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キャラクターの名前についてです。
西部劇に登場するような人物を作ったり、実在人物名の英語発音を調べたりする苗字の資料はこちらを用いています。翻訳家でも知らない方がいて驚いたりします。英語ネイティブの人でもこのような辞書が必要な仕事があるそうです。
古い本なので、古い時代の固有名詞を使うのには適しています。新しい時代の移民の英語読みは載っていません。
TRPGではCoCにも使えます。TORGのサイバー教皇領あたりだと特にカトリックの守護聖人の名前が多いはずです。ちょっと前のフランスでは名前は誕生日で決める法律がありました。20年くらい前、その法律が廃止になったのが話題になったと思います。
西部劇のキャラクター名もやはり生まれた誕生日の守護聖人の名前が使われていてもおかしくありません。
守護聖人の名前で日にちを指定して約束をすることも習慣的に行なわれているそうです。ちょっと日本人の我々には分からないですね。日本では厳密にはやらなくてもいいです。職業上の聖人や、誕生日ではなく洗礼日とか、太陽暦ではなかったりします。
つまり、適当な名付けは敬虔なキリスト教徒の家庭ではあまり考えられないのです。使えそうな名前が守護聖人系統の名前ならば誕生日が決まってしまいます。宗派の違いも微妙にあって、プロテスタントだけの守護聖人があったりします。
またロシア人の名前はこのように名字が男女で変わります。ビルマ人には苗字(ファミリーネーム)がないそうです。世界中、いろいろです。
ミレニアムズ・エンドやガンドッグあたりにも使えるでしょう。
守護聖人関係はこちらで調べました。
Phil Co 著 B-Sprout 訳
[目次]
アメリカでデューク廣井氏が、黒色火薬銃の実射をレポートしたコンバット誌の記事を、アリゾナ生まれで日本在住の西部小説作家チャック・タイレール氏が、紹介しています。
こちら。
スタッフ参加してきました。スタッフは報酬やメリットは度外視で手弁当の心意気での参加が基本です。こうしたカルチャーを支えているという自負心しかないです。「楽しいイベントありがとうございました」とお礼を述べて下さった方がいました。個人的に嬉しいです。
次回は来年の3月30日です。
コンバットマガジンでDUKE廣井先生の記事が載っている号をVショウで購入しました。
僕のTRPGにも監修(?)として参加して下さる予定です。
ブログはこちら。http://officeduke.militaryblog.jp/
僕は昔、歌舞伎町と西新宿で働いていたことがありまして歌舞伎町のエアライフル射場の常連でした。亡くなった伯父は北海道日高の鹿撃ちのガイドでした。
ちょうどアップジョンなどが流行っていた頃の歌舞伎町で、「新宿鮫シリーズ」大沢在昌先生の描いている時代の頃です。
ちなみにど素人が外国に行って現代銃を射場で撃ったとしても何の参考にもなりません。また、外国に行って人体や馬体をターゲットに出来るわけではありません。鹿や熊を撃ち殺しても何の参考にもなりません。
ボウガン(弓)は馬鹿な僕の元父が畳を撃って遊んでいました。僕が子供の頃、元継母は薪割りの斧や包丁(マキリ)をしょっちゅう僕に投げつけていたので感覚はわかります。
金属バットでの折檻が常習化していましたが、六本木の事件だと被害者が死んでしまったのを根拠に医者にも信じてもらえず、最近、尼崎市の沖野玉枝容疑者(43)事件で、やはりいると言うことが信じてもらえるようになりました。
描写の正確さは、TRPGの場合、西部劇作品のそれぞれが舞台とする西部に沿えば良いのだと僕は思います。
昔、新宿のエアライフル射撃場で撃ってきたものの成績です。
銃を固定して目標を変えずに撃つと弾着は正規分布します。
人間が撃つ場合その正確さは大きくばらつきます。この場合標本数が少ないのですが。
狙ったところに完全に命中する数が驚くほど少なくなってしまいます。
半数必中界CEP
銃を固定して多数弾を撃つとある半径に50%命中したとします。
その半径に対する半径の割合がr/cepです。
DUKE廣井先生によると自衛隊でも砲兵科で勉強しないと普通は知らないと驚かれました。
第71回Vショースタッフ参加してきました。スタッフは報酬やメリットは度外視で手弁当の心意気での参加が基本です。こうしたカルチャーを支えているという自負心しかないです。前回、ディーラーさん(ジャンゴさん)に頼んでとっておいていただいた「The Guns of Remington」を購入しました。
前回の値段より安く売って下さるお話がありましたが、値引き分はご祝儀としてお渡ししますと申し出たところ、オマケにピンバッジを頂いてしまいました。とっておいてくださったのが何より嬉しい。
取扱説明書的な解説書は、オーナー用の物があるくらいです。この本も、そういったものではなく、生産品のヒストリカルなリストです。ただし、内容はフルカラーです。
マカロニを含めても西部劇で扱われる銃はバリエーションが少ないのです。西部劇はガンマニア「だけ」の映画ではないからです。
明日もVショー二日目が開催されます。
「人物関係シナリオから」という記事の続編です。
記事にはシナリオ作成の限界はどこまでかを書いてあるだけです。きちんとそう書いてますしその列挙をしています。
論理的思考や学問に疎いとかで、僕が突然3すくみの関係を用いようと言い出しておかしいと感じる方がいるようです。そういう方は読まないでください。
調べると、心理学・社会学では3すくみの状態をいろいろ考察されています。典型的なのは、[T.M.ニューカムのA-B-XモデルとF.ハイダーのP-O-Xモデル]であらわされるように、3すくみを単純化して、考えることです。
#引用開始# |
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さらに三すくみの状態とは違い、三つの選好順序の選択となると、アローの不可能性定理があります。こちらは経済学です。
#引用開始# |
よく意志決定がゲームであると書かれてありますが、もしTRPGのように多人数で社会的決定を行なうとすると、多数決上の(数学的な意味での)独裁者問題が発生します。
討論主義できめようとすると、声の大きいプレイヤーがPC全員の意志を代表し、(数学的な意味での)独裁者になるのです。
多様な選択肢からPvPを行なうならば、意志決定は反映されるでしょう。
また、ストーリー的なシナリオに沿ったPC協力型のTRPGは、ゲームとしてどうなのかというと、さんざん述べているとおり面白いシークエンスを求めようという挑戦です。これもまた全員がコミットしていれば、パレート均衡(全員の一致)により意志決定は反映されるでしょう。
考えることを三つに絞ろうというのは、もう一つ、心理学上、人間が立てられる仮説は3~4個までだからです。GMもPLも人間ですから限界があり、その限界以上のシナリオは作るべきではないということです。
ただしイベント発生ごとに段階を踏んでいく方法ならこの問題は解決できます。戦闘システムがそうです。
単純に3つの選好選択に絞ったとしてもアローの不可能性定理から、処理側のGMを含むかもしれない2人以上のプレイヤーで、きめ方の多様性は天文学的な数だけ担保されます。
たったの3つで2人にとっては、自由という観念では自由が成立すると言って良いでしょう。もし、自由ではないというなら何通りあれば自由と言えるでしょう。
シナリオ作成の限界には、GMとPLの関係性もあります。コンベンションのマスターでモビルスーツの出ない塹壕戦をするガンダムでは困りますが、ナカマ内では面白ければありになる場合もあります。
そのナカマ内のもめ事の処理もまたシナリオ作成の限界です。
「人物関係シナリオから」は
シナリオ作成の限界はどこまでかを
書いてあるだけです。
そして可能なことはPLが楽しいことなら、
やってみましょうというノウハウです。
「きめ方」の論理にはゲーム理論の展開ものせられています。高校生から分かるアローの不可能性定理は非常に参考になりました。
松本保美 著
アローの不可能性定理の理論的枠組みの解説および解釈を基に、伝統的な枠組みをより現実的かつ一般的にする新しい考え方を提示する。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
ジョン・クラーヴェン 著 ; 富山慶典, 金井雅之 訳
政治学や経済学、哲学・倫理学の中に、アローの定理にはじまる社会的選択理論の居場所を与える。選挙制度や経済政策の決定手続き、権利や正義の道徳的判断など、主要トピックスを幅広く簡潔にまとめた入門書。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
アローの不可能性定理
ケネス・J・アロー 著 ; 長名寛明 訳
社会的選択理論を創設したアローの類まれなる業績の最新版。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
Kenneth J.Arrow, Amartya K.Sen, Kotaro Suzumura [編] ; 鈴村興太郎, 須賀晃一, 中村慎助, 廣川みどり 監訳
このハンドブックの主な目的は、社会的選択の理論と厚生経済学の現状に関して、親しみやすいイントロダクションを提供することである。本書で解説される理論は、人間の福祉の改善方法を追求したり、集団的意思決定を容易にする上で、強力で建設的なメッセージをもっていることをも確信しているのである。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
僕は頭が良くないので、ノーベル賞を取った理論に、たちうちできません。wikiによると、アローの不可能性定理とありまして、協調型ゲームの理論で互いを互いにコミットする(多数決)ことが上手くいかないという原理らしいです。
TRPGでは、選好順序が多数決では成り立たず、「完全に全員の好み」であるようなセッションはつくることが出来ないという証明です。
大塚英志 著
『鉄腕アトム』『トーマの心臓』『11人いる!』『借りぐらしのアリエッティ』…。まんがやアニメ、映画の名作たちの物語の中には、なぜか必ず共通する要素が発見できる。それら"物語の命題"と言うべき存在を解き明かし、まったく新しい作品としてリメイクしていくワークショップ集。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
批評から、物語の「命題(テーマ、プレミス)」を抜き出して、それをワークショップ(練習問題)として提示する構成の本です。
しかしそのようなぼくの創作論の中でさえ手つかずになっていたのが「テーマ」という問題です。それはぼくの中でどこかでテーマを神聖不可侵なものとして、つまり、「作者」の固有性の拠り処として担保してしまったのかも知れません。 |
「キャラクターメーカー」「ストーリーメーカー」は、物語なりキャラクターを、構成・構造としてそぎ落として、特殊から一般への科学的な見方のアプローチをとられていましたが、この本は、そういう書き方はしていません。
この本では、命題という普遍から単独にゆだねて、その単独性から、普遍の地平を渡る道しるべとなる創作論を採っています。
僕は、コミュニケーションの社会学で扱われたような単独性と普遍性、作家性への応援として受け取っていいと思いました。
人間は、既にある技術や道具があることも知らないで、一種の知的体系を作ろうとします。
なんらかの物づくりのプロが取りそろえる道具の体系に対して、アマチュアや素人がそういった道具自体や道具体系の存在も知らないで、自分で揃えた道具の知的体系を作り出していることがあります。
普遍的な命題を扱うために、一般的な体系を述べてきたとしても、物語のノウハウを道具的体系として述べたところで、単独性と普遍性は失われないと力説されています。
文学的な単独性と普遍性、科学的合理的な特殊性と一般性のあいだに、断絶があって、そこをつなぎ渡る橋があると信じるとする、手のひらを返したような考えに希望と好感が持てました。
物語から批評を通して、命題を見いだすプロセス、そこに単独性が生じているのです。
浮世絵の歌麿の女性を描く微妙で繊細な艶っぽい曲線美が群を抜いているように、雲形定規では説明できない単独性を礼賛することができるのです。
「キャラクターメーカー」の、「誰にでも創れる論」の限界がないように錯覚させる手品の種明かしとか、手品の種を知っていたとしても手品師にはなれないという感想とは違って、
誰かには創れるというしっかりした根拠を示している
と思いました。
TRPGなら、なぜ、自分が作成していない、他人のものであるキャラクターを交代できないのかというと、ロールプレイにプレイヤーの個性の要点があるからと考えられるとしか思えません。
ロールプレイには、Second-guessing(憶測しなおすこと)があるから、単独性が発揮されているのです。単なるペルソナではないメカニズム、一種の作家性が備わっているからだと僕は思います。
大塚英志 著
ライトノベルやまんが、アニメに登場する「キャラクター」は、作品の成否を決定づけるだけでなく、商品として消費され、あるいは二次創作に使用される。そのようなキャラクターは、どうやってつくれば魅力的になるのか?古今東西の物語理論を自在に応用し、「私」が反映されたキャラクターをつくりだす決定版マニュアル。
「BOOKデータベース」より
[目次]
「BOOKデータベース」より
キャラクターはパーツの順列組み合わせなのか? |
ストーリーが順列組合せだという分析には、僕もコミットしています。
[SYS]戦闘システム論からTRPGの物語論。
[SYS]メタゲーム論02
TRPGでは、たしかにキャラクターのアバターと呼ばれるたぐいのランダマイザーやロール・オア・チョイスが用いられたりはします。最近はアーキタイプや、パッケージの組合せを使っています。
ただし、昔も今も、プレイヤーが自分のキャラクターの背景設定を作り込むことは推奨されて行なわれています。TRPGは単純なスゴロク作成のキャラクターを仮に用いたりすることもありますが、シナリオを進めていくうちに、必ず、作成以前の設定が求められてきます。親や兄弟がどうしたという話のたぐいが求められてきます。
ですが、類型だけでは、作家性やメッセージ性が本当に失われるという実験を大塚さんはしていないようです。
[つれづれ]「ファンタジーの文法」で触れたように以前、僕は実験しました。
ですから、ストーリーが順列組合せである、キャラクターも順列組合せであるということについては、コミットする姿勢が違います。
順列組合せだけでは作家性が得られないということが僕の実験の結果です。
作家性や「私」には、ストーリーの順列組合せは道具であることについての見解は同じです。そこから先に、テーマやメッセージ性を盛り込まなければ、結局、創作上の「なぜつくるのか」という問題を解決しません。そこが、「誰にでも創れる論」の限界です。
キャラクターがアバターで順列組合せだという論においては、TRPGでさえも、キャラクターに背景設定のストーリーが求められる実情を把握していないのでしょう。
TRPGでは、キャラクターシートのイラストや、「フォーチュン・クエスト」のお面というか頭飾りがあります。これは、他のプレイヤーさんに描いてもらったり、自分で描いたり、描いてあげたりするレッテル(ラベル)的な仕組みです。つまり、コミュニケーション上のアイコンです。(「フォーチュン・クエスト」では、頭飾りをすげ替えて遊ぶことも見られました。言いたくもないことを頭飾りをすげ替えて言わせたり、やらせてしまうギミックでした)
これは、キャラクターのアバター(表面・内面)が、その内包する順列組合せを表示しないということです。
TRPGでは、キャラクターは、ペルソナ(仮面)を使った、ミミクリ(模倣)の遊戯の仕組みです。
ペルソナは、能面という日本文化のコードだけでも、組合せとはとても思えないバリエーションが確認できるでしょう。例えば、このペルソナと決まった曲目で、能が演じられます。そして、その鑑賞形態や鍛錬の披露が行なわれます。表現の余地はないかどうかと言うと、確かにあります。「遊びの現象学」を読んで。 の西村清和先生の論である、遊び=遊隙で括られます。
ミミクリ同様、ストーリーの類型論も、遊び=遊隙で括られます。
類型論を辿るストーリーをキャラクターが征き、キャラクターには類型論で語れる背景のストーリーが流れる。
キャラクターの構成要素はストーリーであるから、結果、キャラクターが類型論でカテゴライズできるかのように錯覚させられてしまいます。直截に言うと、僕のこの感想は、
「誰にでも創れる論」の限界がないように錯覚させる
手品の種明かしという指摘です。
手品の種を知っていたとしても手品師にはなれないでしょう。これは個人的な感想です。
こういった手品にコミットできる方は古今東西のキャラクターの類型をどうぞ蒐集してください。プロップやトンプソンもそんな壮大な作業はされていません。