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遭遇したケースで、当方とは性が合わないのが「法律学者のTRPG」とでも言うべきもの。
「ルール」にあるから、ないから、といって、ロールプレイ(役割演技、またキャスト的な演技も含む)がおかしくなるもの。
TORGで一向に戦闘を終わらせず、シナリオが終わるまでとっておくと成長に有利なドラマカードが全部出尽くすまで長引かせる。
DEADLANDSで射撃時、考えうる最悪の事態のファンブルによってGMがPCに失明のペナルティを与えた。にもかかわらず失明は「ルール」にないからと、普段どおりの能力を発揮する。
このような考えはTRPGの「ルール」をガイドラインとして捉えておらず、法律体系のようなものとして、審判というより判決を導くようなものとして捉えているのだと思う。
「ルール」を法律扱いして、それに従うことでアドバンテージを得ようとする。または「ルール」にないとして、失明などを処理しない。
何が欠落しているのかというと、人によっては常識、想像力、コミュニケーション能力などを挙げるかもしれない。
PSPでモンハン通信プレイでもしたら、ルールどおりで、ロールプレイもいらず、GMも不要です。「法律学者のTRPG」をやるにはもってこいだと思います。
わざわざ人と人でやるようなTRPGには、TRPGなりの要素を持っているはずでしょう。
ルールどおりではなく、ロールプレイが不可欠で、GMを必要とします。
これがTRPGとして肝心なところで、この形態の遊びの可能性はまだまだ切り開く余地があると思います。
鏡さんの論が「メタ」なのかは置いておいて、僕が大っ嫌いなタイプの遊び? 方です。
http://www.rpgjapan.com/kagami/2009/09/post-206.html
「一人で遊べばいいでしょう。何をしに来るんだ、こいつは。帰れ」
となります。
補強すると、「誰とも遊んでいないイロニーの人」で、いわゆる「自分自身の薄っぺらい虚栄心にしか関心がない人」。遊びの僥倖(アレア)をふいにする人。ゲーム理論的に言うと「フリーライダー」。
これは遊びとは言えないです。遊び方の一つとは言いたくない。遊ばない仕方。なぜなら誰とも遊んでいないのだから。
ハイデガーの「存在と時間」にそって言うと、個々人の楽しみがそれぞれあっても、その楽しみは他の人との「気づかい」「配慮」の関係にあることが前提です。自分自身も全体の楽しみを生み出す「道具的存在」として適所に行き、「有意義」な存在になることがTRPGの一つの実存的セオリーだと思います。
遊び(TRPG)の「意味」を求めたり「勝利の利、利益(利便)」を求めたりするわけではなく、第一義的に存在論的「有意義」な「適所性」を目指すことがTRPGのゲーム性そのものとも言えるかもしれません。状況によって変化する「有意義」な「適所性」をフレキシブルに位置取りする。
インスピレーションという減らないものをリソ-スと呼び、そのマネジメントをゲーム性と呼ぶより確かな認識だと思います。
現実の人生でも同じことが言えることでしょう。「環境世界」の「有意義」な「適所」にいれば人生楽しいものです。西村清和氏の言う人生の企てを「神とのゲーム、偶運とのアレア」と捉えるなら、ゲーム性を語れるかもしれません。
(メタについては、http://blogs.itmedia.co.jp/itphilosophy/2005/12/post_294b.htmlに分りやすく書かれています。僕はウィトゲンシュタインの説を支持しています。)
(メタ理論について、個人的覚え書きです。)
TRPGの喩えとしてキャッチボールを出します。
キャッチボールではまず相手のグローブの近く、又は胸元に投げます。フライを投げるにしても落下地点は相手のいる位置からそんなに遠くないところに投げるのです。
つまり、「受けやすい球を放る」わけです。
身長を飛び越える球やゴロや変化球は投げないで、相手の力量に合わせます。コントロールが悪ければ距離をつめます。
要するに、「(自分の)投げやすさを優先しない」のです。
なぜならば、フォロー(リカバリー)が大変だからで、守備力の高い者であっても関係なく、後ろが川だったりすると、大変な思いをするわけです。
さらに気に食わない奴や体力をつける必要がある奴には、悪球を投げます。これは、特に、変なふざけた危ない球(暴投)を投げられたらやります。
実はこうして、やられたらやりかえすことによって、チームワークを建設できるのです。
以上、キャッチボールとTRPGの類似点。いちいち書きませんが、TRPGも同様のことが言えるでしょう。キャッチボールのルールにない了解内容は、このあたりのことでしょう。
分らない奴はキャッチボールを楽しめない。キャッチボールはあくまでボールによるコミュニケーションで、メタ視点がどうのは、ないでしょう。
おねだりしたって、そういうゲームではない。コミュニケーションが前提。キャッチボールではなく壁ぶつけを遊んでいればいいのと同じで一人遊びのゲームを楽しめばいい。
始める前はみんなで「宜しくお願いします」、終わったら「有難うございました」はよっぽど仲がいい場合を除いて当たり前のこと。それをやったら、メンツとして下の下になるプライドなんていらないでしょう。いつも無礼講でお構いなくなどとか、そんなことも分らない奴はTRPGを楽しめないのです。
何故こんなことを書くのかというと、こういうことが、本来的なメタの範疇に入る事柄だからです。
たとえば、様々なコミュニケーションがあります。
ディスカッション、ディベート、ブレーンストーミング、婚活、合コンなど。
これらに対し、TRPGだけ、当てはまるメタ視点があるのか、あったとして古今東西変わらない真理なのか。
どうしてメタという言葉が独り歩きしているのでしょうか。
TRPGでは、この源流を辿ると、なんとオブジェクト指向言語の「メタ」概念と被り過ぎています。ちょうどTRPGが黎明期の頃、流行った概念です。大学の教養課程で教えていた講座がありました。ただし、いくらオブジェクト指向言語とはいえ、処理系、つまり命令文の集合体です。つまり、コミュニケーションが全て命令形でしか考えられない限界のある用語を持ち出してきているのではと穿ってしまいます。
TCGのメタデッキにしろ、対策を施したデッキの意味合いまででしょう。
普通、こんな用語の濫用はしません。
哲学畑(つまり形而上学)をやっていても、メタ云々が、キャッチボールやTRPGに関わるのかというと、根拠がない。イデアだの、エイドスだの、あれらのことは、関わりはない。
あったとしても、正しさを検証できないから、嘘っぱちで間違っているかさえ分らないし、無意味でしょう。
言語学や社会心理学と照らし合わせても、ゲーム用語として強引に適用させている概念ではないでしょうか。
例えば、TVでやっていた有名なメタ言語学は、「あの船の錨を僕のポケットに入れてくれ」と言う事によって、言語の背後を探る学問のようです。人工知能や新しい文学を目指して研究されています。
このメタTRPG論云々は、PLらとGMの「遊び形式の」コミュニケーション限定でしかない上、用語の適用は察するに「遊びの形式の」没入による錯誤だと思います。メタという用語の本来の意味合いをさっぱり知らないか、無視しています。さらに混乱しています。ルールやハウスルール、人間関係という背景をメタとしても、それは傍から見て分ることで、特につつき出すことではないと思います。TRPGを楽しむのはPLとGMで、PCやシナリオの使用者、主体です。つつきだすなら、TRPGのルールにない了解内容でしょうか。
ひとつ、「遊びの形式の」没入による錯誤と感じるのは、TRPGの最中に「キャラクターによるポーカー」が出てきた場合の理論的処理や位置づけが全く見当が付かないことでしょう。
遊戯王ファイブディーズOCGのTRPG、カイジTRPG、ヒカルの碁TRPGの場合は? 何か理論上、考察して高次なものが、ありますか。
TRPG中に他の種類のゲームが出てきた場合、高次低次のメタTRPG論による回答は、無意味だと思います。
またもう一つ、キャラクターのことは、PLが知っているという理屈も、喜びや楽しみ、痛みや苦しみ、満腹や飢餓感も、知っているとはどういうことか。どう考えても、「われわれは他人の歯の痛みを計測しているわけではない」のです。
これらの単に素朴な問いについて、他の人が理論を使って検証できなければ、理論として間違っているかは分らないけれども、無意味だと思います。
アチラのメタはアチラ、コチラはコチラでは無意味でしょう。個々人の造語とその受け売りでお話になりません。しかも、メタのメタのメタと、無限に続けることが出来ます。答えがないのです。
理論は、普及がどうのではなく、重ねて主張するように検証できなければ無意味なのです。TRPGの人工知能処理を目指すならお話は別ですが、必要性があるとは思えないです。
検証性から言えば、メタつまり形而上のアプローチよりも、他の方法、例えばコミュニケーション論からの現象学的アプローチが有効だと僕は考えます。現象学は、感覚与件などを、遮断したり、限定することによって検証できるのです。
[TRPG]「遊びの現象学」を読んで。
全くTRPGを知らない人に1on1で、さわりを楽しんでもらうためのTIPSシナリオです。僕は小心者なので、宴席でしかやりませんが、しつこくTRPGについて尋ねられた時に使うシナリオとなります。
「ゲームはやってみないとわからない」と、必ず一言、断ること。それでも訊いて来たら時と場所を考えてプレイすること。そして必ず、好評なら、信頼できる第三者のサークルと、自分の輪に、お誘いする。自分の輪を最高峰とは考えないこと。相手にきちんと興味の行き先の選択肢を渡して、道案内をする。
1. ここはどうやら、洞窟のようだ。10メートルほど上に、光の差す穴が開いている。君は一切の過去の記憶がない。あの穴から落ちてきたらしいが、思い出せない。 身体の彼方此方が痛むが、大したことはなさそうだ。どうする? 真っ暗闇だよ。 >持っているもの、紅くピカリと輝く指輪、ぼうっと青白く輝く剣。 >風の吹いてくる穴、真っ暗な穴がある。 >聞き耳を立てると、風の吹いてくる穴の方からは微かにトントコトントコという音が聞こえてくる。 2. 真っ暗な穴 何も見えない。急に不安が襲ってくる。 3. 風の吹いてくる穴 小鬼、ゴブリンが、10匹ほど「ゴブ、ゴブ、ゴブ」と踊っている。太鼓のリズムに合わせて。その向こうに出口が見える。向こうは気がついていないようだ。どうする? >主人公の記憶が戻るパターン。 >主人公の記憶が戻らないパターン。 PL=男性ならば、例えば、自分は王子様(剣技の達人)で、身体が剣技を縦横に振るい、ゴブリンの命乞い。ゴブリンの子供や、蓄えなどを。ジェスチャーによる会話。ロールプレイ。TRPGの演技の基本形、描写に重点を置いてみる。両手で目を押さえるとか、両手を組んでとか、奇行に映らない程度に。 PL=女性ならば、例えば、後ろから暗闇の中、下級騎士が現れて、「今は戦争中だ。この場は協力するが捕虜になってもらう」として、実は下級騎士側の軍の姫君。今までの経験からすると、女性PLは不気味さで混乱するので、助け舟を出すこと。 |
システムはサイコロ一個で。単純にでっち上げること。結構、こちらの演技に乗ってくる場合が多く、引き込み率は8割くらい。実践してきて分ったことは実は、万人が演技できることは、ほぼ断言できます。
食事処などでも、ちゃんと仕切りがあったりすれば小声で何とかなります。あまり夢中にさせない、夢中にならないように。
所要時間、最大15分。アニメの前半程度に抑えて。ダイスは20面あたりの一般には珍しいものを使うこと。ジャンケンも使えますが、なるべくダイスの珍しさで、こけおどしのカルチャーショックを与えられることを狙う。
休憩、解説は相手次第。これは一番気をつけること。PLのほかに観衆他がいる場合は、夢中になったりしない。勘違いが多いのですが、注目を極端に集めるのは、害です。薄く、気軽にちらりとやる感じに。
特にエンディングをかっちりしておけば、充足するし、興味を惹ける。
実績としては、このパターンを、おそらく百人近くに行いました。肉親にも大丈夫でした。肉親に理解されていないTRPGユーザーの参考になるかと思います。肉親に理解されれば、実家の利用OKが頂けたりもしますね。
少なくとも経験から、僕は以上のように思います。難渋されたときに、ご参考になればと。
箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」その1
桃太郎の鬼征伐の御伽噺について、詳しいことは抜きに、
基本的な話の流れは下のフローチャートで表せます。
上の図のようなオブジェクト指向的な図表をシナリオとします。
御伽噺上たどった道は下の図になります。
このルートをたどらなくても、(Aマホのように)結果を目標としなくても、いくらでもルートのパターンが作りやすいか、推測がつくと思います。
箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」その2
スタートは端から。きび団子一個入手の図。
一個のきび団子で、戌(いぬ)をお供にするために、B1を狙う。Bに命中。戌が一匹、お供に。
さらに、(きび団子を少し分けるのか? 交渉するのか?)戌をお供にしようとするが、
あわれ、Eの鬼が島の鬼(鬼合戦)がやってくる。戦力不足か。
ここで雉を味方につけようと、C1へ。Cの雉ゾーンに入る。
このように、ABCDEFのそれぞれから、その中に点フラグになる基準方向と、その際にかかる誤差を操作していけば、ベクトルとスカラーを包含できます。
この場合、箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」その1のフローチャートではない、処理系となります。
このとき、鬼側の戦略や、きび団子増強による申軍団を桃太郎が作ってもお話にはなりますし、鬼を殲滅して、和睦を結ばなくてもいい。ゴールは決まっていません。
この図のそれぞれのゾーンの立体的な運用がマスタリングとプレイングの演出となり、ユーザーがゲームデザインできる部分です。
箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」その3
シナリオは、以下の枠内に、それぞれどれだけの時間消費がかかったか、フラグが立っていない場合はどうするのか、それぞれ記入し、AからFのフラグゾーンから、A1などのベクトルを記述することで完成します。
この手法を基本とすることにより、一本道でもなく、鬼側の戦略を記述しやすく整理できる土台となります。
A | B | C | D | E | F | ||
A | 1 | ||||||
2 | |||||||
B | 1 | ||||||
2 | |||||||
3 | |||||||
C | 1 | ||||||
2 | |||||||
3 | |||||||
D | 1 | ||||||
2 | |||||||
3 | |||||||
E | 1 | ||||||
2 | |||||||
F | 1 |
箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」(妨害の基礎)
戦略的妨害の導入です。
六茫星、五茫星に対して、白、黒の二重円の内円は、外接まで。
内円は番号点に接しなければならず、
白円は内円が大きい、妨害にきちんと対処していない。
黒円は、きちんと対処し、ある程度自在さが高い。
ちょっと説明が大雑把ですが、概念は伝わったでしょうか。
お待たせしました。申し訳ない。http://western.blog.shinobi.jp/Entry/141/の続きです。
待っていなかった、かも(汗) とくに玄兎さん向けエントリ?
まずなぜ、このような作図形式を考えているのかという動機は、蛇足もありますが、こんな議論を学生時分、交わしたからです。
「システム・デザイナーとGMの間のシナリオ・デザイナーには立つ瀬がない。展開の流れをコントロールするにも一つ一つの確率を挙げて行けばきりがない。ネタを提供するだけで、よくできたシナリオなんて、セッション上では生み出しようもない。ストーリーとしてまともに命題を揚げ、テーマを追求しても、机上より卓上の方が優先させられてしまう」
という嘆きを聞きおよび、その答えを探っていたからです。
シナリオ・フォーマットとしてというより、シナリオ・デザイナーの企図を、GMには視覚的に訴え、セッション運営に生かしてもらいたいという実験的な試みです。PLには見せません。
ストーリーとして命題を揚げ、テーマを追求する取り組みに関して、このような幾何学的なブロックに分解して明示すれば、一本道になりやすいストーリー重視のシナリオでも、経過基序を異にしやすい。かっちりとデータを駆使して、Aマホのような展開指向性を、別のアプローチで求めるような考えです。「再演性」と「柔軟性」や「展開性」、役回りの「生成性」を欠落させず、あらかじめ織り込んでこの要素を想定しておきます。
この手法では、フラグが立つと他の点を目指せます。ゾーン内の点の微妙な座標は、確率的に想定外の展開の起こる可能性も含めています。
円A1A2またはB1B2は、1と2どちらかが「自在円」で、もう一方の中心を同じくする円が「CEP(半数必中界)円」です。「自在円」「CEP円」は比較してどちらが大きくても構わない。
「自在円」は各色のゾーンの点に接っするか内包し、鬼側の戦略である五芒星や六芒星に重なってはいけません。大きいときには偶然性が多く、小さくするには戦略的なフラグをきちんと立てることが必要です。
「CEP円」はダーツのたとえでいうと50%刺さる円です。散布梯尺でいうとCEP(25%+25%)、この外が(16%+16%)、(7%+7%)、(2%+2%)の比率に近似します。
パーセンテージ・ロールで狙いのズレ幅、D6*10+D10でズレ角を導きます。導くのは点であって、面ではありません。「自在円」と同じく大きいときには偶然性が多く、小さくするには物語的なフラグをきちんと立てることが必要です。
ABCDEFのそれぞれから、その中に点フラグになる基準方向と、その際に要する狙いの距離を倍数操作すれば、例えば、戌申雉の獲得順序は簡単に入れ替えることが出来ます。
求めた点から展開内容が決まります。点を求めない、つまりフラグが立たず無用な展開が続けば、鬼側は五芒星や六芒星の妨害を仕掛けられます。
下図の「に」では鬼の妨害工作に引っかかっていて、申はたとえば、「人質をとられているので、桃太郎を裏切るか、合戦のときに鬼の言うことを聞いて武器を捨てさせる」などというフラグを立てています。
蛇足。
なぜ、ここまで視覚情報化すべきなのかについて、動機がありまして。
実際に「自分はある障害を持っている。だから空気をぶちこわしにするかもしれない」と公言する方と卓を囲みました。
シングルフォーカスを乗り越えさせるためには、できるだけ、こちらは視覚化させるしかない。
以前にも書いたように、長文や聴覚情報に弱い。健常者でも、弱い方もいる。万人に受け入れられるためにも、ヴィジュアル方面のアプローチが非常に有効です。
そこにこだわり、その障害を告白した方とまた、卓を囲めたらいいなあと思っています。
(図の方法はボロノイ図というものとだいたい似ています。2019.8.3追記)
※ここでは障害の意味をTRPG自体に支障をきたすものとしています。念頭にあるのは高機能自閉症、いわゆるアスペルガー症候群です。
タブー視される社会適応の障害から、考え直してみる。
#引用開始#
オホーツクADHD&LD懇話会
過去ログ
・ また、シングルフォーカスの特徴があると、同時に複数の刺激要素を処理しないとその意味合いが浮かび上がってこない「他者との社会的交流状況」を十全に理解することが出来ない。相手が発信する社会的交流刺激の一部だけから、その状況を解釈してしまうために、誤解が生じてしまう。
・ さらに、発達障害とは、人生の最早期からの「適切な発達を支える環境との相互作用が歪みを受ける障害」であり、そのために、放置しておくと二次的な障害が生起してくる。出来るだけ早いピックアップと適切な療育が必要。また、上記のシングルフォーカス特徴が発達障害として影響を及ぼすために、視覚的思考といった自閉症に特有の認知特徴が作り上げられてくる。
・ 「自閉症の子は、ごっこ遊びをしない」と言われるが、ごっこ遊び的な行動は、特に高機能自閉症児の場合にはよく見られる。一般に、ごっこ遊びには「再現する要素」(記憶の中にあるストーリーや動きを再現する)と「再演する要素」(キャラクターの心の状態を演じる)とがある。自閉症の子は「再現する要素」が多く、いつも同じストーリー、同じやり方、丸覚えのやり方、大好きなビデオをそのまままねることが多い。また、単なる物まねでなく、自分でストーリーを作っていたとしても、柔軟性やその場その場での展開性に欠け、自分の考えたストーリーの中で他人の役回りを決めて強引にやらせようとすることがある。
#引用ここまで#
このような、障害例を挙げると、タブー的側面が伴う。障害者差別意識はないことを明記しておきます。
ただし、TRPGは基本的に「遊びの僥倖(フランス語のアレアは僥倖、ラテン語のアレア、サイコロを原語とする)」を万人に等しく訴えるものと考えると、このような障害例についての援用も参考になる。
つまり、安易なごっこ遊びは、“「再現する要素」が多く、いつも同じストーリー、同じやり方、丸覚えのやり方、大好きなビデオをそのまままねることが多い。”もの。
正反対の「再演する要素」(キャラクターの心の状態を演じる)が重要となるものであるが、安易なレベルで万人に評判の高いものは、「再現する要素」であり、ネタ元がはっきりわかるものだということ。
そして、“また、単なる物まねでなく、自分でストーリーを作っていたとしても、柔軟性やその場その場での展開性に欠け、自分の考えたストーリーの中で他人の役回りを決めて強引にやらせようとすることがある。”というところから、吟遊詩人マスターやなりきりプレイの、稚拙さをよく指摘されるもの、安易に万人に評判の高いものは、「再演する要素」がない上で、このような類のものであるといってよいかと思う。
しかし、安易に万人に評判が高いものは正解だろうかと言うと、そうではない。
ごっこ遊びとTRPGの違いはひとまず棚にあげるとして、TRPGが個人の遊びに楽しむ一人遊びではない以上、個人だけの楽しみに委ねて評価ができない。しかも明らかにこれはコミュニケーション上の障害に連結している。
このような障害は未発達なシングルフォーカスから来ており、「障害」を含んだTRPGと言える。
吟遊詩人マスターやなりきりプレイが悪いのではなく、「再演性」と「柔軟性」や「展開性」、役回りの「生成性」が欠落していることがコミュニケーションの成立に悪いのだ。
吟遊詩人マスターやなりきりプレイ以外にもこれは当てはまる。意志決定などの手法を用いたとしても注意すべき点はあくまで、この部分に当たる、コミュニケーションの成立失敗である。
とくに、プロットを固定したり、キャラクターの役回りの生成を認めないのは、「障害」にさらされたTRPGで、コミュニケーションが図れない(コミュニケーションが介在する必要を失う)仕組みになる。
また、このような「障害」を少々持つ実際の方であっても、乗り越えやすいような体質のデザイン・アプローチが必要だと言えると思う。
ゲームが意志決定論であるとしている話をして、物語性を否定する方には決定的に見落としがある。ウラジーミル・プロップによる構造主義の先駆者の説です。ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法』より。
原則1 民話の恒常的で不変の要素は登場人物たちの機能である。この場合それぞれの機能がどんな人物によって、あるいはどんな方法によって為されるか、ということとは関係がない。 |
原則2 魔法民話の中に出てくる機能の数には限度がある。 |
原則3 機能の継起順序は常に同一である。 |
すべての民話にすべての機能があらわれるわけではなく、筋運びで省略、併合、統合がされる。はじまりの機能は途中からという場合もある。抜かした経過を取り戻すために後戻りすることがある。機能にはその反対の場合を含むこともある。 |
プロップのカード |
レッジョ・エミーリアでの ジャンニ・ロダーリのカード |
(1)留守 | |
(2)禁止 | (1)禁止 |
(3)違反 | (2)違反 |
(4)捜索 | |
(5)密告 | |
(6)謀略 | |
(7)黙認 | |
(8)加害(もしくは欠如 | (3)加害(もしくは欠如 |
(9)調停 | |
(10)主人公の同意 | |
(11)主人公の出発 | (4)主人公の出発 |
(5)任務 | |
(6)魔法の授与者との出会い | |
(12)魔法の授与者に試される主人公 | |
(13)主人公の反応 | |
(14)魔法の手段の提供 | |
(7)魔法の贈り物 | |
(15)主人公の移動 | |
(8)敵対者の出現 | |
(9)敵対者の悪魔的能力 | |
(16)主人公と敵対者との抗争 | |
(17)狙われる主人公 | (10)決闘 |
(18)敵対者に対する勝利 | (11)勝利 |
(19)発端の不幸または欠如の解消 | |
(20)主人公の帰還 | (12)帰還 |
(21)追跡される主人公 | |
(22)主人公の救出 | |
(23)主人公が身分を隠して家に戻る | (13)家への到着 |
(24)にせ主人公の主張 | (14)ニセの主人公 |
(25)主人公に難題が課される | |
(26)難題の実行 | (15)困難な試練 |
(16)損害の償い | |
(27)主人公が再確認される | (17)主人公であることの再確認 |
(28)にせ主人公あるいは敵対者の仮面がはがれる | (18)仮面をはがされたニセ主人公 |
(29)主人公の新たな変身 | |
(30)敵対者の処罰 | (19)敵対者の処罰 |
(31)主人公の結婚 | (20)結婚 |
物語論(ナラトロジー)参照。
これらのいわゆる各要素が全て欠如しているならば、一般的にTRPGではないとさえ言える。
意志決定がそれを傍観する立場において、このお約束――演技のサブセット――と言っても良いものが傍観を許してくれる。
異論は多いだろうけれど、TRPGを意志決定論で捉えて、病気や災害に予測外の不運にあわないというのは、ユートピア幻想かとも思う。
物語論で触れられているものは、――演技のサブセット――のなかにある規則であって、やはりTRPGは物語をゲームで囲ったものだと思います。これらはなくても「ゲーム」があれば遊べますが、欠ければTRPGではない。
味噌を溶いただけのシロモノになります。