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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]TRPGの問題を学術的領域で明確にする。

 まず、TRPGを含めてゲーム一般は、哲学の領域に属しています。
 学問的常識として、「遊び」論としては、ホイジンガ、カイヨワの先行研究があります。
 ゲーム理論や確率論という数学もまた、哲学の領域です。

 ゲーミングシミュレーションの領域では、TRPGはきちんと扱われていまして、以下の本では、社会科学の先端(フロンティア)として学問的に言及されています。
 

 これは、好きとか、好きではないとか、言った者勝ちとか、文章が読みにくいとか、そんなことは問題にしません。このブログが論考でこれが論考かどうか、ラノベより読みづらいとか、そういう問題ではありません。

 僕にとってはメモです。他の人も知っておいたらいいのではないかと思って公開しています。これは、僕の善意で公開しているので、読みたくないとか、理解出来ないというなら、ブラウザを閉じてください。そういう人を助ける義理も、サービス、奉仕する義務も、僕は負っていません。

 学問的に考察の対象になっているのは、れっきとした事実です。
 匿名ネットで吹聴する、匿名で攻撃する、しろうとの理屈の趣味嗜好ばかりではありません。

 しろうとが、経歴をうそぶいたり、取引相手をうそぶいたりする、あやふやなものばかりではありません。

 これは、僕にかぎらず、この学究分野全体にも向けられる偏見で、非常に残念に思います。

 ここで紹介する本に書かれていることですが、

 自然科学としては。

 ・統制された実験ができない
 ・客観的なデータが集められない
 ・実験の再現がむずかしい

 教育現場としては。

 ・何を学んでいるのかわからない
 ・授業の統制ができない
 ・成績の評価ができない
 ・まるで遊んでいるようだ

 意思決定場面では。

 ・啓蒙的意思決定観

 これらの問題が、書かれています。
 TRPGも論じるには、同じ障害があります。このうち、自然科学的研究観は、ゲーミングを無限定にモデルとみなす問題の大きな背景で、

 ・ゆるぎないひとつの現実があるという自然科学的信念
 ・この信念にもとづきモデルによって現実を近似的に表現しようという方法論
 ・単純なモデルより複雑なモデルのほうが優れているという信念

 という錯誤を招いているとします。
 TRPGの問題と同じ事です。それを、学者先生も模索しているのです。
 ですから、オンライン上の付き合いしかないから、と、魔女狩り裁判の審問にかけるような懐疑主義の非礼無礼には閉口します。
 学問的にも難しい話なのに、好きだの嫌いだの、わかりにくいだの、余計なお世話です。
 

 


 このなかで、TRPGはすでに1998年に語られています。ゲーミング・シミュレーションは、学問的な研究分野として成立しています。
 それから、この社会科学の学問世界では、馬場先生といえば、どうでもいいニフティの権力争いをした馬場秀和さんではなく、馬場則夫先生なのでしょう。

 さて、この本の中で、新井潔先生(GameDesign 西部劇TRPG開発日誌 [おすすめ]ゲームの作り方がわからない人へ。の翻訳者)が述べている
 「ゲーミングシミュレーションとは何か」において、


 「プラグマティズムの伝統」
 「科学の伝統(オペレーションズ・リサーチの伝統)」
 「エンターテインメントの伝統(学習)」

 の流れが、あります。(エルグッド1993)


 コミュニケーション論では、ハーバーマス(1981)が扱っており、ハーバーマスについては、GameDesign 西部劇TRPG開発日誌 [コミュニケーション]社会学のアプローチ1で、僕も、注目していました。

 まず、この概論を読んで、僕がTRPGにおいて、主題として論じていることが明確化された気がしました。
 新井先生は以下の図でゲーミング・シミュレーションをあらわしています。
 ゲーミング・シミュレーションは、生活世界(現象学的意味とまではしない)で、行われていることだという見解には、僕も強く賛成します。

 




ゲーミングシミュレーション表現・解釈(新井潔)

 この図の白抜き矢印(この図では赤塗り太矢印)は、ゲーミングの設計から実施に至る流れを表しており、実線の矢印はモデルによる世界の解釈を意味している。一方、点線の矢印は、プレイヤーが内部モデルによって世界解釈をしていること、そして、ゲーミングの実施によりその内部モデルが組み替えられていること、さらにシステムモデルも討論による批判的検討にさらされることを表している。このようにゲーミング・シミュレーションの実線はひとつのサイクルを形作っている。(「5.ゲーミングシミュレーションの基礎理論に向けて」新井潔)

 僕は、TRPGのマスターとプレイヤーの関係において、下図の赤色で示した実線と点線方向への生起を問題にしています。
 「?」をつけた部分で、ハーバーマスが問題にしているところです。
 プレイヤー(アクター)に、ゲームマスターというシナリオをつくるプレーヤー(アクター)がいる場合、問題になります。

 TRPGが、シングルフォーカスな単一のマンネリに固定(シナリオの固定)されてしまった場合には、貧相な形になってしまい発生しにくくなってしまう部分があります。
 ここが僕が重視する「主体」と「場」の仮想的ではない、現実的なメッセージ性やテーマ性です。



ゲーミングシミュレーション表現・解釈(TRPG)

 

 役割演技、ロールプレイについても、大きな示唆を与える、「主体」の仮想性と現実性、「場」の仮想性と現実性について、井門正美先生が述べています。
 井門先生は、役割演技を役割体験としました。役割分担ではありません。おそらく、この役割体験は、TRPGの特殊な役割演技性から、新たに明確化するためにこしらえたキーワードだと思います。

 僕は、完全に主体も場も仮想になることはないという、アプローチです。ゲームを行うことに、完全に万人に安全な環境はないと思います。そこで、TRPGには、相互理解や相互信頼が必要だという論法です。

 さんざん、僕が作ったゲーム(カードゲームやTRPGやマルチ)を荒らす、僕を軽蔑する人に出会いました。遊びに不真面目な人です。
 このイロニーができるのは、仮想性は完全には成立しない証拠です。
 仮想性が完全には成立しないことを前提にしなければなりません。そもそもからして、そこにプレイヤー(アクター)の現実性があります。
 どんなゲーミング・シミュレーションにおいても、この応答部分は非常に重要です。とくに、テストプレイのデバッグで痛感します。

 さらに踏み込んで、井門先生の論から、新井先生は、ルールの「厳密さとゆるやかさ」「仮想的か現実的か」という軸でゲーミングを分類しています。

 重要なことは、どんなゲーミングもプレイヤー(アクター)がリアリティーを決定する、という点ですね。

 これを認めるならば、プレイヤー(アクター)の中に、ゲームマスター(アクターであり設計者)というシナリオに基づく司会者としての役割、ルールを改変してもいいという伝統的ポジションがTRPGには、T&Tの時代からあります。
 ゆえに、「?」の部分にゲームマスターが関わることは明白ですから、止まってしまったというハーバーマスのアプローチ、コミュニケーション論からの分析が必要でしょう。



 そして、失敗を恐れないで行える安全性が、TRPGにおいては、役割演技の前提に置かれることも重要です。
 「主体」「場」の完全ではない仮想性(現実性の部分)が、メッセージ性やテーマ性の応答の余地になると思います。その余地(西村清和先生が言うには遊隙)が、TRPGの特徴、重要な楽しみのエッセンスと言えると思います。
 また、逆にその余地があるために、イロニーという遊びへのボイコットが許され、試行が失敗する要素になっていると思います。

 現実的なメッセージ性やテーマ性を持ち出せるから、イロニーを許してしまうのです。
 これは、おそらく同じ遊隙で成立していますね。


 イロニーは、一種のサボタージュで、冷ややかであるにしろ、あたたかであるにしろ、喜びや幸福の場合があります。プレイヤー(アクター)ばかりではなく、設計者へのエゴイスティックな優越感を示すものでもあります。
 この現実性は、社会的だったり、ごく身近な対人的なものです。(オンラインのゲームのチーターないしフリーライダーがもっている意識は、このようなゲームのコミュニケーション性の遊隙への寄生だと思います。)

 根底は、メッセージ性やテーマ性を送り出す次元でつながっています。
 つまり、メッセージ性やテーマ性を拒否するためのイロニー以外のボイコットを認める仕組みが、TRPG(ないしゲーミング全体)には、必要かもしれません。たとえば、性能上限を無視して、無限にアイテムが使えるインフレステージを作るとか。


 JASAG Web site - ISAGA(日本シミュレーション&ゲーミング学会)

 が、どのようなことをテーマにしているのか、想像がつきました。

PS.
 それから、シングルフォーカスなワンパターンのTRPGや、ストーリを構造主義分解して再構築するとかいったもの、もちろん僕が製作中のものも含めて、それぞれのTRPGに道徳的に善悪があるわけではありません。

 (道徳的に問題になるのは、例えば、カードゲームでどれだけ彼氏彼女を作ったかを競い、赤ちゃんができると堕胎費用10万円が請求される、払えなければゲームオーバーといったもので、バブルの頃に実際社会問題になり、処分を受けたもののたぐいです。)

 何々だと、これを捨てることになるとか、そういう指摘です。ゲームのモデルをいろいろな形に取ることで、優劣は「楽しい」か、どうかが問題なだけです。

 僕は、遊んでもらえないゲームはたくさん捨ててきました。

 壮絶な継子いじめによる飢えをしのいで、妹を養うため、小学生から社会に出て、自分で働いて(違法)買ったPB100で、マイコンBASICマガジンに毎月のように投稿してきました。
 前述のとおり、TRPG、マルチプレイ、カードゲーム、(働いて買ったPB500や紙の)GB、パズル、ADVも捨ててきましたが、製作過程でいろいろな方とお会いする機会に恵まれました。

 念のため言及しておきます。



ゲーミングシミュレーション

新井潔 [ほか] 著

ゲーミングシミュレーションが研究・教育・意思決定のさまざまな領域においてどのような役割を果たしているか、設計から実施、またゲーミング実施後の検討まで具体例を交えて詳説。社会的問題解決のためのコミュニケーション技法。

「BOOKデータベース」より

[目次]

  • 第1章 ゲーミングシミュレーションとは何か
  • 第2章 社会的問題解決手法としてのゲーミング
  • 第3章 ゲーミングシミュレーションのデザイン
  • 第4章 メディアとしてのゲーミングシミュレーション
  • 第5章 ゲーミングシミュレーションにおけるファシリテーション

「BOOKデータベース」より


 


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