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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]さらば、コスティキャンよ。

 世紀末からTRPGユーザーの時代は、ゲーム性が大事なのだと一部のユーザーがスローガンを掲げて「困ったちゃん」になった。馬場txtと回覧されたペーパーは、TRPGのコンベンションで、マルチ商法や宗教勧誘に実際に利用された。

 はた迷惑な、権威に弱い卑しい彼らにとって、ゲーム性を語る理屈を信奉するのは、「卵であり鶏」のようなものであった。

 それを目ざとく翻訳した人は一向に、ゲームをデザインしていないどころか、ゲームをプレイすることがデザインだとのたまい、デザインする気力を殺いで、なんと、オリジナルワールド設定さえも糾弾しようとアジテートし、ロールマスターなど個人で世界設定を創作するTRPGを拒絶させた。

 コスティキャンが論じたゲーム性は、TRPGを「味噌汁」に例えた場合、「味噌」の話。「味噌」の良いものができれば「味噌」だけでも酒の肴になる。だし汁に、「味噌」を溶いたら沸騰させないという手順的ルールを説明したもの。あの論点であるゲーム性は、あくまで「味噌」の話であって、「味噌汁」のTRPGの核心ではない。

 一方、TRPGたる「味噌汁」において、物語性やストーリー性というのは、「だし汁」である。
 ある、だしのとり方の説明によれば、多くは実を水からゆでることが基本。かつお、昆布、イリコだし、ケミカル系のだしを加えるのは、「その店の味を守る」ために統一感を持たせるために用いる。
 このだし汁は「味噌」を味わうために用いるのではない。「味噌汁」を味わうために用いるのだ。「だし汁」だけなら「吸い物」。
 「味噌」「だし汁」の連関はこういうもの。
 RP/Gにおいて、「G=ゲーム性=味噌」としたら、「味噌」の入っていないG=0ならば、RPGではない。RPG自体が成立しない。そしてG自体が多く濃すぎれば、飲めたシロモノにはならない。

 「味噌」の構成物に熱心に取り組むのは蛇足、しかもたやすい。
 しかも、コスティキャンの文章は誤訳されてきた。http://western.blog.shinobi.jp/Entry/142/

 コスティキャンが、見当違いをしてユーザに客観的事実や観点として信じさせる方法的欺瞞によって強弁することで、TRPGに、そしてそれを楽しむ人に、あだなすこと、混乱させること、誤解させること、惑わすことなど、本来的に注意すべき重大な汚点を、TRPGの発展に、こびりつけたのかもしれない。

 コスティキャンはもういらない。忘れよう。見当違いの理屈の修正にどれだけの人の労力を要したのか。

 さらば、コスティキャン!
 アディオス! コスティキャン!


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コメント

1. 味噌汁=出汁/味噌

ゲーム性=味噌
物語性=出汁

ずっと貴ブログを拝見していて、ようやく自分にも理解できる表現に出会えました。

自分は、どうやら「わかりやすさ症候群」とかいう病気らしく、最近の貴ブログの内容がさっぱり理解できなかったのですが、貴ブログ自体への興味は尽きず、平易な表現を求める病人には、努力しても及ばぬを察しつつも、しばらく遠巻きに流し読みに徹しさせていただいておりました。
ここにきて自分のような浅学な人間にでも理解できる表現に出会え、出来うることなら、今後もこういった平易な表現を多用していただきたく希望し、久方ぶりに書き込みをさせていただきました。

ところで、疑問なのですが、この喩えの場合、いわゆる「コスティキャンのゲーム論」は、味噌汁について語った文書ではなく、味噌について、(そして、味噌汁の味噌についても触れる程度に)語った文書であり、ここで、味噌汁の側から味噌と出汁を語るに当たって、仮想敵として槍玉に挙げられるべき文書ではないのではないかと愚考します。
美味い味噌がそれ自体ツマミにはなっても、味噌ばかりが勝ちすぎた味噌汁が美味い味噌汁たり得ないことには同感ですが、味噌について語った人物をあげて、見当違いと断じるのは、ソレこそが見当違いではないのでしょうか?
今この時期になぜいまさらコスティキャンかというのも疑問ではあるのですが、最大の疑問点がそこなので、この場をお借りして質問申し上げます。

2. コスティキャンの罪は。

 コンメト有難うございます。

 ボードゲームやマルチと同列に論じる視点はTRPGについて語ることができるようにした用語整理の功績はあります。
 ただし、その用語(例えばリソースやゲームトークン)において本当にTRPGを語ることができるでしょうか。僕は疑問に思うし、あさっての方向にずれていく論考が多すぎるとも思うのです。
 語る用語を抽出(あの北側の蜂受粉した樹の「リンゴ」)し、いわば「骨格(「リンゴ」)」を抜き出した場合、「肉付き、顔かたち(あの北側の蜂受粉した樹)」は失われるのと同じように、TRPGシステムや集まったメンツの性質を無視することになってしまいました。

 「肉付き、顔かたち」というTRPGの多様性を語りようがないようにしたことがコスティキャンの深い罪なのです。つまり、ゲームの違いを語れるようにして、TRPGにおいての違いを語れないようにしたのです。

 「骨格」を抜き出すことによって、創造的発展を平均化し文字通り「骨抜き」にしたのではないでしょうか。

 まず、TRPGが多様なゲーム性で成り立っている、それを土台に多様なストーリー性が含まれる連関関係にあることが、本来のTRPGを論じる話でしょう。
 個別のTRPGとそれがプレイされた場関係をまず、認識しなければ、一連のTRPG論考は、未だにコスティキャンの呪縛によって進展してゆかないのだと考えています。

 僕はこの呪縛を解いてTRPGはTRPGとして語るようにできるようにすることを、現象学から検討して、学問・分析の領域や限界の枠組みを試み、コスティキャン氏や馬場氏への痛烈な断罪をしなければならないと思ったのです。

 なぜなら、新しい創造発展を切り拓こうという方向性を、恫喝し罵倒し非難し恥辱にさらしてけなし、意欲を殺ぐのが彼らの論法だからです。これが僕のTRPG史観からの「見当づけ(解釈)」で、取り組まなければならないことだと思っています。

3. ダイスの選び方

 こちらでは初めまして。
 貴親記事と、コスティキャン氏の論考の双方を拝読致しました。
 コステイキャン氏の論法で行くと、世界には「良いゲーム」と「悪いゲーム」があるそうです。
 「あるゲームが、あるグループの人々の価値観に沿えそうかどうかを考察する」のならごく単純に理解出来ます。しかし、「良い」か「悪いか」だけで物事を判断するやり方は、余り魅力的とは思えません。同氏の論考は「良いゲームさえ見分けられれば自動的に全員が納得するし、するべきだ」と言う主観が先に立っているように感じられます。
 仮にコスティキャン氏が、良いゲームの完全無欠な見分け方を発見したとして、「あなたの愛好するゲームは悪いゲームです」と言われても、精々「ああそうですか」と言う程度の返事しか戻って来ないでしょう。
 コスティキャン氏の論考は、根本的に、ゲーム内での目標とゲームそのものの目標の区別がついていません。
 ゲームを面白くしたり盛り上げたりするのは「静」や「動」かの割合上の判定だとか、「どんな意志がこもっているのか」や「どんな目標を設定するのか」とか言った考察ではありません。プレイヤーなりゲームマスターなりが、互いの立場を尊重して公平なルールなり立場なりを実行するにはどうすれば良いのか、そうした観点から切り込むべきでした。  論述にも手際の悪さを多く感じました。例えば「ゲームを分析する手法において」と言う箇所で、「ゲームは、パズルではない」と冒頭で断っておいて、その文中で、「ゲームにもなにがしかはパズルの要素がある」と述べ、結論として「「パズル」は静的だが「ゲーム」はインタラクティブである」としめくくっているのは論旨が分裂している上に破綻しています。強いて整理するなら、「ゲームの中にどのぐらいパズル的要素が介入し得るかは考察に値する」とでも言いたいのでしょうが、仮に、テーブルトークRPGの中で、ゲームマスターが何かの謎解きでクロスワードパズルを出したら、静が何割で動が何割かなどと言う議論は全く無意味になるものと思われます。
 また、「ストーリーは直線的である、だからゲームとは違う」と言う断定にも違和感を覚えました。正確には、「確定され結論の出たストーリーは直線としてイメージされ得る、それはゲームと言う言葉から得られるイメージとは異なる場合がある」でしょう。
 ゲームの魅力の一面に「(様々な意思決定に基づく)可能性の追求」があるのは一応その通りですが、別にそれとストーリー云々とは何ら矛盾するものではありません。私個人としては、どうせゲームをやるならより質の高いストーリーの軌跡を残せるようなセッションに参加したいです。ゲームマスターが、「これこれかようなストーリーを楽しんで欲しいのでこう言うシナリオを作った」と言うのなら、それが自分の好みに合うのなら喜んで参加もするし協力もしますよ。その中で、ゲームマスターのデザインを壊さないように話を盛り上げれば済む事です。ゲームマスターにもおおいに「ストーリー」を語って欲しいです。
 仮に、コスティキャン氏の意見を最大限好意的に解釈するなら、「ゲームマスターの恣意的かつ不公平な操作でプレイヤーの意思決定の幅が狭められてはならない」となりますが、それはゲーム論云々ではなく社交論として考察するべきでしょう。つまるところ、彼は「興味を持つ事」と「目標を創り上げる事」を混同しているのでは無いでしょうか?
 コスティキャン氏の論考の中で、多少とも賛同し得るものがあるとしたら、末尾にある「プレイヤー同士の交流を深められるかどうか」ぐらいですが、非常に浅薄な内容でした。プレイヤー同士の意思決定が衝突した時、誰がどう調停するのかぐらいは考察出来て当然でしょう、それを言うのなら。単純に、良いゲームとやらがあれば意思決定の衝突などあり得ない等と考えているとしたら、机上の空論以外の何物でもありません。人は自分の感情にさえしばしば責任を持とうとしないからです。
 左様な次第で、私はBETA様の御高見に賛成です。

4. えーっと…

コスティキャンは「ゲーム」について語ったのであって「TRPGのみ」について語ったのではないですよね?
「ゲーム」の、しかもある側面について語ることが「TRPGの多様性を語りようがないように」することになるとは思えません。
以前から書き込ませていただいていますが、BETA様のアプローチの方向性自体には自分は共感する立場にあります。
それだけにBETA様が、かつてあった一つの論考としてのテーマや方向性を、「恫喝し罵倒し非難し恥辱にさらしてけなし」、徹底的に否定するスタンスを、惜しむべきことだと思って、苦言を呈しているのであります。
現状ではBETA様ご自身が、TRPGの多様性を否定されているかに見えるのです。
どうか、多様な意見を認めたうえで、なおご自身のご意見をお聞かせ願えるよう、祈念いたします。

5. 少々長い一言

>イージーエイト様

※Beta様のブログで、無関係なものがこのような苦言を呈するのは心外なのですが、どうしても理解できないので、少々長い一言を呈させていただきます。

>良いゲームと悪いゲーム

例えば、マークドカードで行なうポーカーは、良いゲームだとは思えません。参加者全員がカードの読み方を知っているなら、パズルにならなるでしょう。
ゲームを盛り上げるために「プレイヤーなりゲームマスターなりが、互いの立場を尊重して公平なルールなり立場なりを実行する」のは重要だと思いますが、「「どんな意志がこもっているのか」や「どんな目標を設定するのか」とか言った」内容が不要とはならないと思います。

>「ゲームは、パズルではない」

例え話をすると、「味噌はアミノ酸ではない」。味噌にアミノ酸が含まれていてもこの前提には矛盾しません。「アミノ酸は有機化合物であるが、味噌は発酵食品である」でくくっても、何の破綻も生じません。

>強いて整理するなら、「ゲームの中にどのぐらいパズル的要素が介入し得るかは考察に値する」とでも言いたいのでしょうが

全く見当違いです。強いて整理するならば「ゲームにあってパズルにない、ゲームをゲーム足らしめる要因はインタラクティブ性である」です。仰るとおり、パズル要素のパーセンテージを抽出するなど、全く無意味です。
味噌の全成分を分析して、全てを化学合成すれば、味噌味調味料は出来ましょうが、ソレは味噌ではありません。どんなに優れた棋譜でも、棋譜はゲームではありません。
「仮に、テーブルトークRPGの中で、ゲームマスターが何かの謎解きでクロスワードパズルを出したら」PC(あるいはPL)たちが、パズルを解けたか解けなかったかによってストーリーが分岐するでしょう。立派にインタラクティブで、ゲームになります。もちろん、その後GMが「はい、ご苦労さん、ところで…」と一切ゲームに影響させなかった場合に限りれば、その限りではないでしょうが。

>「ストーリーは直線的である、だからゲームとは違う」

これも、「ストーリーがあってはゲームではない」などとコスティキャンは一言も言っていません。ここで言うストーリーとは「確定され結論の出たストーリー」ではなく、「あらかじめ確定され、最初から結論の出ているストーリー」のことです。GMが語り、PCがリアクションを返すことが出来(インタラクティブ)なければ、ゲームではないといっているだけです。
リプレイはゲームではないし、プレイレポートはゲームではないし、私が以前プレイしたゲームのストーリーは、(今となっては)ゲームではないという話です。

「わかりやすさ症候群」とやらの自分でも、この程度の内容までは理解できます。失礼ながら、イージーエイト様は今回のBeta様への、「左様な次第で、私はBETA様の御高見に賛成です」の一言のために、まず結論ありきでコスティキャン氏の論考を斜め読みされたのではないでしょうか? だとすればソレはコスティキャン氏だけではなくBeta様に対しても決して礼を持った行為とは思えないので、再度熟読されることをお勧めします。

6. わかりやすく。

 味噌料理の多様性を、ゲームの多様性から語ったのが、コスティキャン氏です。

 TRPGは味噌汁なのですが、味噌料理とはくくれません。

 だし汁のとり方として、一番出しなどのとり方は、醤油ベースの「つゆ」になるもので、味噌汁のだしのとり方とは異なりますよね。

 物語作法も味噌汁(TRPG)にしか通用しないとり方があります。豚汁では白菜ベースにするとか、コンソメ顆粒を隠し味に入れるとか。

 言ってしまえば、TRPGはストーリーではない、ゲームでもない、TRPGはTRPG(味噌汁は味噌汁)としてのストーリー性とゲーム性が語られ開拓されるべきだというのが僕の論調です。

 さらに、あるメンバーたち(カレーライスや和風ステーキ)のお供(コミュニケーション)に、TRPG(味噌汁)を加えるべきか、加えるとすれば、どのような具の味噌汁がよいのか、そういう位置づけで、TRPG自体の置き方添え方を、論じるべきであろうと。
 味噌料理のくくり方では、味噌汁の位置づけは論じたことにならないでしょう。

 ゲーム性を、ほかのゲームやパズル、ストーリー性をほかの小説や映画から、援用するのは、TRPG(味噌汁)に合うように適用しなくてはなりません。ここで、齟齬が起きるのは当然です。

 しかし、味噌汁とは何かを、味噌料理の一つとしては、語れない。
 失敗ではない味噌汁を作るには、味噌料理のノウハウではないのに、コスティキャン氏は錯覚させている。

 実はそのためには、添えられる、あるメンバーたち(カレーライスや和風ステーキ)のお供(コミュニケーション)を考えなければならないのです。

 まず、麻婆豆腐に、冷奴、さらに豆腐の味噌汁はありえないでしょう。
 わかりやすく、例えると、味噌汁の多様性には限界があって、それこそ、スープ、吸い物、味噌料理の出番です。
 ですから、その意味でSIMONさんの味噌汁(TRPG)の多様性を否定しているとのご指摘は当たっています。

 餃子にライス、ラーメンにライスも、中国人には合わないという。実際のところ、「どのような人たち」の「コミュニケーション」に、組み立てるのか。この多様性は否定していません。

7. コスティキャン氏の背景。

イージーエイト様、SIMON様。

 コスティキャン氏の論の背景には、ゲーム理論という数学(主に経済学)があります。

 その骨格を申せば、全て「何かの取り合い」に於いて「囚人のジレンマ」となるように組めば、ゲーム理論が適用できる。

 ゆえに、「取り合い」のために、インタラクティヴ性を、葛藤を、持ち込もうと、苦しいこじ付けに至っている。

 この理論は、未開拓ですので、ゲームとは何かではなく、コスティキャン氏は、ゲーム理論に一致させるには、どう論調を進めていくか、苦心惨憺です。

 TRPGは、GMがPLと同じ立場にはいないので、「取り合い」「囚人のジレンマ」がないのです。

 論調が崩壊しているので、誤読・解釈は、読者の取り方次第です。ゲーム理論を齧ってみると、あの論の裏側の事情がはっきり分ります。TRPGをゲーム理論の領域に囲もうと試みたのでしょう。無理やりです。

 ゲーム理論を専門的に研究(哲学方面)した僕としては、「コスティキャンは、まず忘れよ」と、申し上げたい。
 学的に適用領域にない。最近の動向として「進化ゲーム理論」が登場しました。翻訳書を待っている状態です。

8. たとえば、

生理学者が生化学の分野から味噌を語っても味噌汁を語ったことにはならない。
これは納得です。
ですが、
「生化学者が生化学の分野から味噌汁の味噌を語ること」を「恫喝し罵倒し非難し恥辱にさらしてけなし、意欲を殺ぐのが」理解できません。

> 味噌料理の多様性を、ゲームの多様性から語ったのが、コスティキャン氏です。
>
> TRPGは味噌汁なのですが、味噌料理とはくくれません。

味噌汁は味噌料理です。
そして、コスティキャンは「味噌汁を含む味噌料理」について語ったのです。
たとえソレが生化学者がアミノ酸を語るアプローチからのみの、片手落ちのアプローチであったとしても。
ここで醸造業者や伝統料理人、あるいはご家庭のお母さんが語るべきことは、
「味噌は複雑なアミノ酸を含む化学物質ではない」
ということではなく、
「それだけではなく、コウジカビの発酵により作られる伝統料理である」あるいは、「味噌汁にするなら旨みを多く含むだし汁で溶くのが良い」「この時煮立たせてはならない」「具材には…」etc.
いくらでもあるとおもいます。

仰るとおり、味噌汁は味噌汁であって味噌でも出汁でもありません。
味噌汁の味噌について語っても、味噌汁の出汁について語っても、味噌汁を語りつくすことは出来ないでしょう。
全く同感です。
ですが、味噌汁を味噌から語ることは(そして出汁を否定するわけではない)は全く無意味だとは思いませんし、いわんや「味噌汁の味噌」を語った人間を仮想敵に、味噌汁の話をする論調が、間違っているのではないでしょうかと問いたいのです。
そして、味噌から(あるいは出汁から)味噌汁を語ることを、味噌汁は味噌でも出汁でもない、と封殺することこそが、「恫喝し罵倒し非難し恥辱にさらしてけなし、意欲を殺ぐ」ことだといいたいのです。

最も優れた復讐の方法は、敵と同じことをしないことです。

>コスティキャン氏の論の背景
「努力すれば、必ず成功するとは限りませんが、貴方にとって何らかのプラスにはなります。頑張って上を目指しましょう」
という文章を、小学校の学級委員が口にしようが職場の工場長が口にしようが労働団体の指導者が口にしようが極右の民族主義者が語ろうが、文章自体の意味は変わりません。聞く側にとってはどうでもいいことです。
勿論聞く側が小学校のクラスメイトなり工場のブルーカラーなり団結した労働階層なり国粋主義者なりで、読み手側のフィルターに掛けられることはありましょうが、論考から論考の文章に書かれた以上の意味を読み取る義理はありません。ソレを求めるものは論考ではなく文学です。
そしてTRPGが文学であったとしてもTRPG論考(コスティキャンのソレはTRPG論考ですらないただのG論考ですが)は文学ではありません。 

9. コスティキャン氏から馬場氏

 歴史的資料として、2chのログがあります。SIMON様とは連絡方法がないので橋渡しできませんが、Googleあたりで発見できないでしょうか。
 当時の混乱振りが分ります。
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