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コメント欄に、将棋の優勝者に羽生名人と対決できること、などがあるのですが、そのゲーム大会において、羽生名人との対決は大会において、羽生名人がゲームトークン化している、と指摘します。
ゲームトークンであるから、「詰めろう」で、交代もありえる。また、「合理的」である「勝ち」にむかえる。完全情報においてはゲームトークンは、傍目八目(本来的な意味で)も含めた完全情報。
TRPGにはそれがない。基本的に集ったメンバーが、互いが互いのPCを解釈し合い、演技表現しあう中での模倣をゆるさぬいわば有機的な不完全情報。
PCはPLのその置かれたシチュエーションでの解釈物であり、表現物である。ゲームトークンの機能はこの場合分類されなくてはならない。
こちらは、俵ねずみさんのいう「ありかた」を「解釈」と呼び、「ふるまいかた」を「表現」と呼ぶと、宣言する。
俵ねずみさんが何も否定せず、肯定せず、分類だけする論文に終始したのは悪意を感じるが、とりあえず、ここではそういう呼び方をしておく。
そして「役割演技」は「芸術の一種」であって、それは「解釈」と「表現」とする一面を強調しておく。この一面はコミュニケーション上では成り立つ(芸術的に成り立つ)がゲーム的には成り立たない一面がTRPGには必ず起こりえることの経験則からいえる。
芸術の一例として、DTPデザインの基本から。
マルセルの色相というものがあります。これが、PLの個人尺度のスタンス(アプローチ)のベクトルとします。
色相、彩度、明度が成立した状態です。
ここまでは合理的に分かるのですが、色合いが作り出すトーンは非合理的です。
例示として。
混合色ではなくトーンの一例です。
これらを、意志決定論では崩しえないARS(ギリシャ語でアルス)とよびます。人間の着想自体、芸術と技術が根本的に未分化な状態です。
これは芸術を意志決定論で、分類しようとすると、大きな錯誤にあたります。
それぞれのトーンの要素色がそれぞれ「役割演技」、つまり「解釈」と「表現」ならば、展開プロセス、つまりストーリー(セッション)も全体的のトーンが統一されたものの例えになるかと思います。
音楽でいえば調をそろえていくのはなぜか。不協和音だらけにしてしまうと調子っぱずれになることと同じこと。
意志決定論で決定的に説明不能なのは、トーンを合わせようとしたり、調をあわせようとしたりという、それぞれのGMとPLの普通に普段からしていることを説明できないことです。「葛藤」「資源管理」は、ゲームの重要な要素かもしれない、それでも、政治や経営を芸術だと主張する人は聞いたことがありません。
芸術性を無視したゲーム性追求者は、人を楽しませあおうと努力する人より迷惑なことを少し自覚すべきです。
事実上の源流には、コミュニケーションとは別個の枠組みがあって、意志決定論や確率などを集合とする「形式性を持ったルール群」があった。テーブルゲームやシミュレーションゲームにソリティアがあることから言えることはコミュニケーションは不要な場合が許されている。それどころかソリティアには、コミュニケーション自体が邪魔だともいえる。
ところが、TRPGは、役割演技という「演じる」部分において、ソリティアがまず成立しない。一人で「演じる」ことはできない。このため、TRPGが、コミュニケーションの欠落を起こすと成立しない。TRPGは、まず、構造的にはコミュニケーションの枠の中で成立するように、デザインされることが前提となった。そして、「演じる」ことは、プロセスを生み副次的に「物語」の生産を行うこととなった。
そこで問題になる「物語」「演技」について、これがコミュニケーションの不成立を引き起こす事態が生まれ、馬場さんがゲーム性への回帰を、過剰にシニカルなノスタルジーでコラムが展開され、一時、アマチュア層に再考を促した。個人的にまとめるとミスリードしていなければ、こんな感じだと思います。
そして、コラムどおりの理屈の進め方では、結局、TRPG自体からの放棄撤退しかなく、やはり、TRPGの内部の構造を「コミュニケーションの成立」>(「ゲームの成立」&「演技の成立」(物語))と、受けとらざるを得ない。TRPGはここを崩すと成立しないと思います。この前提だけでもTRPGの面白さと言えるかもしれない。
ゲーム理論上では、正直一番考えたくない形式をとる悪夢のゲーム。ゲーム性は演技の適切な解釈規定性として立ち現れる。おまけに、第三者からの観察解釈を嫌う。ゲームが生物ならカモノハシのような存在かなあ。
他のゲームとゲームの意味合いが異なる。協力型というよりは、協奏型か。非零和、多人数という呼び方も正確には当てはまらない気がする。
やはり、直観的には、音楽理論のようなものはできても、物理理論のようなものはできないような気がします。
こちらの理想的ロール・プレイング・ゲームは、黒をコミュニケーションと考えると、上図になります。RP/Gは、Gの中のRP、図で表すとこういう意味です。
馬場氏が危惧している、彼が問題にしているのは下図のほうでしょうか。
テーブルゲームにさえ、サークル崩壊を起こすという、ゲームがあります。
よくそう言われる「ディプロマシー」は、ゲームがコミュニケーションを破壊したりする。ロール・プレイングはゲームとは無関係に等しいのにさらにコミュニケーションを破壊する。このような図で表してみました。
こちらが念頭に入れているのは下図のような状態です。
RP/GとRP/コミュニケーションとRP/コミュニケーションの崩壊であるゲームです。この状態を理想のカタチに仕立てるのが目標です。
RP/G=RPGとすれば、ゲーム性がないことを、G=0とすればRPGは間違いを起こしていることになります。
RPがない、RP=0とすれば、RPGはRPの成分を持っていないといえます。
Gを求めるにはRPとRPGを考えてやればいいのだと思います。
約束しました内容の記事です。
こちらは、「ウォーロック(雑誌)」の紹介で、まず手始めにD&D、それからT&Tを手に取ったクチで、この二つのデザインコンセプトが、どれほど異質であると理解したのか、大いに議論しました。
T&Tには初期デザインから、セービングロールが実装されていました。
D&Dには抵抗値という各種のエネルギー攻撃に対する防御力が表記されていました。
T&Tは、ゲームシステムの詳細化を嫌って、デザイナー自身がハウスルールの作成を奨励し、D&Dは上級MU(マジックユーザー)は塔を立てるので資金を集めるのだというように、デザイナーズルールによって、サポート体制をとりました。
議論になったのはT&Tの幸運度、知性度、魅力度です。
これらはPLの手に余るという意見と、PLとPCの違いが明確であるから賛成するという意見に見解が分かれました。
ところが、D&Dにはアライメントという演技指針が実装済みでした。
さらに、D&DはGMの判断に頼らず公式見解を発表し続け、ユーザーは経済的に恵まれていなければ楽しめないという、現在のTCGよりも酷い状況に陥りました。さらには違法なルールブックのコピー(複写)が出回り、それを元にした同人のリプレイが出回り、結局、市場規模の大きさの割に売り上げは伸びず、D&Dの版元「新和」撤退という形となり、D&Dの版権は抑え続けられ、AD&Dは日の目を見るのに十年以上もかかりました。
T&Tが、いわば隙間だらけの骨組みの処理体系でも、普及しました。
グループSNEが、後に「ロードス島戦記シリーズ」となったものも、初期にはT&Tが用いられ、SWが発表されても、T&Tは独自展開され、求めやすい価格の雑誌上でオリジナルのワールド、「セル=アーネイ」が発表され、ハイパーT&Tは二種類も出版されるほどでした。
シンプルで安価なT&Tが、D&Dやローズ・トゥ・ローズ、トラベラーなどへのシフトの起爆剤になりました。いわば、牽引役でした。
この市場戦略は決定的に、デザインコンセプトの違いにあります。例え稚拙でも、子供が子供を楽しませあう工夫を凝らす娯楽は今までになかったからです。そして、セービングロールという概念は、TRPGのオリジナルであるD&Dにも採用され実装されました。
D&DもT&Tも、はじめからRPGの役割演技をユーザーに要請していたのです。どちらのデザインが優れていたにせよ、この原点は忘れてはならないと思います。
昔も今も、TRPGは共同構築され発展していることは間違いありません。
重ねて強調します。
例えば、VCと渾名のついたルフィンというハーフエルフ(SW)のPCはそれを作り出したPLにしか、役割演技させることはできない。
同じレベルのスキルを持たせて、同じ装備を身につけさせても、別のキャラクターになる。PCはPLのものです。誰も代わりはいない。
チェスや将棋だとしたら途中でさえ誰かと交代できたりしますが、TRPGにはそれができない。ファイター系の代わりはいるが、特定の具体的なキャラクターの代わりはできない。
テーブルゲームで、パクス・ブリタニカのロシアは、やる人がいれば誰がやってもいい。TRPGにはそんなことはできない。
役割演技、これこそが、TRPGの本質です。
役割演技と、役割分担が重要な根拠は本質的に違うところにあります。
ロールプレイングとは役割分担ではなく役割演技である。
、「初心者のためのRPG入門」で、語られるような、役割分担ではない。もし、役割分担がロールプレイならばサッカーのポジションについての説明にもなってしまい、サッカーはロールプレイングだという、頓珍漢ぶりの論法になります。
オセロの白プレイヤー、黒プレイヤーも役割分担だといえてしまいます。
さらに言えば、役割分担ならば、GMが相手をしてくれる少人数が好ましく、最も楽しいことになります。役割分担の振り分けが一個のプレイヤーが担当すればいいのですから。
TRPGの目標が物語であれば、きちんと理屈が通ります。
展開の連続が物語である。物語には価値ある物、価値のない物、受け入れ易い物、受け入れ難い物などがあります。
問題解決もなく、ただ水溜りの鉄釘が錆びるだけのプロセスも、(価値のない)物語です。
なぜなら、われわれ人間のものの見方は、「因果」で、つまり「原因と結果」で見るようにできているからです。これは人間に備わったものの捉え方の「型」だからこそ、です。
さらに、物語を目標とするコミュニケーションのツールとするならば、「役割演技」の重要な鍵は示されます。
物語とすると、関係があり、それが変化し、それを解釈する。
このとき、役割演技とは、以下の構成になります。
GMは各PCに立ち位置を与えます。
もちろん、ハンド・アウトを投入するのも、各PCに立ち位置を与える「関係づけ」です。
プロセス(展開)によって立ち位置を与えるのも、確定要素から遠ざかることでディテール(詳細)を求めて、各PCに立ち位置を与える「関係づけ」です。
その関係付けの変化のPCの解釈とは、他ならぬPL(人間、それも互いの配慮の関係上にいる)の解釈のうちPCに適用される部分です。
そのPCへの適用が「ロールプレイング」であり、役割分担のことでは決してない。「役割演技」です。
PCには、存在論的に指示が与えられます。その指示は、さまざまな連関を伴い、単純に函数に収まらない。TRPGは具体的な存在論的環境世界を具体的に処理する以上、その連関はさらに恣意的なものです。
現実より恣意的である「因果」の記述は物語です。現実より恣意的である行動は「演技」です。
この役割演技説に基づいて、
恥ずかしい思いをしたかったりしたくなかったりする意思表明でもある「レッテル・システム」
物語の司会進行のGMからの指示である「コンダクト・システム」
わざと失敗したり成否のあり方を演技できる「五線譜判定」
などをデザインしました。
たしか、「役割演技」を評価する方式もいい、と、馬場氏は述べていますが、「役割演技」を否定していて主要な楽しみではないとしているのです。馬場氏は単に逃げ口上で考察に組み入れませんでした。
こちらは、「役割演技」こそが、主要な楽しみであり、その腕前は、物語を目標とするコミュニケーションのツールとする以上、PL自身の配慮・気遣いのできる人間性の深さやインスピレーションにこそあるとします。都合のいいことに、これは創造性が重視されることにつながるのです。
さらば、馬場理論よ!