは、この態度に生きる限り、どんな場合でもつねに世界の存在が暗黙裡に前提されていることであり、この世界確信を一般定立(Generalthesis)と呼んでいる。さらに、自然的態度におけるすべての対象関係は、世界と言う枠の内で行われ、科学的認識もすべて世界関心に含まれると言う意味で世界関係的、世界拘束的である。したがってこの世界関心の内で意識が自らを反省するにしても、自らを「世界の内の一つの存在者」として見出すだけであって、純粋な理性機能としての自己に気付くことはできない。
 そこでフッサールは、自然的態度を方法的に乗り越えてこれらの問いを問い抜くために、「現象学的還元」(phänomenologische Reduktion)とよばれる態度変革の方法を唱えたのである。(中略)「機能しているままの相において」取り出すことでなければならない。フッサールは、「一般定立の判断中止(エポケー)」とよんでいる。エポケーは意識の作動を中止することではあるが、しかし、存在定立を放棄するのではなく、定立に何の変化も加えないでただ「使用しない」状態に移すという操作である。
 (中略)対象に関するすべての判断や理論の妥当を禁止することによって、つまり存在妥当を方法的に排除することによって、対象に関わる意識の働きの現場をありのままに取り押さえることができると見るわけである。
 (中略)対象意味と意識作用との相関的関係を分析するのは、非世界関心な、つまり「無関与的な」反省のまなざしであり、この現象学的反省によって遂行される志向的相関構造の分析は「志向的分析」と呼ばれている。『イデーン』Ⅰでは、この分析論は、感覚与件(ヒュレー)を生化させて対象的統一として構成していく意識作用であるノエシスと、ノエシスによって構成された対象意味であるノエマとの相関構造の分析とされ、ノエシス・ノエマの分析論の体系的な見取り図が描かれた。志向的分析論に引き続いて『イデーン』Ⅱ、Ⅲでは、存在者を本質的に区分する存在領域(自然や精神)の構成的分析および、経験科学の根底にある本質学としての領域存在論の、現象学的基礎付けが企てられた。


◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次

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