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以下、引用です。
> この作品(引用者註:「来るべき世界」)が「鉄腕アトム」と違う点は、
>大河ドラマのパターンだということです。「鉄腕アトム」は、
>シチュエイションドラマ(注=主人公そのものが劇的境遇にあるドラマ)で、
>ぼくとしてはシチュエイションドラマというのはへたなんです。
>やっぱり紙芝居とか映画をみて育ったせいか、
>入り組んだ枝葉の多いストーリーを自分ながらに組み立てていく方が好きです。
>シチュエイションを先につくると、シチュエイションそのものにおぼれてしまう。
>ということは、本質的に人物の性格とか、あるいは人間性を描写するよりは、
>その人物は狂言まわしであって、その上にもっと大河的な宿命とか、
>あるいは時代相みたいなものを、ずーっとくり広げていくという描き方の方が好きなんです。
基本的に大河物の対比に用いる概念のようです。
「どらえもん」や「水戸黄門」は、シチュエイションドラマ。
「ブラックジャック」などは、大河物なのでしょう。
PLとGM | 自由 | - | どちらか |
管理 | どちらか | - | |
デザイナーとPLとGM | 制限 | 必須 | 必須 |
ハンドアウトやプロセスの規定の採用は、GMとPLが採用した時点で「管理」となる。手塚治虫が、言うところの「シチュエーション・ドラマ」系列のルールシステムは「管理」下である。
それ以外手がかりがない。
「自由」「管理」「制限(制約)」の内容が分類されていけば、意義がある論考だと感じる。今のところ、最近はやりの「シチュエーション・ドラマ」とは無縁に楽しみたいという意図しか了解できません。
一番気にかかるのが、こちらの構想の「レッテル・システム」「コンダクト・システム」「五線譜判定」などは、「管理」下に従える例になるのだろうか、ということ。
たとえば、TORGのドラマデッキは、「制限」から飛び出した「管理」の例なのでしょうか。このあたりの判定基準がとてもあいまいに感じます。
やはり、もうひとつ、「制限」にかかる「自由」による突破を「管理」するのか、そもそも、「管理」「自由」を並立させる条件が提示されながら、回避する意図は何なのかが疑問です。
私事ながら、以前、高校時代の友人(GM、ZOIDのRPG発表者)に、久しぶりに会った。
彼がGMで、シナリオは、王様が結婚を勧めたためにお姫様がフィアンセを選ぶコンテストをするというもの。NPCの少年がお姫様にベタぼれ、お姫さまはあるPCに好意を持っており、そのPCはお姫様に興味がなく、なんとしてもフィアンセはNPCの少年にしたいというお話。
貴族の勤めである狩猟の腕前をコンテストに組み込むことが快諾されたが、お姫様が動物を殺すのは可哀想とのことで、他のPCに動物役をしてもらって、頭の上のウサギ耳をゲットしたら、獲物を獲たということになる。
久々に再会した心遣いに感謝し、楽しいひとときを過ごし、友人を見直した。
あれは、キャンペーンの中での一挿話としてのもてなしだったのだろう。
PLのPCの「自由度」や、GMの「管理」とかとは別の議論展開の範疇として、TRPGが互いに配慮され気遣いされあった、コミュニケーションの一例として、挙げたいと思う。
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当の議論展開が、結論として何を目指しているのかとは別の次元にある気がする。
セッションの参加者が「有意義」な楽しみを得ることが重要課題であって、「コミュニケーションの道具的存在であるTRPGの形態」の模索には自ずと限界がある。
「自由」を謳っても、「管理」を謳っても、TRPGの了解内容での範疇での論議になってしまう。
参加者が楽しみ、癒されるにはどうするか。TRPGが「有意義」に成立するにはどうするのか。
これが最終的には導き出されなければならない範疇であって、システムにばかり目を遣り、ゲームの形態に目を向けても仕方がない。
TRPGは「適所」におかれ、役立つことによって「有意義」になる。
TRPG自体が「どのような場で、どのような参加者の下で、適所性を得られるか」と問題設定しなおしたいと思う。
まず、PLは唯一の手段、PCという「駒」によって、GMの司会する「舞台(ワールド)」に介入する。
この「舞台」には、展開の予定のプロセス「シナリオ」がある。この「シナリオ」はテーマを含んだ塑形であって、「物語」を想定している。
PCという駒は、関われる範疇が定まっている。端っから、自由ではなく「舞台」での「自在性」をもつ。
司会は「自在性」の拡大へ、縮小してしまったときの介入余地の開放の「司会操作」を行い、「シナリオ」「物語」の想定を修正していく。これは、PLを念頭に置かなければならない。
PLは、「シナリオ」「物語」の想定の司会進行により明確化を斟酌して、「PCの解釈」そして、それに伴う行動を起こす。この部分が重要な演技要素になる。
この操作を行うことによって、TRPGは「適所」におかれ、道具として役立つことによって「有意義」になる。
TRPGが悪意に弱いとよく言われる。
TRPGがコミュニケーションをベースに成り立つものであるならば、「コミュニケーションは悪意に弱い」と言えるのか。
そもそも、悪意はコミュニケーションの一種であるため、具体的には、「悪乗り」「誹謗中傷」「なじり合い」などをやりあう罵倒のTRPGとしても、つまらない場と時間として成立する。つまり、この意味ではTRPGは悪意に強い。
ただし、非常に残酷な例を挙げるなら、先天的に身体障害を抱えているPLに、同じような障害を抱えるPCをあてがったりすることが出来るのか、問いたい。
好プレイ・珍プレイによる良い方向への誘導こそ、TRPGの協力の体制が目指す究極的な目標であって、
拙システムのレッテル・システムhttp://western.blog.shinobi.jp/Entry/20/と
コンダクト・システムhttp://western.blog.shinobi.jp/Entry/21/が、
ガイギャックス流に言えば、ルールの存在理由を行間から読み取って欲しい部分でした。
TRPGが内包するルールシステムはゲームというよりも、TRPGコミュニケーションを拵え上げる「ツール」の一面が大きい。
いわば、ハイデガーが現象学的に言う、金槌のような「道具的存在」。
金槌に「物をたたく」という、「指示」が存在するが、ビール瓶でも釘は打てる。金槌はビール瓶では代用できない強い力で叩くことができるよう、叩きやすく作られた道具であって、用途を想定されて、作り出されたもの。
しかし、金槌は金槌の本来の用途ではないこと(火打ち金の代用など)に用いることが出来る。とすると、金槌は必要なときに、無数の「指示」を内包していて、これは連関性を函数で示すことが出来ない。
また、例えば、時計細工職人に大工道具の金槌はとても代用できない。ある環境の下で、適所に配置された場合が、「有意義」なのは、理解していただけると思う。
つまり、TRPGを総体として見た場合、TRPGの協力の体制という環境で適所におかれなければ、「有意義」に遊ばれることはないと言える。
無論、TRPGが下敷きにするコミュニケーションのうち、悪意は、全員が楽しむという目的に合致しないなら、はじいてのけてよい。この場違いなコミュニケーションは、「有意義」なコミュニケーションではない。
おそらく、結婚式のときの忌み言葉並みに、お祝いだけ頂いて叩きだされても、文句は言えない。
弾丸の分布は精度によって変動する。これは正規分布と互換があるので、乱数に応じて基準距離での誤差を、誤差積分すればよい。
(距離の扱いは、基準距離に比例する。)
図は何もバイアスがかかっていない場合。6面体と10面体で、ズレ角をだす。時計の分数と同じなので、すぐにお分かりになると思う。
この方式は、以下のようなDVDの印刷したキャプチャ画像(ターゲットシート)に透明のOHPシートに印刷することによって命中、命中部位、命中数を求めるものとしていた。
これに対し、効果スクリーンを下敷きにすることを考案、狙点を共通化せずに、別個のターゲットシートとサイトスクリーンを置き、同じロールの出目で「効果」を確定することとした。もちろん異なる精度(能力やスキル)で一気に処理する。
つまり、一度のロールで、「効果」も狙って判定してしまう。
イニシアティブ、命中精度、攻撃回数、隙などを、一括してしまう。
この運用は、スカラー場とベクトル場の合成を、幾何学的な意味で行える。
「箱庭型シナリオ」の数量化にも応用でき、単純に大小で表された「効果値」ではできない次元を提供できる。
スカラー性、ベクトル性の要素をフラグとして立てれば、CRPGくらいしか出来ないGMのマスタリングの補助と出来るのではないか。
自由と管理は混ざらない+魔獣戦線の件(鏡さん)
GMの管理で論じているのは、AかつC。
自由なプレイングで論じているのは、BかつC。
ABとABCについては論考の対象にはなっておらず、ACからA(ABとABC以外)の論考を、BCからB(ABとABC以外)の論考を行っていると考えるべきなのか。
論考の解釈者はABとABCの理論展開を望んでいるのだと思うが、その折り合いはないという主張ならば、合意はないと思う。
今後、論考で触れる、
>このカテゴリーは、あと二つの記事で当初からの執筆予定を終了します。ひとつは「そこそこ自由なゲームプレイ」と題し、「自由なゲームプレイ」における「自己管理」について述べます。もうひとつは「自由と管理の混在」として、「自由」と「管理」とが明確に分かれていないゲームプレイではどうすべきか、について考えます。
とされていますが、管理と自由の下のTRPGは混ざらないと断定しているのですから、この図の枠外に当たる結論なのでしょうかねえ。
荒業として、図の内容をあらかた変えてしまう方法に出るとして、何が入るのか気になっています。
自由度という概念論を、自在度と言い換えてみる。
まず自由自在という言葉から、自在という連想が来ると思います。
自在には、他在がありまして、鏡さんの「管理する」という言葉から、他在が想定されていることは想像に難くない。
哲学的に言えば、さらに実存とか、頽落とかいう連想語を伴ってしまうが、そういう構築の原始的な段階の自在と言い換えれば話は通じるのではないか。