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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]キャッチボールの喩え[自分用メモ]

 (メタ理論について、個人的覚え書きです。)

 TRPGの喩えとしてキャッチボールを出します。

 キャッチボールではまず相手のグローブの近く、又は胸元に投げます。フライを投げるにしても落下地点は相手のいる位置からそんなに遠くないところに投げるのです。
 つまり、「受けやすい球を放る」わけです。

 身長を飛び越える球やゴロや変化球は投げないで、相手の力量に合わせます。コントロールが悪ければ距離をつめます。
 要するに、「(自分の)投げやすさを優先しない」のです。

 なぜならば、フォロー(リカバリー)が大変だからで、守備力の高い者であっても関係なく、後ろが川だったりすると、大変な思いをするわけです。

 さらに気に食わない奴や体力をつける必要がある奴には、悪球を投げます。これは、特に、変なふざけた危ない球(暴投)を投げられたらやります。
 実はこうして、やられたらやりかえすことによって、チームワークを建設できるのです。

 以上、キャッチボールとTRPGの類似点。いちいち書きませんが、TRPGも同様のことが言えるでしょう。キャッチボールのルールにない了解内容は、このあたりのことでしょう。

 分らない奴はキャッチボールを楽しめない。キャッチボールはあくまでボールによるコミュニケーションで、メタ視点がどうのは、ないでしょう。

 おねだりしたって、そういうゲームではない。コミュニケーションが前提。キャッチボールではなく壁ぶつけを遊んでいればいいのと同じで一人遊びのゲームを楽しめばいい。

 始める前はみんなで「宜しくお願いします」、終わったら「有難うございました」はよっぽど仲がいい場合を除いて当たり前のこと。それをやったら、メンツとして下の下になるプライドなんていらないでしょう。いつも無礼講でお構いなくなどとか、そんなことも分らない奴はTRPGを楽しめないのです。

 何故こんなことを書くのかというと、こういうことが、本来的なメタの範疇に入る事柄だからです。

 たとえば、様々なコミュニケーションがあります。
 ディスカッション、ディベート、ブレーンストーミング、婚活、合コンなど。
 これらに対し、TRPGだけ、当てはまるメタ視点があるのか、あったとして古今東西変わらない真理なのか。

 どうしてメタという言葉が独り歩きしているのでしょうか。
 TRPGでは、この源流を辿ると、なんとオブジェクト指向言語の「メタ」概念と被り過ぎています。ちょうどTRPGが黎明期の頃、流行った概念です。大学の教養課程で教えていた講座がありました。ただし、いくらオブジェクト指向言語とはいえ、処理系、つまり命令文の集合体です。つまり、コミュニケーションが全て命令形でしか考えられない限界のある用語を持ち出してきているのではと穿ってしまいます。
 TCGのメタデッキにしろ、対策を施したデッキの意味合いまででしょう。
 普通、こんな用語の濫用はしません。

 哲学畑(つまり形而上学)をやっていても、メタ云々が、キャッチボールやTRPGに関わるのかというと、根拠がない。イデアだの、エイドスだの、あれらのことは、関わりはない。
 あったとしても、正しさを検証できないから、嘘っぱちで間違っているかさえ分らないし、無意味でしょう。

 言語学や社会心理学と照らし合わせても、ゲーム用語として強引に適用させている概念ではないでしょうか。
 例えば、TVでやっていた有名なメタ言語学は、「あの船の錨を僕のポケットに入れてくれ」と言う事によって、言語の背後を探る学問のようです。人工知能や新しい文学を目指して研究されています。

 このメタTRPG論云々は、PLらとGMの「遊び形式の」コミュニケーション限定でしかない上、用語の適用は察するに「遊びの形式の」没入による錯誤だと思います。メタという用語の本来の意味合いをさっぱり知らないか、無視しています。さらに混乱しています。ルールやハウスルール、人間関係という背景をメタとしても、それは傍から見て分ることで、特につつき出すことではないと思います。TRPGを楽しむのはPLとGMで、PCやシナリオの使用者、主体です。つつきだすなら、TRPGのルールにない了解内容でしょうか。

 ひとつ、「遊びの形式の」没入による錯誤と感じるのは、TRPGの最中に「キャラクターによるポーカー」が出てきた場合の理論的処理や位置づけが全く見当が付かないことでしょう。
 遊戯王ファイブディーズOCGのTRPG、カイジTRPG、ヒカルの碁TRPGの場合は? 何か理論上、考察して高次なものが、ありますか。
 TRPG中に他の種類のゲームが出てきた場合、高次低次のメタTRPG論による回答は、無意味だと思います。

 またもう一つ、キャラクターのことは、PLが知っているという理屈も、喜びや楽しみ、痛みや苦しみ、満腹や飢餓感も、知っているとはどういうことか。どう考えても、「われわれは他人の歯の痛みを計測しているわけではない」のです。

 これらの単に素朴な問いについて、他の人が理論を使って検証できなければ、理論として間違っているかは分らないけれども、無意味だと思います。

 アチラのメタはアチラ、コチラはコチラでは無意味でしょう。個々人の造語とその受け売りでお話になりません。しかも、メタのメタのメタと、無限に続けることが出来ます。答えがないのです。
 
理論は、普及がどうのではなく、重ねて主張するように検証できなければ無意味なのです。TRPGの人工知能処理を目指すならお話は別ですが、必要性があるとは思えないです。

 検証性から言えば、メタつまり形而上のアプローチよりも、他の方法、例えばコミュニケーション論からの現象学的アプローチが有効だと僕は考えます。現象学は、感覚与件などを、遮断したり、限定することによって検証できるのです。

 [TRPG]「遊びの現象学」を読んで。


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