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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]さらば、馬場理論よ(2)「TRPGの目標は物語」

TRPGは、演じて物語を作る遊びである。

 TRPGの目標は物語であり、「初心者のためのRPG入門」で、語られるような、

(以下引用)
RPGとは、架空の世界を舞台に、与えられた状況や制限や障害のもとで、登場人物を自由に動かして、目標達成を目指すゲームです。

状況/制限/障害/目標といったものは、原則としてゲームマスターと呼ばれる特別な参加者が決めます。
(引用ここまで)

 ではない。
 物語の作法である、関係/変化/解釈で、成り立ちます。

 TRPGの根幹は創造性であって、馬場氏の言うゲーム性(問題解決の疑似体験)ではないのです。

 もし疑似体験だとすれば、肝の小さい人間が冒険するのを味わうだけのツールとしてしか適所性はない。
 さらにもし疑似体験だとすれば、TRPGはさまざまなシチュエーションにおいて、確率論的な精密さが重視されてしかるべきでした。

 ところが、現実、それが実現することはなかったこと、リプレイ同人誌の隆盛、そしてオリジナル小説やライト・ノベル作家の輩出などを見れば、この見解は正しくない。
 馬場氏の言うような、状況/制限/障害/目標をリアルにやるために、ヨットで太平洋横断の冒険家なんて聞いたこともない。

 「初心者のためのRPG入門」と題しながら、馬場氏は別の遊びを論じているのです。

 本来、まず、関係があり、それが変化し、それを解釈する。
 GMはPCに立ち位置を与えます。
 PCの解釈とは、他ならぬプレイヤーの解釈のうちPCに適用される部分です。

 そのPCへの適用が「ロールプレイング」であり、役割分担のことでは決してない。
 もし、役割分担がロールプレイならばサッカーのポジションについての説明にもなってしまい、サッカーはロールプレイングだという、頓珍漢ぶりの論法になります。

 以前全てに目を通しましたが、馬場氏はコラムを書くに当たりゲームを行っています。
 馬場氏はコラム・ゲームをしていただけに過ぎません。

 デザインだけがゲームを語ってくれる、でしたか。
 馬場氏はゲームをデザインすることどころか、ゲーム自体やめました。
 事情はどうあれ、口先だけゲームを語ることを、当の本人がやらかしていることに無性に怒りを感じます。

 さらば、馬場理論よ!


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[徒然]ファンタジー小説コンテストに。

アルファポリス―電網浮遊都市―

 に、藤川大和、隆見ヲサム名義で、ファンタジー大賞に「電脳魔女は歌う」を投稿いたしました。現在、94位くらい。
 ぜひ、投票、よろしくお願いいたします。

 あらすじ。

 架空の未来世界にある魔法の秘密結社「マジシャナルズ」と科学の秘密結社「テクノクラテス」。

 「テクノクラテス」は、魔女狩りで命を落とした人々を、魔女アンラ・マンユとして、よみがえらせた。混乱に陥る世界。
 「マジシャナルズ」は、超能力者や魔法使いのエージェントチームでこれに当たらせる。

 キース・カサンダー。
 クリシュナ・レヴィ
 マロン・デュリス。
 ティレン・ロンドゥップ。
 白魔。
 シャイターン。

 しかし、「テクノクラテス」はさらに、精鋭のレプリカントチームを送り出した。

 なぜ、魔女をよみがえらせたのか?

 謎を抱いたまま、戦いが繰り広げられる。エージェントは、「審判」を下しに来ると分析される。

 そして、一行は、「テクノクラテス」の本拠たる、月へ。
 はたして、謎の答えは出るのか。
 エージェント同士の確執は解けるのか。

 ぜひ、ご一読の上、ファンタジー大賞での投票お願いします。

[TRPG]さらば、馬場理論よ。

 下の記事http://western.blog.shinobi.jp/Entry/59/の確率論的な、決定的な誤りを犯しているTRPGに、馬場秀和氏は、「疑似体験としてのロールプレイ」を提唱しました。
 これは「なりきりロールプレイ」に対して、馬場氏は反駁したものです。

 こんな確率論的におかしな奇妙な世界に「疑似体験」、ヴァーチャル・リアリティを求められるでしょうか。

 決定的に、「なりきり」に軍配が上がり、「いい歳して赤面」でしょう。

 ファクターに分類するスポーツ科学にコーディネーションというものがあります。ニコライ・ベルンシュテインが基礎を築いたものです。

 こちら、http://www.jacot.jp/coordinationtraining.htm など。

 消去される可能性も考えて、サッカーでの適用例を。




コーディネーション
定位能力 絶え間なく動いている味方、相手、ボール並びにゴールとの関係で、自分の身体の位置を時間的・空間的に正確に決める能力(情報処理)
変換能力 プレーの最中に(例えば相手をかわしているとき)突然知覚した、あるいは予測された状況の変化に対して、運動を切り替える能力(予測、先取り)
識別能力 タイミングを合わせ、ほどよい力加減で緻密な行為をするために、身体各部を正確に、無駄なく互いに同調させる能力(巧緻性、ボール感覚)
反応能力 予期されていた信号、あるいは予測されなかった信号(例えばそれたボール)に対して合目的的なプレーを素早く開始する能力
連結能力 ボールを操作するここの技術・戦術的行為を空間的・時間的かつダイナミックにつなぎ合わせる能力(コンビネーション能力)
リズム能力 自身の運動リズムを見つけたり、真似したり、さらには決定的なタイミングをつかむ能力
バランス能力 空間や移動中における身体バランスを維持したり、崩れをすばやく回復させる能力

 ところが、ファクターのどれを伸ばすかという「訓練分析理論」であって、勝敗を予想しうる「勝利分析理論」ではないのです。
 TRPGは、「訓練分析理論」の方を経験値などで成長・訓練をする理論のままで、そのまま「勝利分析理論」とは一致しないことを忘れて、成否判定に適用しているのではないでしょうか。

 そんな「疑似体験」をわれわれは望まないはずです。

 ついでにいえば、「ゼロサム」は「零和」が訳語です。零和だけ外来語読みするのは、僕が知る限り(妹は経済学をやりましたので、その教科書も読みました)では後の時代のこと。完全情報とか逐次手番とかも外来語読みしないのがおかしい。おそらく、馬場氏は論考に必要な教育を選ばなかったのでしょう。

 僕が勉強中、ノーベル賞を取った統合失調症患者で同性愛者のJ・ナッシュ氏の均衡解など合理的選択論なのであって、ゲーム理論はゲームが何故楽しいのかという、答えを与えない。楽しいゲームとは何かを論じる学問ではそもそもない。定義の難しい、「合理的」を論じるだけで、まだまだこれからの仕事、難問が山積みなのです。「合理的」であることで、有意義な時間が過ごせるかは分からないはず、というか、関係がない。

 大誤解の連発をしでかしていると思います。

 ということは、見方によっては、根拠不明なまま、物を拵えずに、ヤクザのように因縁つけで心理戦を仕掛けていたのでしょうか。実のところ、チキン・レース・ゲームの脅迫戦略に過ぎなかったと推測します。
 これからはそんな心理戦は目もくれず、無評価とします。無価値とは言いませんが、根拠がおかしい。語学だけできることは認めます([TRPG]コスティキャンの翻訳は誤訳。)が、語学は何を語るかという内容が常に問題です。

 とくに、それに拠る所が大きい論([TRPG]アディオス、馬場理論よ。)も、ひとまず、撤回していきましょう。
 コスティキャンの分析もファクター分類をしただけなので、「訓練分析理論」のままに過ぎないのでデザインの参考にはなりにくい。いくらゲームの性能諸元を語って聞かせても、ゲームのデザインどころか、ゲームにお誘いすることもできない。ゲーム性はあくまでもそのゲームの面白さで、たいていの場合、ある状況のときこうしたのが面白かったというお話から伝えられるものです。

 われわれは「訓練分析理論」でコンピュータ・チェスのアルゴリズムのように駒の価値を決める前に、チェスが面白い仕掛けであることが分かるよう、「何々のエチュード(詰めチェス)」のような物語的な「勝利分析理論」を見据えなくてはならないのです。

 そしてさらに、「何々のエチュード」を編み出す方法論こそが、TRPG論に必要です。
 ナッシュの興味深い人生に興味があれば、おすすめの映画です。



[SYS]意図しない合成の典型例



 上図のとき、成功Aと成功B、そして、ABの積(AもBも重なっている)を成功Aと成功Bの和事象という。
TRPGデザイン上、最も意図しない和事象の求め方は(A+B)/2という平均。これはグループ○NEが良くやる構文ミス。



AとBを足して2で割ると 

 その構文ミスは上図になります。つまり、A=10000、B=1のとき、10001/2=5000.5。Bがどれだけ足を引張っているのだか。おかしいでしょう。

 (A+B)したときに、ABの積は2回足されている(二重に足されている)ので、ABの積を一度引いたのが、成功Aと成功Bの和事象。

 基本的にシステムデザインのとき、ABの積はどれだけとればいいのかは、明記されない。つまり、成功AとBを導く、判定能力又はスキルの混合する性質の部分が明らかではないから、単純に和事象を求められない。(数学的な専門用語では確率変数[函数なのだけれど変数という]という。典型例としては、「敏捷・器用」「筋力・耐久」などの、積の確率変数がケース・バイ・ケースだということ)

 ファクター(要素)に確率を求めると、ここが不確定性となる。これは、ファクターの定義問題で、システムデザイナーの問題。定義問題を、おのおののGMに、マスタリングさせるか、プレイングさせるか。とにかく、ユーザーがデザイナーになる部分といえる。

 これが、拙ブログのhttp://western.blog.shinobi.jp/Entry/55/ のキャラクターデータ不確定性の内訳です。



誤差論の基礎

誤差論の基礎 (1969年)
メーカー:総合図書
osadasoft.com

[TRPG]非フレームワーク・サブルーチン系確率考察

 閑話休題。

 フレームワークがなくて、サブルーチンしかないデザインの単純系とはこういうこと。独立試行になる。

 「たとえば、十日間の行程で、一日当たり、1/6の確率でワンダリングモンスターに遭遇すると仮定する。」

 モンスターに何回遭遇するかを考えてみる。

 分かりやすく書くと、6面体サイコロを順番に10個振り、1が出る確率が高いのはいつかということ。これはよくあるシナリオデザインのミスで、一日目が最も高い。1回目が1/6、2回目は5/6*1/6だから。

 まず、すくなくとも一回でもモンスターに遭遇する可能性は(1-((5/6))^10)*100=83.8494%。
 遭遇しない可能性のほうは、100-83.8494=16.1506%。

独立試行の定理
1回の試行で事象Aの起こる確率がpのとき、n回の試行中r回起こる確率は
nCr*p^r*(1-p)^(n-r)

0 16.150558289 %
1 32.301116578 %
2 29.071004920 %
3 15.504535957 %
4 5.426587585 %
5 1.302381020 %
6 0.217063503 %
7 0.024807258 %
8 0.001860544 %
9 0.000082691 %
10 0.000001654 %

 錯覚を起こしやすいのは10*(1/6)=1.666666667回が最も多いと考える理屈。

 実際は、最も多いのは1回。
 次が、2回、0回(!)、3回、4回、5回、6回の順で、それ以上はかなり低い。

 だから、「たとえば、十日間の行程で、一日当たり、1/6の確率でワンダリングモンスターに遭遇すると仮定する。」というのは、ワンダリングモンスターに遭遇するゲームとしてデザイン的におかしい。ここで、リアリティがないと感じるのは、サブルーチンだけで構成されているからです。


[SYS]キャラクターの「ふるまいかた」「ありかた」

 俵ねずみさんの論考は、従来のスタイル論と僕のプレイスタイルの明確な区別になりました。
 もっとたくさんの方に読んでいただきたい論考です。

 これらデザインには、具体的なゲーム化に適用したいとの願いがあります。

 キャラクターのありかた、ふるまいかた、は、プルチックの情緒モデル(通常は立体の図を展開したものと考えます。このとき中心には強い感情があることとします)


プルチック


 この図に、サイトスクリーンをおき、命中部位判定を行って、人生の転機ごとにキャラクターがどんな情緒を抱いたのかを表します。

CharaGen1
 結果は、このように記述します。
キャラクタージェネレート結果

 以下は例示です。

   
南北戦争に突入。 驚き
北軍として戦闘を体験。 嫌悪
シャーマン将軍の指揮下に入る。 受容
将軍の焼き討ち作戦。 恐れ
終戦間際の奴隷解放宣言。 怒り


 といったような反応をしたと、見ることが出来ます。

 「ありかた」「ふるまいかた」の支援がゲーム的に期待できるかと思います。

[TRPG]論戦の前提。

 論陣の前提として、きちんとした論議が行われるように、言葉の齟齬の発生や言葉遊びにならないため、一度、哲学畑から指摘します。

 人類文化学者として有名な、ジャレド・ダイヤモンド氏が、生物の観察に残していった鉛筆を、現地民は「イヤリング」の飾りにしたという記述があります。

 主観、客観で説明付ける二元的な分割は、意味を成さないのです。世の中が、いくら「イヤリング」と言い張っても、鉛筆は鉛筆という、存在論的には、どうあがいても道具的存在なのです。

 ちなみに、主観客観の概念は、「神の存在証明のために合理主義」が、設定したものです。そうハイデガーは指摘しています。

 存在論的に道具的存在が持っているものは、「指示」であって、環境世界にとけこみ整理された状況が必要になります。これは、適した状況下にあれば、「適所性」をもち、「有意義」になります。
 そうでなければ、「ぐちゃぐちゃ」の存在、「片付けられていない」「整理されていない」ものとなります。

 おそらく、ハイデガーは、人間存在論的な接近をしていったと思うのですが、言葉とか論戦についても同じことが言えます。
 鉛筆はイヤリングになるといって、論じても有意義ではない。鉛筆が紙などに字や絵を書く「指示」があるのであって、イヤリングとして用いられるのは、「有意義」ではない。

 つまり、「西部劇がファンタジーであるか」という答えは以上の根拠からです。