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伏見先生のツイートから。
ロール・プレイは、他の人々の立場やパーソナリティという点から「憶測し直すこと(Second-guessing)」が特徴で、他のゲーミング・シミュレーションとの大きな違いだとされます。
TRPGはこの要素を引き継いでいます。
一方、「感情移入(empathy)」という心理学用語は、「同一視」のカテゴリーに入れる精神分析学の学者もいます。
いわゆる、TRPGの「なりきり」プレイは、プレイヤーが、(どこまでがゲームメカニクスの面白さかな、とか、どこからは思いやりや盛り上げに依存しての面白さなのかな、相手が好きな人だからという楽しさかな、という疑問や穿ちを持ってしまう程のものは)ゲーム上のリアリティーを生み出そうとする試みだと思います。
「なりきり」プレイが失敗するとゲーム上のリアリティーを得られないことになります。この失敗は、行き過ぎた「感情移入(同一視)」そのもので、Second-guessingを意識しない、ないし、そこから逸脱してしまう点にあります。
衆目を集めた中でのロール・プレイが「金魚鉢」状態(ゲーミング・シミュレーション用語)になることがあります。なりきりが「感情移入(同一視)」として色濃く現れると、日常世界にも、TRPGというゲーミングの領域にも、当てはまらない情念の世界を生み出して、異質な「金魚鉢」を形成してしまいます。
ですから、リアリティーを求めていくには、舞台演劇論とは違う、Second-guessingを前提にした演技が必要だと思います。
また、TRPGのゲーム上のリアリティーをどこまで求めるかという合意プロセスが、ルール化されて来なかったことは、結局「なりきり」プレイを善悪二元論で捉えていく感性的な次元のアポリアに陥らせました。
これは、ゲーミング・シミュレーションの見地から、プレイヤーがTRPGのリアリティーを求めようとする試みであったと解釈すべきでしょう。
プレイの一手段としては、あくまで提案として面白さを求める姿勢であって、「遊びに対する真面目さ(遊びにとっての善)」が動機だと受け取れば、失敗しなければ何ら問題なく、かえってTRPGには歓迎すべきもの、挑戦するにも価値があるものだと思います。
もしかすると、TRPGにおける役割体験、ロールプレイ、なりきりプレイのうちにある一種の遊び感覚は、ゲームの構造において、リアリティーを介入させるか、どのくらい求めるか、という合意プロセスを暗黙に探っていくのが楽しいのかもしれません。
僕の考え方では、これを顕在化したのが、レッテル・システムで、軽いT&Tへの搭載で成功しています。
現在のデザインはこんな感じです。
ダウンロード(pdf)
参考.
感情移入の理論
期待は、現在ここにないことについて決定を必要とする。ゲームには、将棋のように、感情移入の能力を必要とするものがある。自分の差し手の結果に期待を持ち、その期待によってゲームを進める。
感情移入の概念が意味があるというのは、将来を予測し、自分自身の行動、続いて起こる他人の行動、それに続く自分自身の行動の関係を予測できるからです。行動する前に、その行動に影響を及ぼす他人について、いろいろな期待を持つもの、これが感情移入の意味です。
二つの理論があって、共に、
期待の基礎資料は、人間がとる物理的行動、すなわちメッセージであるとしている。
また、内的な心理状態を予測するには、観察できる物理的行動をもとにするということ、さらに、人間は物理的な行動を表示するためにシンボルを使い、かつシンボルを操作して予測するということは一致している。
ちがいは、
3つの仮定において、肯定するか、否定するかだと、バーロは説明する。まず、感情移入の推測理論(inference theory og empathy)があります。
1 人間は自分自身の内的状態の証拠を直接把握するが、他人の内的状態は間接にしか把握できない。
2 ある内的状態を表現する際に、他人も自分と同じ行動をする。
3 自分自身で経験したことのないような他人の内的状態を理解することはできない。すなわち、自分で経験したことのない情動や思考などを理解することはできない。
以上が、感情移入の推測理論の中心問題です。TRPGの感情移入(同一視)が異質な「金魚鉢」になってしまうのは、3 自分自身で経験したことのないような他人の内的状態を理解することはできない。すなわち、自分で経験したことのない情動や思考などを理解することはできない。に当てはまると思います。
ミードによる、社会科学に基づく「役割取得理論(role-taking theory of empathy)」では、
1 自己についての概念は、コミュニケーションに先行するものではなく、コミュニケーションをとおして形成されるものである。
2 役割取得の最初の段階では、幼児は何の解釈もできないまま、他人の役割を実際に演ずる。
3 役割取得の第二段階では、幼児は理解しながら他人の役割を演じることである。
4 役割取得の第三段階では、子どもが実際にではなく、シンボルによって他人の役割を演じはじめる。
5 やがて、一般化された他者の概念をもつ。一般化された他者とは、取得された抽象的役割であり、ある個人が集団の他のすべての人の個々の役割に共通する一般的なものについて学習したことがらの総合である。
これを持つことによって、自己概念というある状況において自分のとるべき行動についてもっている期待の集合を成立させる。自己概念とはコミュニケーション、他人の役割の取得、コミュニケーションの対象としての自分自身に対する行動、一般化された他者の形成などをとおしてつくられるのである。
バーロは、推測理論と役割取得理論の両方を組み合わせていると論じる。この過程はたえず繰り返され、適応や順応を可能にするとします。
TRPGの感情移入(同一視)が異質な「金魚鉢」になってしまうのは、ロールプレイ上の自己概念の放棄と未完成の一般化された他者の形成が原因でしょう。
「コミュニケーション・プロセス 社会行動の基礎理論」D.K.バーロ著 布留武郎・阿久津喜弘
この記事について、かなり意欲的でとんがったゲームデザインをしている金色さんから、@ツィートをいただきました。
確かに、背景世界の世界観を単なるフレーバーにしかならない、成り得ないという考え方も出来ます。構造主義神話学的分析にかけるのもいいと思います。
繰り返しますが、ロール・プレイの「TRPGにおける役割体験、ロールプレイ、なりきりプレイのうちにある一種の遊び感覚は、ゲームの構造において、リアリティーを介入させるか、どのくらい求めるか、という合意プロセスを暗黙に探っていくのが楽しいのかもしれません。」という結論に僕はとどまります。ゲームメカニクスに何でも頼るのではなく、コミュニケーション・プロセスを大切にしたいのです。
本来的にこれをなくしてしまうことを、楽しめるかどうかの天秤にかけると、残しておいたほうがいいという考え方です。
まず、TRPGを含めてゲーム一般は、哲学の領域に属しています。
学問的常識として、「遊び」論としては、ホイジンガ、カイヨワの先行研究があります。
ゲーム理論や確率論という数学もまた、哲学の領域です。
ゲーミングシミュレーションの領域では、TRPGはきちんと扱われていまして、以下の本では、社会科学の先端(フロンティア)として学問的に言及されています。
これは、好きとか、好きではないとか、言った者勝ちとか、文章が読みにくいとか、そんなことは問題にしません。このブログが論考でこれが論考かどうか、ラノベより読みづらいとか、そういう問題ではありません。
僕にとってはメモです。他の人も知っておいたらいいのではないかと思って公開しています。これは、僕の善意で公開しているので、読みたくないとか、理解出来ないというなら、ブラウザを閉じてください。そういう人を助ける義理も、サービス、奉仕する義務も、僕は負っていません。
学問的に考察の対象になっているのは、れっきとした事実です。
匿名ネットで吹聴する、匿名で攻撃する、しろうとの理屈の趣味嗜好ばかりではありません。
しろうとが、経歴をうそぶいたり、取引相手をうそぶいたりする、あやふやなものばかりではありません。
これは、僕にかぎらず、この学究分野全体にも向けられる偏見で、非常に残念に思います。
ここで紹介する本に書かれていることですが、
自然科学としては。
・統制された実験ができない
・客観的なデータが集められない
・実験の再現がむずかしい
教育現場としては。
・何を学んでいるのかわからない
・授業の統制ができない
・成績の評価ができない
・まるで遊んでいるようだ
意思決定場面では。
・啓蒙的意思決定観
これらの問題が、書かれています。
TRPGも論じるには、同じ障害があります。このうち、自然科学的研究観は、ゲーミングを無限定にモデルとみなす問題の大きな背景で、
・ゆるぎないひとつの現実があるという自然科学的信念
・この信念にもとづきモデルによって現実を近似的に表現しようという方法論
・単純なモデルより複雑なモデルのほうが優れているという信念
という錯誤を招いているとします。
TRPGの問題と同じ事です。それを、学者先生も模索しているのです。
ですから、オンライン上の付き合いしかないから、と、魔女狩り裁判の審問にかけるような懐疑主義の非礼無礼には閉口します。
学問的にも難しい話なのに、好きだの嫌いだの、わかりにくいだの、余計なお世話です。
このなかで、TRPGはすでに1998年に語られています。ゲーミング・シミュレーションは、学問的な研究分野として成立しています。
それから、この社会科学の学問世界では、馬場先生といえば、どうでもいいニフティの権力争いをした馬場秀和さんではなく、馬場則夫先生なのでしょう。
さて、この本の中で、新井潔先生(GameDesign 西部劇TRPG開発日誌 [おすすめ]ゲームの作り方がわからない人へ。の翻訳者)が述べている
「ゲーミングシミュレーションとは何か」において、
「プラグマティズムの伝統」
「科学の伝統(オペレーションズ・リサーチの伝統)」
「エンターテインメントの伝統(学習)」
の流れが、あります。(エルグッド1993)
コミュニケーション論では、ハーバーマス(1981)が扱っており、ハーバーマスについては、GameDesign 西部劇TRPG開発日誌 [コミュニケーション]社会学のアプローチ1で、僕も、注目していました。
まず、この概論を読んで、僕がTRPGにおいて、主題として論じていることが明確化された気がしました。
新井先生は以下の図でゲーミング・シミュレーションをあらわしています。
ゲーミング・シミュレーションは、生活世界(現象学的意味とまではしない)で、行われていることだという見解には、僕も強く賛成します。
この図の白抜き矢印(この図では赤塗り太矢印)は、ゲーミングの設計から実施に至る流れを表しており、実線の矢印はモデルによる世界の解釈を意味している。一方、点線の矢印は、プレイヤーが内部モデルによって世界解釈をしていること、そして、ゲーミングの実施によりその内部モデルが組み替えられていること、さらにシステムモデルも討論による批判的検討にさらされることを表している。このようにゲーミング・シミュレーションの実線はひとつのサイクルを形作っている。(「5.ゲーミングシミュレーションの基礎理論に向けて」新井潔)
僕は、TRPGのマスターとプレイヤーの関係において、下図の赤色で示した実線と点線方向への生起を問題にしています。
「?」をつけた部分で、ハーバーマスが問題にしているところです。
プレイヤー(アクター)に、ゲームマスターというシナリオをつくるプレーヤー(アクター)がいる場合、問題になります。
TRPGが、シングルフォーカスな単一のマンネリに固定(シナリオの固定)されてしまった場合には、貧相な形になってしまい発生しにくくなってしまう部分があります。
ここが僕が重視する「主体」と「場」の仮想的ではない、現実的なメッセージ性やテーマ性です。
役割演技、ロールプレイについても、大きな示唆を与える、「主体」の仮想性と現実性、「場」の仮想性と現実性について、井門正美先生が述べています。
井門先生は、役割演技を役割体験としました。役割分担ではありません。おそらく、この役割体験は、TRPGの特殊な役割演技性から、新たに明確化するためにこしらえたキーワードだと思います。
僕は、完全に主体も場も仮想になることはないという、アプローチです。ゲームを行うことに、完全に万人に安全な環境はないと思います。そこで、TRPGには、相互理解や相互信頼が必要だという論法です。
さんざん、僕が作ったゲーム(カードゲームやTRPGやマルチ)を荒らす、僕を軽蔑する人に出会いました。遊びに不真面目な人です。
このイロニーができるのは、仮想性は完全には成立しない証拠です。
仮想性が完全には成立しないことを前提にしなければなりません。そもそもからして、そこにプレイヤー(アクター)の現実性があります。
どんなゲーミング・シミュレーションにおいても、この応答部分は非常に重要です。とくに、テストプレイのデバッグで痛感します。
さらに踏み込んで、井門先生の論から、新井先生は、ルールの「厳密さとゆるやかさ」「仮想的か現実的か」という軸でゲーミングを分類しています。
重要なことは、どんなゲーミングもプレイヤー(アクター)がリアリティーを決定する、という点ですね。
これを認めるならば、プレイヤー(アクター)の中に、ゲームマスター(アクターであり設計者)というシナリオに基づく司会者としての役割、ルールを改変してもいいという伝統的ポジションがTRPGには、T&Tの時代からあります。
ゆえに、「?」の部分にゲームマスターが関わることは明白ですから、止まってしまったというハーバーマスのアプローチ、コミュニケーション論からの分析が必要でしょう。
そして、失敗を恐れないで行える安全性が、TRPGにおいては、役割演技の前提に置かれることも重要です。
「主体」「場」の完全ではない仮想性(現実性の部分)が、メッセージ性やテーマ性の応答の余地になると思います。その余地(西村清和先生が言うには遊隙)が、TRPGの特徴、重要な楽しみのエッセンスと言えると思います。
また、逆にその余地があるために、イロニーという遊びへのボイコットが許され、試行が失敗する要素になっていると思います。
現実的なメッセージ性やテーマ性を持ち出せるから、イロニーを許してしまうのです。
これは、おそらく同じ遊隙で成立していますね。
イロニーは、一種のサボタージュで、冷ややかであるにしろ、あたたかであるにしろ、喜びや幸福の場合があります。プレイヤー(アクター)ばかりではなく、設計者へのエゴイスティックな優越感を示すものでもあります。
この現実性は、社会的だったり、ごく身近な対人的なものです。(オンラインのゲームのチーターないしフリーライダーがもっている意識は、このようなゲームのコミュニケーション性の遊隙への寄生だと思います。)
根底は、メッセージ性やテーマ性を送り出す次元でつながっています。
つまり、メッセージ性やテーマ性を拒否するためのイロニー以外のボイコットを認める仕組みが、TRPG(ないしゲーミング全体)には、必要かもしれません。たとえば、性能上限を無視して、無限にアイテムが使えるインフレステージを作るとか。
JASAG Web site - ISAGA(日本シミュレーション&ゲーミング学会)
が、どのようなことをテーマにしているのか、想像がつきました。
PS.
それから、シングルフォーカスなワンパターンのTRPGや、ストーリを構造主義分解して再構築するとかいったもの、もちろん僕が製作中のものも含めて、それぞれのTRPGに道徳的に善悪があるわけではありません。
(道徳的に問題になるのは、例えば、カードゲームでどれだけ彼氏彼女を作ったかを競い、赤ちゃんができると堕胎費用10万円が請求される、払えなければゲームオーバーといったもので、バブルの頃に実際社会問題になり、処分を受けたもののたぐいです。)
何々だと、これを捨てることになるとか、そういう指摘です。ゲームのモデルをいろいろな形に取ることで、優劣は「楽しい」か、どうかが問題なだけです。
僕は、遊んでもらえないゲームはたくさん捨ててきました。
壮絶な継子いじめによる飢えをしのいで、妹を養うため、小学生から社会に出て、自分で働いて(違法)買ったPB100で、マイコンBASICマガジンに毎月のように投稿してきました。
前述のとおり、TRPG、マルチプレイ、カードゲーム、(働いて買ったPB500や紙の)GB、パズル、ADVも捨ててきましたが、製作過程でいろいろな方とお会いする機会に恵まれました。
念のため言及しておきます。
新井潔 [ほか] 著
ゲーミングシミュレーションが研究・教育・意思決定のさまざまな領域においてどのような役割を果たしているか、設計から実施、またゲーミング実施後の検討まで具体例を交えて詳説。社会的問題解決のためのコミュニケーション技法。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
年末は、「ダンジンシナリオ作成講座」を頒布でいただきました。
シナリオ作成大全(仮)とは!?
に刺激されまして、まとめです。
ルールブックのチラ見せになってしまいますが、ソーンダイク先生がまとめたものです。
物語文法(ソーンダイク、P.W.1977) |
||
規則番号 |
||
1 |
物語 |
設定+テーマ+プロット+解決 |
2 |
設定 |
登場人物+場所+時間 |
3 |
テーマ |
(事件)*+目標 |
4 |
プロット |
エピソード* |
5 |
エピソード |
下位目標+試行*+結果 |
6 |
試行 |
事件 |
エピソード |
||
7 |
結果 |
事件 |
状態 |
||
8 |
解決 |
事件 |
状態 |
||
9 |
下位目標 |
理想状態 |
目標 |
|
メモ書き程度にまとめたもの(出典あやふや)ですが、TRPGに戦闘が必要だとか、ゲーム論的意志決定が必要だとか、やっぱりそうではない。
ストーリー(物語文法)は、もうちょっと広い範疇を示していまして、上図のようになります。
ですから、「常に」バトルのすごろくで解決とか、「常に」ゲーム論的意志決定とか、そういうものには縛られないでいいのです。
物語は、設定+テーマ+プロット+解決ですから、ナンセンスにバトルが続くのは非常にストレスになることからもわかるように、テーマに基づいた解決方法が、バトルとか、ゲーム論的意志決定などであればいいのです。
上図のように、テーマは、(事件)*+目標ですから、物語、設定の次の上位構造です。目標というのは、物語全体上の目標です。物語全体上の目標は、何かのメッセージと言い換えてもいいかもしれません。
無意味なバトルを強いられるのがテーマならば、それもテーマとして扱われます。
いわゆる問題解決というものは、この図の中では「下位目標」にあたります。
テーマをどうするのか、と考えるなら、TRPGはTPOが重要ですから、一緒に卓を囲む仲間のことを考えましょう。もちろん、楽しい時間の共有という名目です。
囲む仲間の過労を癒すとか、夢に突き進む仲間を応援するとか、亡くなって囲めなくなった仲間を偲ぶとか。
プレイするのか。
そして。
プレイするのか。
このへんが重要です。
これをわきまえていると、ココロをぐっと掴むことができます。
テーマのお手軽な決め方は、PLすなわち、PCの解釈・受け取り方の違いです。これも以前書きました。
[TRPG]我流のシナリオ作成方法
この方法を取ると、個別の解釈の違いに対して、メッセージを送りやすいのです。
展開をストーリーとして、ストーリーの組み合わせの「役」を作るという僕の考え方では、以前にも説明しましたが、ゲーム性と親和性があります。
[SYS]戦闘システム論からTRPGの物語論。
(つれづれ)コベントリー・ジレンマ(Coventry Dilemma)
具体的なセションの進め方には、
[TRPG]人間の判断過程の特異的な側面
[つれづれ]興味をもつことの原理
参考
昼間のTRPG語り [2011/12/21] : TRPGにおける戦闘の要・不要
手前味噌
[つれづれ]「ファンタジーの文法」
[TRPG]コスティキャンの翻訳は誤訳。
[TRPG]物語
[TRPG]ゲームと物語は補完し合う。(メモ)
[TRPG]物語という言葉の整理。
[TRPG]物語論:フィクションとノンフィクション確認
そのほか、頒布でいただきました作品です。
前の記事で書きましたが、僕が所属していたサークルはルールの読み込みを大切にしています。
TORGは複数回行動というルールがあって、攻性防御というルールもあります。ルールブックでは「小数点切り上げ」をするように指示されています。
そこで出たのは、100回防御して100回攻撃するというヘンテコ解釈です。概念上行動回数は一万回になろうが、小数点切り上げなので、行動回数は減りようがない。
このルールをある特定のPL、そのPCにだけ適用するという、ローカルルールです。 噴飯物でしたが、改善されました。
もし、上の例のような解釈がNPCに適用されたら?
もう一つ、ブレカナで、三名の因縁の決定で、ABC三人のうち、AB同士の因縁が決まりCには因縁が結ばれない。Cは自分のアルカナを引いたら戻すことができないのです。
このケースはデザイン上のミスではないか? と、 要するにハブられたキャラということだ! との解釈が対立しました。
つまり、ABCは、BCA、CABの二通りしか成立しないのです。
この対処はルール通り、「自分のアルカナを残らせないように決める」というルールブック通りに運営されることになりました。
もし、他の人ではなく自分にもそういうケースが適用されたら?
成長系TRPGの問題
成長系TRPGはどうも苦手です。
あるとき、新規参入のPLの扱いに難儀しました。
「TRPGの上達はTRPGをやった時間と経験だろ!PCが強すぎて何が悪いの!」と、熱弁されたことがあります。
「でもそれはPCのデータではなくて、紙に記録しなくてもTRPGユーザにしっかりと含まれているよ」
との、やり取りをした覚えがあります。
ルールの読み込みを大切にしているサークルにいたのですが、誤植や解釈の漏れ、特にTORGの山北ルール?とよばれるものにこだわっていました。
ハイロードたちよりスペックの高いPCが、作りたてのPCと併存していて、ラリー・ニーヴンの「魔法の国が消えてゆく」ほどの差があって、作りたてのPCをどうするか。作りたてに合わせるか、ハイレベルな方に合わせるか、悩みました。チートしているゲーマーとしないゲーマーの対立に近いです。
成長系TRPGの一つ、TORGのように、世界上の成長に対するリミットが、ないのはマズイです。PCが年をとっていかなかったり、ライフイベントがなかったり、ちょっとおかしい。
ある程度まで成長したら「王子様とお姫様は幸せに暮らしました」というふうにエンディングは、成長ものには用意するべきです。
例えば、TORGでセル・アーネイ女王とイイトコロまでいったとか、密約があるとか、PLが説明しても、そもそも、そのキャラはもちこむなよ~と、ツッコミたくなります。
そういう経緯を説明するような記録、そのくらい残してくれれば生かせますが、そういうコメントが出る時点で親しい仲だからゆえの・・・というものがあるのでしょうが。閉口します。
成長系TRPG、とくにワールド付属のものには、GMがスイッチすることを考えたデザインが必要だと思います。ワールドのキーパーソンとの関係をどうするか。
PLの思い入れを壊したくはないし。
GM間でPC情報共有なんて、現実的ではないでしょうね。
PLに経験値が入る方式でも、単なる殉職対策に過ぎない扱いで、キャラクターは固定していたほうが有利だったりします。PLに経験値が入ったら、消費するような形式が、多分おかしいと思います。PCが財物のようになってしまいます。
できれば、PC作成には、時間をかけないで、インスタントに作成したい。
遊び込み派とローカルルール寛容派
個人的見解では、TRPGユーザーは、一個のルールのつめこみ派と、多彩なもの大好き派で分かれます。
たぶん、初期のD&Dからのスタートか、マイナーなT&Tやクトゥルフからかとかで、流儀の違いが出てきたのと一緒だとおもいます。
旧ソードワールドひとつでも、この二派は遊び方に違いがあって、ちょっとした齟齬を生んでいました。互いに、反りが合わないので、コンベンションでは、GMの評価は二分する極端なアンケート結果が多かったのです。
具体的には、ルール通りに厳密に、短剣が与えられるダメージを限定するとかしないとか、眠っているエネミーに命中判定をするとかしないとか、ですね。
T&Tで、セル=アーネイ世界なんかを舞台にすると、最近はPCのT&Tのエミュで、ソロアドベンチャーのノリで臨む人がいたりする。
思いますに、雑誌「ウォーロック」の洗礼は、大きかったと思います。
T&Tの「トロールの言葉」に大きく影響されたんじゃないかな。
1 トロールの言葉 (略)私たちが(想像の中だけにせよ)ちょっとの間、簡単な世界に遊びたいと思ったとき、ファンタジー・ロールプレイはそれをかなえてくれます。このゲームでは、私たちは、ほかのエンターテインメントでは得られない、自分自身が参加する物語に出会います。そのため、『トンネルズ&トロールズ』ではみんなが積極的に想像力をはたらかせる必要があります。決して自分が作ったものでもない世界で、ルールに奴隷のようになってはいけません。この本にはたくさんの「ルール」がありますが、次のことだけは覚えておいてください。こうしたルールは、いちど使ったものを、何なら何までさがして作りなおす手間を省くためにあるのです。ゲームをもっと自分の好みに合うように変えたい部分があれば、べつにためらうことはありません。「正しい」、あるいは「まちがった」遊び方というのはありません。ただ、こうしたらいいなという提案があるだけです。 |
D&Dのコンセプトは「遊び込む」タイプで、ルールの穴をできるだけ埋めていこうという印象があります。
一方、T&Tのコンセプトは、ルールを穴だらけにしておいて、ユーザーが臨機応変に埋めていく印象があります。
D&Dはコマーシャルモデルになっていて、正規のルールが「建前」ですよね。
T&Tはローカルルールがあることが前提です。
シミュレーション・ゲームからして、初期設定をいじって遊ぶのは常套というか、そうしないと遊べなかったです。必ずウォーゲームでは戦勝国は勝つようににシナリオがあったものです。
ローカルルール万歳!という人と、深刻に公式ルールを問い合わせてくる人の違いは、このへんの事情に疎いんだと思います。卓を囲むたびに、メンツしだいで僕のように気が重くなる人がいるんだろうなあ。
あるTRPGメーカーのTRPGには、キャラクターテンプレートに年齢が決まっているのですが、25歳のところを6歳にしていいですか? というような問い合わせが来るそうです。いちいち問い合わせなくても、黙ってそういう改造をすればいいのに、誰が責めるというのでしょうか。
もしや、コミュニケーションの障害でも持っているのでしょうか。でもおそらく、このへんの事情を存じない方が多いのか、カードゲームの厳密なルールあたりに縛られているのか、と、思います。
ローカルルールはコマーシャルモデルとしては最低だけれど、商品にリスペクトする点では、大いに歓迎されるもの。変な誤植や記載ミスによらないことは前提として。
初期の新和の同人誌狩りは、その流れにちょっと影響したかもしれないですね。
参考
法律学者のTRPG
あくまでも、僕のやり方を書きました。他にも色々なやり方があって、それを否定するのではなくて参考になるかもしれないと思って書きます。
まず、このやり方に命名します。「解釈式シナリオ作成法」です。
この方法でまず理解する必要があるスキーマは『すべての現象は「関係」「変化」「解釈」でしかない」というものです。物事は全て、どんな人でもこの枠組(スキーマ)で物事を捉えるのだと仮定します。
セッションで一体誰が参加するのか、今までどんな「関係」があって、自分がGMをするということになった「変化」を自分なりに「解釈」します。
そして、TRPGのシナリオに取り組みます。まず、NPC、状況、事物、事実などを通常状態で想定します。関係図を書きます。
ここに「変化」をさせます。よくもまあそんなネタになるものだなあというのは、関係が明らかにしてあると、結構簡単にやれます。ただし、メンツを念頭において、その人を暗に傷つけたりしないかはよく考えます。
次に「解釈」なのですが、NPCなり、ゲーム上の世論なりの「解釈」をもりこみます。PLが持ちうる「解釈」も余地があるように仕込みます。
これをやっておくだけで、何々についてのテーマが自動的に盛り込まれます。なぜかというと、テーマは「解釈」の相違点なわけですから。
ここから先にアドリブで補強しながら、「解釈」の結果であるセッションへの対応を書き出します。
PCが「解釈」するのではなく、あくまでもPCを用いたPLの「解釈」を大事にします。
あとは普通にルールブックに載っているような書式に沿ったり。運用できればいいだけです。
これはほとんどの人が、たぶん無意識にやっていて、意識的にやると、単なるハック&スラッシュでも、ちょこっと効くスパイスになります。
水無月さんのツイッターまとめに触発されました。この場を借りて感謝を。
http://togetter.com/li/163413
追記。
コンベンションマスターでも、ゲーム系の雑誌だけでの呼びかけと、「ムー」とかでの呼びかけで集まるメンツは全く違いました。
2011.08.27「メモ」
この本においてのゲームである部分、ゲームではない部分の分類において、語られている「ゲーム」の齟齬が僕の中では明らかになりました。
僕はTRPGセッション全体がゲームもしくは遊びであるとして認識していました。
そうではなく、ゲームへの駆動部分で走っている「間」のようなものが、「ゲーム」を「葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティ」によって成立させる仕掛けだとしていることです。
「間」=「遊び(遊隙)」として、「ゲーム」成立の仕掛けだとすれば、GMの面からは「葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティ」を与えるパートを用意すればいいだけかもしれません。
しかし、もしセッション全体を通じて俯瞰したとき、PLのPCと、TRPGの僥倖を享受する主体であるPLとGMは、どこに位置するのでしょうか。PLは面白そうな選択肢に飛びついていいのでしょうか。逆にGMはPCを無視してゲームを仕掛けていいのでしょうか。
やはりここで、PCの再演性が全体に「遊動」していて、PLはPCではないことを前提に、「遊戯であるということが偽りないコミュニケーション」が成立していることは、前提に据え置かれなくてはならないのだと思います。
「ゲーム」を与え合う主体的な関わりでもって、GMも、PLも互いに作用し合い、どこが「ゲーム」でどこが「間」であるかという境界は、「葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティ」という概念では、区画化できないのです。
さらに、意志決定の主体であることになっているPCが成立するためには、「間(遊隙)」、駆動部分の「間」において、PCが表出するところなのですから、PLはそこで、再演性を発揮しなくてはならない。僕は再演性と呼びますが、「心情描写」「感情移入」「演技」「キャラづくり」「キャラ立ち」と、言われるものです。
再演性自体が、PLの創発的な拡張され得る「葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティ」によって成り立ちます。
これは、「非対称なコミュニケーション」「ダブル・コンティンジェンシー」や「ディスコミュニケーション」、「回避的儀式」「呈示的儀式」「演技」などを駆使して、「無数の社会的な糸の交差点」に立たせることでしょう。
この作業はTRPGの重大な点で、この本で取り扱う狭義の「ゲーム」だけでは語り尽くせないでしょう。ですから、どうしても、「ストーリー」とか「ドラマツルギー」といった要素に言及しなくてはならないのです。
この本にあるとおり、一般的にTRPGは単純な、「制圧」を主軸としたマンネリズムに固執しています。しかし、そこから派生したものは、再演性です。ごく単純なストーリー構造を踏襲したために、魅力的で豊かな鉱脈にぶちあたってしまったのです。
「ストーリー」とその「シークエンス」のゲームにおいて、僕がアプローチする地平を改めて痛感させられた気がしました。
と、同時に背反するのですが、ゲーム性を追求してデザインするべきという悪戦苦闘をしなくてもいい。ゲーム性はユーザーが作り出せるようにするだけでいいのかもしれないと、重い肩の荷を下ろせた気もして、勇気づけられました。
氷川霧霞さんの本です。直接いただきました。
この場を借りてお礼を述べたいと思います。ありがとうございます。
「TRPGシナリオ作成の道具箱」を読んで、考えらせられたことです。
葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティの3つがゲームだとあります。
これはGMにのみ帰するものであるのか、PLはGMにゲームを与えられるだけでいいのかという疑問があります。
なぜかといえば、PLはPCのキャラクターの心情を描くからです。これを僕は再演性と呼びます。
例えば、実例を挙げるととブレイド・オブ・アルカナで、難民のため保護する街をスティグマの力で作った「善きマローダー」がいました。さんざん調べても、「善きマローダー」でした。
ゲームの通り、PCはマローダーを倒したのですが、PCは生き返らせる「マーテル」のアルカナの力が残っていて、スティグマが天に帰ったあと、生き返らせることができるので、その再演性から、こころみようとしました。
しかし、このPCは旅の仲間の反対からやめたのです。そう、長いこと一緒に戦っていた仲間への友情をとったのです。
(余談になりますが、ブレカナは「善かろうと悪かろうとマローダーを倒す」ゲームだ。だからそのロールプレイは認められないと、牽強付会までありました。)
この例から分かるように、葛藤はPCのロールプレイから生じたもので、GMから与えられたゲームではありません。PLのPCの再演性から生じたものです。しかもたまたま「マーテル」のアルカナの消費がなかったという偶然です。
思うに、葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティの3つをゲームとすることで、GM由来ではないものが、再演性からも生じます。
馬場氏は、キャラクタープレイヤーへの否定や嫌悪を表明していましたが、それは見かけ上の不愉快さを「ちょっと気持ち悪いからほどほどのノリでやりましょう」と提案すればいいことではないでしょうか。
肝心の再演性はPCの心情を表現することにあります。それを潰してしまっては。
GMは準備段階で、葛藤を用意するべきですが、PLもまたPCの再演性から葛藤を見つけ出すことで、GMにも楽しんでもらうような葛藤をGMは肯定してはいかがでしょう。
もう一点は、PCへの葛藤・結果に対する責任・アカウンタビリティは、僕の言い方では、ストーリーの展開(ドラマツルギー)をPLに委ねるだけのことです。
PLが葛藤するのではありません。PLは展開が面白くなる選択肢を選びます。この本にあるインスピレーション(ひらめき)を肯定して、選択肢にとらわれない発想を尊ぶべきという節には、核心を突き詰めると隠れているものが見えます。
楽しむのはあくまでPLであって、PCの再演性において不自然でなければいいのです。
忙しい日常を送るメンバーの気分を発散させたいとき、プレイ時間が限られるとき、早く終わりたいとき、遠方の友人を久しぶりに囲むとき、闘病で苦しむメンバーを励ますとき、亡くなったメンバーを偲ぶとき、セッションの輪には様々な背景があります。
その背景の中で、GMはどのような個性的な切り口で、シナリオを準備し、PLも、どのようにセッションを楽しい時間にするかという課題があります。この部分のノウハウが、やはり欲しいところです。
僕はこれをTRPGで遊ぶことの重要な点だと信じています。
ですから、TRPGは遊びのコミュニケーションの一つであって、囲む仲間をゲームキカイにする道具ではなく、親睦を深めたり、反目を解消したりする有意義なツールになるのだと思います。
山北先生の「ゲームマスターガイド」が内容の充実に役立つと思います。
http://trpg-labo.com/trpgtoolbox
一部、Web配布されています。承認制です。