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お店のお客様のご要望で、TRPG(テーブル・トーク・ロールプレイング・ゲーム)をやってみたいそうなので、有志二人と共同経営者による、T&T(トンネルズ・アンド・トロールズ)を閉店後、深夜プライベート開催いたしました。
Kさんは、ゲーム会社のK所属のアート系の方で、はじめは見学したいと言う申し出でしたが、半ば強引に初経験。
記念にプレイ記録を撮影、録画しましたが、未公開ということにして保存したいと思います。
クトゥルフとワールド・オブ・ダークネスに興味深々で、ひとまず、次回は、アニメ系展開をされているナイト・ウィザードを、プレイして、そのあと、ほぼ、僕も二回目となる、ワールド・オブ・ダークネスをやろうとのお話になりました。
かなり、贅沢なゲームで、コンピューターゲームより、お手軽ではなく、市場規模が小さいだろうとご指摘いただきました。
色々な収穫があって皆さん満足で、やはり、楽しいひとときを生み出すことができました。
※この記事では「デザイン」を「ゲームをプレイする」という意味合いで用います。
TRPGが唯一、ゲームを「デザイン」することができるとして、TRPGの独自性としている論考が見られますが、それは誤りです。
その理由を説明します。
僕は、へっぽこのチェス・プレイヤーでもありまして、チェス関係の本も読み漁っています。そのなかに、こんな本があります。
チェスの技術は「メモリー」ではない。
自分で「デザイン」する、チェスの考え方教えます。
と、表紙には、あります。
ゆえに、「メモリー」と「デザイン」を用いて、ゲームに遊ぶことは、はっきりと、他のゲーム(チェスほか)にも存在する考え方なのです。
ナイトを何手で、あるマスに移動させられるか、これは完全に「メモリー」です。
これを用いてチェスのプレイ中にまず再現はできません。相手の利きマスに入ると取られてしまうからです。そこで、変則的な有効な動きを考慮します。ここが、「デザイン」です。
では、TRPG「に」遊ぶことにおいて、「メモリー」とは、端的に何かといえば、「遊びの現象学」にある通り、
ごっこ遊びは型にはまった動作系列のワン・セット、図式化された行動パターンを、いわばこどもの共有財として固定している。キャラクターに動機付けられて典型化された一定のパターンを組み立てて遊ぶ。キャラクターのタイプを示してさえいれば、この遊びのルールとしては十分であって、それ以上の模倣や造形や表現は必要がない。 |
の、部分であり、これら「メモリー」はGMの登場させるステレオ・タイプなNPCに如実にあらわれます。もちろん、PLのPCのロールプレイにも掛け合いのためには必須です。
TRPGが「メモリー」を必要とする部分は、これら「動作系列のワン・セット、図式化された行動パターン」の部分で、TRPGシステムの取り扱う舞台世界のジャンル「に」遊ぶ振舞い方に相当します。
ですから、TRPGを楽しむためには、小説・映画・漫画・アニメ・コンピューターゲームなどに多く触れておくことが役に立つと思います。
実際、そのような「引き出し」つまり、「メモリー」が多い人とTRPGを楽しむと「楽しめた」のは、ここに拠りかかるところが大きいのです。
その理由は単純で、「メモリー」を全く欠いての「デザイン(ここでいうゲームをプレイする)」は不可能だからだと思います。
このとき、「メモリー」という「動作系列のワン・セット、図式化された行動パターン」という規定性の遊隙が生じるために、TRPGという解釈学論的な遊びが充分に反映される余地(遊隙)が、不可欠です。
ゲーム理論構成の導入
ゲーム理論ブックガイド-和書
TRPGにおいて、ゲーム理論の信奉者が、見失いやすいことは一つに、競合している他者との利益分配がゲーム理論的な意味で合理的であることを「美しい」=「Beautiful」=「Art」として、連想していることです。
もともと、古代ギリシャ語のアルス(派生語アート)とテクノー(派生語テクニクス)は、ほぼ同じ意味合いで用いられ、「アート」「オブジェ」は「人工物」「ブツ」という意味合いです。
日本語の「芸術=Art」は、もろにジャパニーズ・イングリッシュです。
僕は、ビルマ人と歌舞伎町で働いていたことがあり、自分で稼いだお金で学生をしていると話したときに、「プリティー(カッコイイ)」「スマート(冴えている)」と言われました。ジャパニーズ・イングリッシュは、これだけ変なのです。
意志決定(Decision Making)という規定性(これが、TRPG論考で言うゲーム性ではないでしょうか)をTRPGの遊隙に持ち込むことで、新たな遊隙が生じます。
この組み込みはシステム、シナリオ、ロールプレイにも、行われます。
この新たなゲーム理論上の規定性においては単純に適用してはならない。この遊隙が生じるためには、TRPGという解釈学論的な遊びが充分に反映される余地(遊隙)が、不可欠です。
まず、TRPGは解釈学論的な遊びで、遊戯関係で営まれるコミュニケーションであり、美的観照とは異なる、存在論的了解内容に「TRPGに遊んで楽しむのだ」という自覚をもった、遊び手のみが、僥倖において参加できるものとして、「TRPG体験」を得ます。
TRPG、は解釈学論的な遊びで遊戯関係に遊動する限り、ここで述べているゲーム性と、相即しあっているときに、アートと呼び得る。
その目標とする造形が、楽しみ得た「TRPG体験」を目指すとして、僕があげるのは物語性です。
ゲーム性とは何か
以前に書いた記事のRP/GのG=0では、RPGが成り立たない、とした、この中核が、ここで言うG=ゲーム性ではありません。
僕の考えるところのGは「遊びを遊びたらしめる規定性と遊隙に、自らが存在論的了解内容としあったコミュニーションの遊動関係」ではないか、と分析します。
つまり、もっと分かり易くくだけて書くと、時計細工職人の精密な力を発揮するハンマーで、大工で用いる釘は打てないでしょう。
そのハンマーは、精密な力を発揮するのだと、時計職人が、存在論的了解内容をもっているといいます。
これと同じように、遊び手が存在論的了解内容として、「TRPG(に)遊ぶこと」、「遊ぶこととは、遊びを遊びたらしめる規定性と遊隙に自分をおき、遊び手とTRPGとしてのコミュニケーション関係に位置づけること」をもっていること、これがRP/GのGです。
このGが成り立たなければRPGは絶対に成り立ちえません。
そして、シーソーのように遊動関係であるからこそ、遊び手にはバランスをとることは、決して忘れてはなりません。性別や趣味、年齢、職業(クリエイター系だったり、人権運動家だったり)など、配慮が大切です。
万人が合理性を感じるからといって、ゲーム理論を盾に、メンツ集めに奔走しても、TRPGは、解釈学論的な遊びであるからこそ、コミュニケーションが成り立たず、つまらない諍いを起こして終わることが多いのです。チェスとは大きく違うのはこの点です。
TRPGの勝利条件が、もし、TRPGで楽しいひと時を過ごすというものなら、メンツ集めのとき慎重に配慮することが最上の上達の近道です。
解釈学については、ハイデガーの立場を僕はとっています。
解釈学
解釈学的循環
mixiで「存在と時間」の読書会を開いています。
ハイデガーは『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学(数学もゲーム理論も含みます)の解体を行いました。
形而上学はものの上から、ものそのものでなく相対化したり抽象化して見直してみよう、という学問ですが、これの解体です。
数学は数字の法則や使い方を学びますが、メタ数学もあります。数学的に言うと「数学は数学の正しさを証明できるか?」と問います。ゲーデルの「不完全性定理」では「数学は数学の正しさを証明できない」としました。
ノイマンは「不完全性定理」の第一の理解者です。ノイマンはゲーム理論の創始者ですが、Wikiにあるとおり、ゲーム理論史上最大の功績とされるナッシュの均衡論に、「くだらない、不動点定理の応用ではないか」と貶めたとあります。
こちらの本の著者の新田先生は母校での恩師です。
解釈学論的なアプローチを実践するには、「関係」「変化」「解釈」の三部構成を用いて、アウトプットとして、PLがPCを考慮したあり方で、ロールプレイ、つまり、逆に「解釈」「変化」「関係」の流れを滑り込ませます。これが、「意志決定」ではなく、解釈学論的なアプローチです。
もし、ゲーム理論上の合理的選択の結果を伝えるだけであれば、ロールプレイという手法自体を必要としません。シミュレーションゲームやチェスのように、ユニットや駒を動かせば良いだけです。
PCがキャラクターという駒である以上、キャラクターらしさを取ろうとしたとしたら、それはすでに、「意志決定」ではなく、解釈学論的なアプローチです。これは、駒を動かすテクノー的なデザインではなく、アルス的なデザインです。RPG上で必要な分だけキャラクターを造形するデザインと言い換えられます。
ある「関係」を如何に着目するか、どのように「変化」したかを着目したか、どのような「解釈」を導き出すのか、これらはPL固有のインスピレーションによるもので、PLの個性であり、アウトプットにいたっては、PCはPLの固有のもので、模倣はできないものと言えます。
PCを模倣したNPCは、PLから手放された「PCごっこ」で、公式なPCではありません。遊びを大切にしないイロニーの人のPCと、ほぼ大差がありません。
「葬式ごっこ」という「いじめ」がありました。ごっこ遊びに、悪意が仕掛けたものです。
そのごっこ上の子供は、自殺に追い込まれました。遊びの名を借りた、「いじめ」です。
RPGが、悪意を用いて成立可能であるのも、この事件によっても社会学的にありうる事象であると言えるのではないでしょうか。
ですから、PCのNPCとしての利用には、注意が必要です。PLに了解を得ることが一応、必要です。TRPGがその場限りとは限らないからです。
なにせ、「遊び=(社会的ルール上の)善」ではないのです。
遊びの善というのは、遊びに対する真面目な態度であり、イロニーの正反対の立場です。誰とも真面目に遊ぶことが遊びの善です。繰り返しますが、ルールがない遊びは存在しない、遊びはそれ自体の「遊びのルール」によって成り立つからです。その遊びの善は遊びの面白さを尺度とします。
「社会的ルール」よりも「遊びのルール」のカテゴリは小さいはずです。それが逆転する現象は、遊びの危険、誘惑、堕落、現実逃避、狂気と呼べるでしょう。
察するに、多くの論者が遭遇した面白くないTRPGは、結局、この逸脱を指していただけではないでしょうか。
「津神久三先生を囲む会」という歓談会に参加させていただきました。新宿の高級中華料理店で開かれました。
逢坂剛先生も列席されました。お陰様で、楽しい歓談ができました。
現状、西部劇TRPGを製作途中であることのご報告と、若年層が「ガンドッグ」やその「スタンピード」などを見ていただき、西部劇が伝承されていない嘆かわしい実情を典型例としてお見せしました。
津神久三先生は通算10年以上、アメリカに滞在され、「西部のすべて」(小林久三著=津神久三)を著し、日本の西部劇ファンのバイブルとまで呼ばれる書籍を世に送りました。実際のところ、本来は絵画の勉強に渡米されていて、下の書籍の挿絵を入れています。
逢坂剛先生はhttp://www.shinchosha.co.jp/book/119518/より、直木賞をはじめとする小説家です。
津神先生とは色々なお話をしたかったのですが、実は自転車圏内のご近所にお住まいがあることを知りました。
「アメリカ・ウエスタン辞典は参考にしては駄目です。研究社が出版しているから皆が信頼を寄せていますが、確か専修大かどこかの教授の翻訳のついでに作られたもので、3ページに1ヶ所くらい間違いがあります。下手するとスペルミスも(笑)。研究社も再版できないのはそのためでしょう」
なるほど、と思いました。
北京ダックと紹興酒で、僕はなんて場違いなところ(別階特別エレベータ・完全個室・ロングテーブル)にいるのだろうと。
激励していただきまして、本当に深謝を。
この西村清和先生は、美学者として哲学を用いて、近代美術論の根底にある「芸術=遊び」や「仮象論」などに明晰に切り込んでいく。
読了しました。内容の使えるところをまとめると、以下のようなものです。
「芸術=遊び」を美学者の立場から否定する。
「芸術」の熟練と「遊び」の僥倖には大きな差がある。 遊びもまた訓練とか能力開発の土台づくりではなく、遊びの規定性(ルール)のうちでとり行われるわれわれのあり方であり、コミュニケーションである。 ごっこ遊びは型にはまった動作系列のワン・セット、図式化された行動パターンを、いわばこどもの共有財として固定している。キャラクターに動機付けられて典型化された一定のパターンを組み立てて遊ぶ。キャラクターのタイプを示してさえいれば、この遊びのルールとしては十分であって、それ以上の模倣や造形や表現は必要がない。 演劇において俳優の表現と造形行為が、ヒステリー的な同一化でも、精神分裂でもなく、「芸術的意志による演技」であるというメタ・コミュニケーションに支えられている。 演技がペルソナの変形の駆使であるような「世界劇場(サルトル)」においては、真の素顔に戻れるのはトイレや寝室だけということになる。排泄行為や性行為のみを人間の本性とする考え方は滑稽ではないか。 |
TRPGにおける役割演技(=ロールプレイ)は上手下手はあるにしろ、交渉での「話術」「挑発」「はったり」「言いくるめ」などの成否判定における項の選定に不可避なのであって、言い換えると、それはPCの性格描写も含むことになります。
その連鎖を処理したプロセスを物語と位置づけるならば、物語の造形のためには役割演技(=ロールプレイ)は不可欠な要素です。 ここで、TRPGの物語の造形性とは、僕はTRPG「に遊ぶ」ことで目標とすることではないかと考えます。
遊びが終わるのは倦怠からです。TRPGがなぜ、プロセスの連鎖において「物語」を目指すのかと言えば、この「倦怠」が物語の完成を見る「物語完結」によるカタルシスに取って代わるためではないでしょうか。
また、通常、われわれはゲーム理論の陥穽に陥ることなく、非合理的な行動をとります。
経済学でも、ゲーム理論の適用できる場面は一部分に限定されます。
私たちがある八百屋さんでレタスを買ったりするのは、スーパーで買うほうが高いからではなく、お付き合いで買うことで情感を交歓するためであって、合理的経済活動ではないのです。また、ある会社の株を値下がりしても吐き出さないのはお付き合い上株を保持していかなければならないだけです。
まず、遊びが必ず勝負で、実力の伯仲した名誉ある闘争とは断言できないでしょう。
実力は同程度の相手と楽しむのが遊びとして拮抗、遊動関係を切り結ぶのと同じく、遊びを遊ぶには笑顔があり、まじめに遊ぶことが遊びを成り立たせます。
シーソーあそびと原理は同じです。
ゆえにルールがあれば必ずしも、闘争・競争さらには上達と言う理屈は成り立たない。例を挙げれば、「いない・いない・ばあ」の競争・闘争・上達はないでしょう。それでも、「いない・いない・ばあ」は、消え去るような遊びでしょうか。
遊び全般(ルールのない遊びは存在しない)においても、「意志決定論的なゲーム」「ゲーム理論が楽しみを授け得るゲーム」と言うよりは、「解釈学論的な遊び」なのです。
「ゲーム理論が楽しみを授け得るゲーム」は「企て」において有効なだけです。
TRPGも同じ事で、基本的に勝敗のない遊びにおいて言えることは、解釈学論的な遊びの典型であるとしか言いようがありません。厳密な意味で解釈学論的な遊びとして、TRPGは、お芸術の仲間入りを果たします。
そして、美的観照が独立した一個のわれわれの行動様態でとるコミュニケーションであるのと同じく、TRPGの遊戯精神はTRPGが扱う題材が何であれ、GMとPLらによる遊戯関係を築いた中でのコミュニケーションに他ならず、扱っているのは物語にせよ、そこに病的な二重性はないし、疑似体験や感情移入といった要素があるわけでもない。
非現実的な事柄を遊ぶとしても、それは話題の中に収められ、きわめて現実的な遊びの関係に遊んでいるのですから。
TRPGはこの意味で、人と人同士のコミュニケーションの一形態である遊戯関係(独立した一個のわれわれの行動様態でとるもの)に過ぎないと思います。
いくら目先に選択肢があったとしても、TRPGは解釈学論的に遊ぶゲームとすれば、「面白いからリスクを負う」ことも明らかになります。
それを幼稚であると非難できるでしょうか。
ここで必要な規準は「物語デザイン」の観点です。果たして、この横道に入ることで、時間通りに「物語完結」を見れるのか、という感覚が求められます。その感覚がだらしないと、遊びに不真面目であるということになります。
遊びに最も不真面目と言うのは、イロニーの人であり、誰とも遊ばない・遊べない人です。遊び相手は誰もいません。遊びに加わりながら冷笑的に遊戯関係をぶちこわしにする人です。実はその中には薄っぺらい虚栄心しかないのです。遊びにおける悪そのものです。遊びは、それとは反対に楽しくするためのまじめさが必要なのではないかと思います。
それからTRPGのゲーム性のお話なのですが、この遊びの場合、TRPGの進行において解釈の余地(遊隙)があるか、そしてその反映の余地(遊隙)があるか」がTRPGのゲーム性になると僕は思います。
さらには、この遊隙こそが、従来のゲーム性や自由度の論点として集約されているのではないかとも思います。
ゲーム性や自由度は遊隙の中の規定性(遊びのルール)によります。固く規定することで遊隙を作ることも可能なことで、これがいわゆるゲーム性と呼ばれる部分のお話で、固い規定性を持たないことで遊隙を広くとり、最大限に広さを利用して遊ぶのも可能なことで、こちらが自由度のお話ではないのかと思います。
ゲーム性が高いとか自由度が高いというのは、どちらが優れていて偉いと言うわけでもないでしょう。遊び手がそのルールや運用において楽しさや面白さを手に入れられるかが、問われるべき価値のある特質ですから。
エピメニデス(又はラッセル)のパラドクス
例えば、みずみずしいリンゴの絵、犬などの動物のじゃれ付き遊びの解釈は、あの有名な論理的パラドックス、エピメニデス(又はラッセル)のパラドクスだと言う。
ここに書かれているのは嘘です。 |
この有名なパラドクスを拡張すると、
この枠内の事物、行為はすべて非事実(うそ、仮象、遊び、ファンタジーetc..)である。 これはリンゴである。 これはかむ行為である。 |
これらもパラドクスになります。 このアポリアの陥穽において、古来からの芸術、遊びが、不当な二重性を持って論じられてきたと言う。トリック・アートの絵では「驚き」だけれども、芸術の感動ではない。
絵画の瑞々しいリンゴは「非事実」ではなく、「絵に描かれたリンゴ」で、動物がじゃれて「かむ」のは、偽りのない遊びのあまがみの「かむ」です。
TRPGはTRPG「(を用いて、その状況)に・遊ぶ」という独立したわれわれの存在様態でしょう。
疑似体験を求める冒険家が求めるものではない。戦場訓練を求める生き残りをかける兵士の訓練でもない。舞台度胸や造形力を求める駆け出しの俳優が出てくる稽古でもない。
TRPGの存在様態は、あくまで「遊び」であって、笑顔を信じて遊戯関係を切り結んだ関係に遊ぶものです。
ゲーム・遊び・ルール
「遊び(ルールをもたないものは存在しない)」と「ゲーム」の違いは、インド=ヨーロッパ諸語において、「Play(英語)」で顕著なように、「遊ぶ・演技する・演奏する・競技に挑戦する」と一致していて、わざわざ、「Play the game」「Play the piano」となります。
野球でも、ゲーム開始に「プレイ・ボール」と合図をします。
古高独語の「Spilan」は、一説にには「かろやかで、あてどなく揺れ動く運動、それ自体内部で、行きつ戻りつする運動」、中世オランダ語では、液体がぐつぐつ煮立つさまを「spelen」、アングロ・サクソン語の「plega,plegan」を(「play」が語源とする)、「すばやく器用で、しかも規律正しく動く指の運動」にあるという。 「遊」「玩」「弄」「戯」も印欧語と同じく漢語の原義を見れば、日本語の「あそび」「たはむれ」「もてあそび」と対応すると考えてよいと言う。(例えば、歯車の遊び「遊隙」)
「TRPG(を)する」というが、「仕事(を)する」と同じ表現で、「TRPG(を)遊ぶ」とは言わず、「TRPG(をして)遊ぶ」または「TRPG(で)遊ぶ」と言う。必ずわれわれは、「TRPG(を)する」という一行動の、そのような状況「(に)遊ぶ」のです。
遊戯関係と呼ぶものは、ものとわたしの間で、いずれが主体とも客体とも分かちがたく、つかずはなれずゆきつもどりつすする遊動のパトス的関係です。
真剣か真剣でないかという、遊び手の主観の心理状態表示に過ぎず、たびたび、こどもは一生懸命、真剣に遊び、しばしば大人は、不真面目に仕事をする。もしも、不真面目にしか遊ばない子供がいれば、みんなの遊びは台無しになってしまいます。
さらに「いない・いない・ばあ」におけるゲームの骨格をみると、「ルール」と呼びうる一連の決まった経過がある。プレーとゲーム、カイヨワのいうパイディアとルドゥスの区別において、異議申し立てが出来ます。
上図のような関係が西村清和氏の「ゲーム・遊び・ルール」の関係だと思います。
ルールには「法学的慣習的な社会ルール」も入ります。
ゲームには、後期ヴィトゲンシュタインの提唱するような「言語ゲーム」なども入ります。
*をつけた部分以外のゲームには、プロ・プレイヤーによるスポーツなどが入ります。棋士として生きていくことの「企て」、テニス・プレイヤーとして生きていくことの「企て」、プロのウェイターとして感じの良い振る舞いをして印象付けを「企て」るなどのものです。
なぜ、ここに「企て」が入るのかと言えば、カイヨワのいうように「アレア」を神との関係において、遇運にまかせて賭けているのではないか、という一面が人生の「企て」にはあるからです。
遊びには、チェスや囲碁、将棋、遊びのスポーツ、そして無論、TRPGセッションなどが入ります。前も記述したように、実力の拮抗したシーソー・ゲームと同様、遊びのテニスの相手はプロ・テニス・プレイヤーではなく、実力の同じ相手で拮抗しているような、遊動関係であることが条件です。
さらに、社会生活において、ハイデガーのいう道具的存在として有意義な適所に、われわれがいなければ、また、歯車の「遊隙」が全くなかったり、ありすぎたりすれば、その「遊びの僥倖」を大切にしないし、価値も認めないし、遊び相手も大切にしない。
遊びが適所を得て有意義なものであるためのは、遊び手自身が遊びうる資質が必要だと言えるかもしれません。
●墜転落
1.衝撃速度
g:重力定数
h:墜転落の垂直距離
衝撃速度(v)=sqrt(2gh)
2.衝撃力
m:質量(体重)
a:加速力(墜転落においては減速力)
衝撃力(F)=ma
3.減速力
g:重力定数
h:墜転落の垂直距離
s:落下地点の弾性度
減速力(d)=gh/s
4.衝撃時間
s:落下地点の弾性度
v:落下速度
衝撃時間(t)=2s/v
5.外力の分散
F:衝撃力
A:落下時の身体の接触面積
身体に及ぶ外力ストレス(S)=F/A
これらの医療物理の式を見ても、加減算のダメージ算出が、おかしいとお気づきになると思います。
鎧を着たまま墜転落すれば、貫通ではなく明らかに体重、弾性度、接触面積が変わります。長年の論争に終止符が打てました。
システム的には代表的なサンプルの値と、求め方を明記すれば、「強力な磁石が真下に仕掛けられていて、尖った杭が仕掛けられている落とし穴に落ちた場合」などに、対処できるでしょう。
参考文献:へるす出版 救急医学1990年12月号特集:外傷