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うろうろと、ネットをさまよい、このようなエントリに遭遇しました。
ロールプレイは演技するという意味です - xenothの日記
僕は馬場氏の翻訳を元に、コスティキャン論が展開されていくことを踏まえて、翻訳を信じ込んで考え足らずに論じてしまいました。
コスティキャン氏の原文は
I Have No Words & I Must Design
にあります。馬場氏が都合の良いように、改竄した概念を吹き込んで紛れさせています。
残念です。コラムゲームだったことがはっきりわかってしまった。
あの翻訳に問題性を感じないで鵜呑みにした人たちは、なんだったんでしょう。
僕の戦友が、こんなものを誤解したまま、僕以外の友達をどんどん失いながら(文字通り)死んだのは、悲しい。
今朝も電話が鳴って、「ベータさん、遅いですよ。ゲームもう始めますから来てください」と、はっとして目が覚めてしまいました。懐かしい声を夢見た。
まだ、そっちにはいけない。やること山積み。ごめん。
馬場氏はコラムゲームをしてましたが、なんとしてもこちらはTRPGシステムを拵えます。きっちり決意を固めました
とくに玄兎さん向けエントリ。
六茫星、五茫星に対して、白、黒の二重円の内円は、外接まで。
内円は番号点に接しなければならず、
白円は内円が大きい、妨害にきちんと対処していない。
黒円は、きちんと対処し、ある程度自在さが高い。
ちょっと説明が大雑把ですが、概念は伝わったでしょうか。
僕はこのような図で、ノンフィクションとフィクションを捉えられるかと思います。
図1
図2
TRPGはフィクションですから、図2に相当します。
火事が発生する確率は、ポアソン分布で得られますが、そこから考えると、疑似体験を謳うのはどこかおかしい。
さらにストーリー(物語)構築の現場のまさに最中において、TRPGは対話と解釈と換言出来ます。
[TRPG]物語という言葉の整理。
さらに以前の考察、[TRPG]さらば、馬場理論よ。に立ち戻ると、疑似体験というより、物語構築体験に近い。物語らしさ(=物語性)を再現しているのが、TRPGのルールシステムと言えるのではないかと思います。ゲームが終了したあとに思い返すストーリーのお話ではありません。なぜなら、シナリオに群像劇的なテーマを持ってきて、少なくとも僕の周辺では、よく遊ばれているからです。
さらに、その意識的な物語らしさが、じつは、キャラクターの運用上、図1のノンフィクションとも言える。TRPGは、フィクションを用いて、あくまで、ゲームシステム上のノンフィクション形式で物語を紡ぎ出している。
[TRPG]さらば、コスティキャンよ。においては、ゲームの共通項を導き出したことを認めるけれども、それはTRPGのシステム毎の特徴を説明する要素とはいえない、つまりゲームデザイン(=ルールシステムデザイン)とは無関係と結論しました。ゲームのストーリーの直線はゲーム上の意味があるのです。
TVシリーズの「24(TWENTY FOUR)」などは、駆け引き中心のドラマです。ゲーム的で、直線的ではない。
しかし、この極めてゲーム的なドラマは、ちょうど、登場判定に失敗したか、独自行動をとられているTRPGのプレイヤーの立場に近いでしょう。
ストーリーが直線的だから、感動させられるというコスティキャンの説明がどうかしている。
1on1でプレイしているならともかく、多人数でプレイしている経験を無視している。
選択肢、障害、資源などとなるものが存在したとして、自分のPCが関われない中、別行動のお地蔵さんとしても楽しんでいることを忘れている。
別行動のお地蔵さん状態のときはストーリーは直線的でお地蔵さんは感動するが、お地蔵さんはいざゲームを行うと感動できないのか。感動させられないのか。
コスティキャンは自ら自分のプレイング能力を「言葉通り当たり前のように受容的な問題解決」であるとしているのか。ならば、横槍を散々出す迷惑なプレイヤーか。
TRPGに参加するGMとPLは、脚本を自由にできる(ゲーム体験)がゆえに再現やミミクリではなく「物語らしさ」を構成する司会・参加責任があるのだと思います。
TRPG上の約束事。これは何度も思い返さなければならない。
TRPGのTRPGによる、この約束事によって、人が人とコミュニケーションをとり、互いを尊重しあう関係に身をおくのです。
その遊隙の関係の中でいわばシーソー遊びのように、遊動する関係を切り結ぶのです。ですから、他のPLを楽しませるのは、GMに限ったことではないのです。
そして、その楽しみは人間関係を取り計らった誰々によるゲームであるからこそ、楽しい。
これはTCGの対戦相手に子供が強い子供を連れて来て強い大人と戦うのを見るようなものです。
ゲーム理論では、(動植物も、人間も)誰もがゲームをしていると言う。
ゲーム理論の肝は、マックス・ヴェーバーのいう「価値合理」には触れず、「目的合理」には明確で、そして、「目的合理」のためには便利な手法である。
ゲーム理論の合理性というのは目的が有用であるとか、倫理的に解決できるとか、そういう方向にはない。
この「価値合理」は、ゲーム理論では考慮しない。これは、「ケーキの苺」の好き嫌いや、利他主義的な行動も含む。倫理上問題のあるものも含む。
このように、もとより、「目的合理」専門で楽しいゲームを生み出す理論ではない一端がお分かりになると思う。
操作をして、できるだけ単純で小さな、「目的合理」モデルを使い、計量を利得表にぶち込む。
自然科学や数学が自ら自身を自明と出来得ないのに対し、この自明自体から出発してくる現象学で言うならば、はじめの文は、
現象学では、人の誰もが知覚したとたんに解釈して、そして、地平を超出する。
もし、止揚させるなら、PLが「価値合理」つまりPCらしさの部分をロールプレイによって「解釈」し構築する。
そうして流れてきた展開とのかかわりの部分に反映(「地平への超出」)されていくときに、「目的合理」を「解釈」しつつ適用させるというところ。
つまり、ゲーム性の基盤にはロールプレイ(展開の連鎖=ミミクリ的な物語性)は不可欠という見方のほうがシンプルに説明できる。
PCの「価値合理」が(ハンドアウトなどではじめから含ませられるものも含めて)定まったあとに、「目的合理」をロールプレイするときにこそ、ゲーム理論の登場ではないかと思う。
そのある立場のどんなPCが「価値合理」を得て、「目的合理」を選ぶのか。実のところ、ここで、ゲーム理論はロールプレイの指針となる場合がある。
選択肢を選び判断することがゲーム(生活を企てていないがそれ自身の規則の中にあるわれわれの行動様式である遊び)の全てではない。キャラクターらしさの表現がある。しかもTRPGはゲームであるので、「目的合理」の遊隙に遊ぶこともできる。
ただし、大目標として、セッションが倦怠で終わらず、それがみんなの関わった物語という充足を目指すのだから、憐憫をかけて悪玉を逃がしたほうが面白い、というのは他のPLさんの倦怠を誘う場合、避けるべき。TRPGは配慮・気遣いしあうコミュニケーションであるから。一時的な集まりか、継続的な集まりか、継続的でも一時性を求めるのか、 それぞれ違う。
さらば、コスティキャン! でついたコメントで気になった点がひとつ。わかりやすく。
ゲームは物語ではない、インタラクティヴが云々で、僕は物語に関して認識を一致させる必要を感じた。
物語とは、基本的に伝達であり、コミュニケーションである。
ある物語を書くかどうかは、作家の選択であり、ある作家が書いたある箇所で、選択して記述した箇所に対して、重要だと解釈した箇所に付箋を貼るのは読者である。読者は選択権を持っていて、物語を読むか読まないかについても選択権がある。読まなければ、物語は止まる。
僕の場合、子供の頃、母親や父親の読み聞かせの童話(チャイクロ?)があり、きわめてゲーム的に物語られたものがある。紙芝居なども多く、芸達者な母親の読み聞かせっぷりは、幼馴染たちにも印象を残していて、母親の消息を気にしていると伝え聞く。
とくに紙芝居は差し替えもされていて、リクエストで話の筋が変わった。
まず、物語はインタラクティヴであることと矛盾しない(読まない・付箋を貼る)し、ゲ-ムとも矛盾しない。
その次に物語の芸術性を上げる。
ある女性書画家を看病したとき、芸術とは鍛錬・熟練を要する遊びとは無縁の「美」の創造と観照の関係なのだが、明らかに書画家は、遊びを入れてくださった。
「これは、お礼に。お金に困ったときに売りなさい。見る人が見れば最低でも十万円くらいにはなるから。」と、言って、そこに書いた文字は僕のゲームデザインノートの魔法呪文リストの呪文名だった。
これは遊びでしょう。
芸術は遊びではないが、遊びを包含することができる。
当然物語にも遊びは入り込むことができる。星新一先生のショートショートのイニシャル主人公など、上げるまでもない。
チェスをチェスたらしめているのは、「この駒でここの駒を取る」などの対話であり、「スティールメイトをねらってきた」などの解釈でしょう。
棋譜が物語とするならば、物語(棋譜)は全てチェスと無関係なのか? そんなことはない。貴重な棋譜は世界中で出版され戦法の研究解説書が、アラビア語版さえも出版されている。研究には途中まで棋譜に従い、そこから始める手法がとられる。TRPGだとリプレイをお手本にしたハンドアウトの当たりか。
遊びとは仕切られた規則形式の遊隙に遊ぶことであり、いくらでもその事物、自然事物の小枝もその物理的特性さえ規則形式の遊隙を見出せる。遊びとゲームの違いは以前書いた。
以上、基本的な用語概念で混乱されるので、僕の用いる意味で、用例、記述関係を上げてみました。
コスティキャンは、トートロジー(あの人間は人間だ)を知っているはずで、あれは遊びコラムだと思います。もし、伝達の工夫をするならば、トートロジーは避けます。誤読・曲解・齟齬の固まりになっている。
良いゲーム、悪いゲームがあるならあれは、悪いコラムです。単なる読み物的な作家精神の発揮されたジョークなので議論の土台にすえてはいけない。
世紀末からTRPGユーザーの時代は、ゲーム性が大事なのだと一部のユーザーがスローガンを掲げて「困ったちゃん」になった。馬場txtと回覧されたペーパーは、TRPGのコンベンションで、マルチ商法や宗教勧誘に実際に利用された。
はた迷惑な、権威に弱い卑しい彼らにとって、ゲーム性を語る理屈を信奉するのは、「卵であり鶏」のようなものであった。
それを目ざとく翻訳した人は一向に、ゲームをデザインしていないどころか、ゲームをプレイすることがデザインだとのたまい、デザインする気力を殺いで、なんと、オリジナルワールド設定さえも糾弾しようとアジテートし、ロールマスターなど個人で世界設定を創作するTRPGを拒絶させた。
コスティキャンが論じたゲーム性は、TRPGを「味噌汁」に例えた場合、「味噌」の話。「味噌」の良いものができれば「味噌」だけでも酒の肴になる。だし汁に、「味噌」を溶いたら沸騰させないという手順的ルールを説明したもの。あの論点であるゲーム性は、あくまで「味噌」の話であって、「味噌汁」のTRPGの核心ではない。
一方、TRPGたる「味噌汁」において、物語性やストーリー性というのは、「だし汁」である。
ある、だしのとり方の説明によれば、多くは実を水からゆでることが基本。かつお、昆布、イリコだし、ケミカル系のだしを加えるのは、「その店の味を守る」ために統一感を持たせるために用いる。
このだし汁は「味噌」を味わうために用いるのではない。「味噌汁」を味わうために用いるのだ。「だし汁」だけなら「吸い物」。
「味噌」「だし汁」の連関はこういうもの。
RP/Gにおいて、「G=ゲーム性=味噌」としたら、「味噌」の入っていないG=0ならば、RPGではない。RPG自体が成立しない。そしてG自体が多く濃すぎれば、飲めたシロモノにはならない。
「味噌」の構成物に熱心に取り組むのは蛇足、しかもたやすい。
しかも、コスティキャンの文章は誤訳されてきた。http://western.blog.shinobi.jp/Entry/142/
コスティキャンが、見当違いをしてユーザに客観的事実や観点として信じさせる方法的欺瞞によって強弁することで、TRPGに、そしてそれを楽しむ人に、あだなすこと、混乱させること、誤解させること、惑わすことなど、本来的に注意すべき重大な汚点を、TRPGの発展に、こびりつけたのかもしれない。
コスティキャンはもういらない。忘れよう。見当違いの理屈の修正にどれだけの人の労力を要したのか。
さらば、コスティキャン!
アディオス! コスティキャン!
先の例で、「めがね」を挙げましたが、TRPGは、その世界に没入すると、コミュニケーションが見えなくなる現象の格好の例になります。
近視のわれわれは、「めがね」に対して、遠ざかっている。「めがね」なしでは何も見えなくなるのに、われわれは、「めがね」を失った時点で、やっと、「めがね」への遠ざかりを奪おうとする。
普段、「めがね」は、あくまで配慮や気づかいの対象ではなく、失くしたときにこそ意識される。失くしていないとき、「めがね」は意識から遠ざかっている。
TRPGもあくまでコミュニケーションであり、他者は、配慮・気遣いの対象である「間主観」である。TRPGは、あくまで「めがね」であって、TRPGのセッションの話題(ゲーム世界の話題)に没入すると、コミュニケーションであることを忘れてしまう。「めがね」は意識から遠ざかっているようにコミュニケーションは意識から遠ざかっている。このとき、TRPGのセッションの話題(ゲーム世界の話題)に没入しているため、TRPGによるコミュニケーションが意識されないのである。
われわれは、TRPGが、「めがね」と同様に、コミュニケーションの単なる道具であること、TRPGを切り結ぶ関係を断ち切られた時に、それが、本当にコミュニケーションであったのかを問うことができる。
最近齧ったハイデガーやフッサールの現象学を適用すると、ある「めがね」には意味があり、その意味にはほかのものを想起させる作用があり、それを超えて飛び出す地平があると考える。
つまり「めがね」を知覚した時点で、意味の解釈は起こり時間的内容を持った物語がわれわれの中に含まれている内から現出する。
ちなみに、前期ヴィトゲンシュタインは、事物、事態、などと論理的に範疇をくくっていくが、それでももちろん、この「事物的めがね」には意味と想起と時間が含まれた考察である。
分りやすく言うと「めがね」と言った時点で、たった一語で、厳密には「物語」があるということ。
氷川TRPG研究室
「RPGと物語:物語とは何か」
http://www.trpg-labo.com/modules/forum/index.php?topic_id=67
「RPGと物語:物語に対する態度」
http://www.trpg-labo.com/modules/forum/index.php?topic_id=68
>今回は、「物語」に対してどのような態度で臨むか、についてだ。
>これには二つの態度がある。
>ひとつは、「物語こそTRPGだ」と考える態度。
>もうひとつは、「物語は結果」と考える態度だ。
この「物語こそTRPGだ」と展開させているTRPGのもろもろの処理は実践的プラクシスです。
そして「物語は結果」は、反省的な理論的テオリアです。
換言するなら「意味をしめすのが記号だ」「記号が意味を持つのだ」とソシュール記号論の陥穽か。
この態度の比較は別のことを論じる取り違えをしているのではないでしょうか。
テオリアを重んじるのか、プラクシスを重んじるのか、どちらでも構わないはずでしょう。どちらかに決めても極端なプレイスタイルになるだけで、かち合うわけではないでしょう。
例えるなら、調理と食事のどちらを重視し、どちらが上手くできたのかを問うような取り違えです。
食事をするときに、中華を食べにいこうと、おいしい「調理」を求めて外出し、席に着いてメニューを見て、注文し、普通はわれわれは「食事」を楽しんで帰ります。これを「外食する」と言います。
「TRPGで遊ぶ(外食する)」には、面白い物語になるように、時間調整や場の確保、メンツ集め、システム選択、シナリオ作り、キャラクター作り(ここまでが調理)、そして、セッション(食事)を行います。ここまでが実践的プラクシスの境目です。
ゲームが終わったときに物語性が充分に発揮できたのか、予想しなかったワクワクする様な方向に行ったのか、悲惨なダイスのトラブルに見舞われ続けお話が成り立たなかったのかなどが反省的な、理論的テオリアの領域です。
あの中華料理は高いのに不味いとか、雰囲気がよかったとか、外食の解釈を総合的に行い、格付けしたりする。「調理」「食事」は物語要素もあれば、手順的ルール要素がある。反省的な、理論的テオリアにおいて、どちらかをある階層において分析しても、全体の連関性を失い、分析手法でもともと想定いた結果しか得られない。
ですから、わざわざ込み入ったお話でもなく、きっちりと、「物語とは、反省会も含むようなTRPGというプラクシスもテオリアも含む展開の連鎖である」と思います。テオリアとプラクシスは同時にセッション中、行われています。「TRPG自体が物語」と言ってもいい。
そしてまた、TRPGのシステムそれぞれに特徴があって、共通項となる理論構築は、あまり役に立たないと思います。TRPGの具体的な要素の共通項を語ることに何か意味があって生産的だとは僕は思えません。
結局、TRPG自体が、物語であり、ゲームであって、ある要素を抽出してしまったら別物です。ですから、TRPG自体が「面白かったり、つまらない物語をTRPGのルールとマナーにのっとり」、話題に上ってくる「展開の連鎖」という全体からなる構成物として、部分を語るにはその連関に特に注意して語るべきではないでしょうか。