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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]TRPGの上達

「メモリー」と「デザイン」

 ※この記事では「デザイン」を「ゲームをプレイする」という意味合いで用います。

 TRPGが唯一、ゲームを「デザイン」することができるとして、TRPGの独自性としている論考が見られますが、それは誤りです。
 その理由を説明します。

 僕は、へっぽこのチェス・プレイヤーでもありまして、チェス関係の本も読み漁っています。そのなかに、こんな本があります。


 チェスの技術は「メモリー」ではない。
 自分で「デザイン」する、チェスの考え方教えます。

 と、表紙には、あります。

 ゆえに、「メモリー」と「デザイン」を用いて、ゲームに遊ぶことは、はっきりと、他のゲーム(チェスほか)にも存在する考え方なのです。
 ナイトを何手で、あるマスに移動させられるか、これは完全に「メモリー」です。
 これを用いてチェスのプレイ中にまず再現はできません。相手の利きマスに入ると取られてしまうからです。そこで、変則的な有効な動きを考慮します。ここが、「デザイン」です。

 では、TRPG「に」遊ぶことにおいて、「メモリー」とは、端的に何かといえば、「遊びの現象学」にある通り、


 

 ごっこ遊びは型にはまった動作系列のワン・セット、図式化された行動パターンを、いわばこどもの共有財として固定している。キャラクターに動機付けられて典型化された一定のパターンを組み立てて遊ぶ。キャラクターのタイプを示してさえいれば、この遊びのルールとしては十分であって、それ以上の模倣や造形や表現は必要がない。

  の、部分であり、これら「メモリー」はGMの登場させるステレオ・タイプなNPCに如実にあらわれます。もちろん、PLのPCのロールプレイにも掛け合いのためには必須です。

 TRPGが「メモリー」を必要とする部分は、これら「動作系列のワン・セット、図式化された行動パターン」の部分で、TRPGシステムの取り扱う舞台世界のジャンル「に」遊ぶ振舞い方に相当します。

 ですから、TRPGを楽しむためには、小説・映画・漫画・アニメ・コンピューターゲームなどに多く触れておくことが役に立つと思います。

 実際、そのような「引き出し」つまり、「メモリー」が多い人とTRPGを楽しむと「楽しめた」のは、ここに拠りかかるところが大きいのです。
 その理由は単純で、「メモリー」を全く欠いての「デザイン(ここでいうゲームをプレイする)」は不可能だからだと思います。

 このとき、「メモリー」という「動作系列のワン・セット、図式化された行動パターン」という規定性の遊隙が生じるために、TRPGという解釈学論的な遊びが充分に反映される余地(遊隙)が、不可欠です。


ゲーム理論構成の導入

 ゲーム理論ブックガイド-和書

 TRPGにおいて、ゲーム理論の信奉者が、見失いやすいことは一つに、競合している他者との利益分配がゲーム理論的な意味で合理的であることを「美しい」=「Beautiful」=「Art」として、連想していることです。
 もともと、古代ギリシャ語のアルス(派生語アート)とテクノー(派生語テクニクス)は、ほぼ同じ意味合いで用いられ、「アート」「オブジェ」は「人工物」「ブツ」という意味合いです。

 日本語の「芸術=Art」は、もろにジャパニーズ・イングリッシュです。
 僕は、ビルマ人と歌舞伎町で働いていたことがあり、自分で稼いだお金で学生をしていると話したときに、「プリティー(カッコイイ)」「スマート(冴えている)」と言われました。ジャパニーズ・イングリッシュは、これだけ変なのです。

  意志決定(Decision Making)という規定性(これが、TRPG論考で言うゲーム性ではないでしょうか)をTRPGの遊隙に持ち込むことで、新たな遊隙が生じます。
 この組み込みはシステム、シナリオ、ロールプレイにも、行われます。

 この新たなゲーム理論上の規定性においては単純に適用してはならない。この遊隙が生じるためには、TRPGという解釈学論的な遊びが充分に反映される余地(遊隙)が、不可欠です。

 まず、TRPGは解釈学論的な遊びで、遊戯関係で営まれるコミュニケーションであり、美的観照とは異なる、存在論的了解内容に「TRPGに遊んで楽しむのだ」という自覚をもった、遊び手のみが、僥倖において参加できるものとして、「TRPG体験」を得ます。

 TRPG、は解釈学論的な遊びで遊戯関係に遊動する限り、ここで述べているゲーム性と、相即しあっているときに、アートと呼び得る。

 その目標とする造形が、楽しみ得た「TRPG体験」を目指すとして、僕があげるのは物語性です。


ゲーム性とは何か

 以前に書いた記事のRP/GのG=0では、RPGが成り立たない、とした、この中核が、ここで言うG=ゲーム性ではありません。
 僕の考えるところのGは「遊びを遊びたらしめる規定性と遊隙に、自らが存在論的了解内容としあったコミュニーションの遊動関係」ではないか、と分析します。


 つまり、もっと分かり易くくだけて書くと、時計細工職人の精密な力を発揮するハンマーで、大工で用いる釘は打てないでしょう。
 そのハンマーは、精密な力を発揮するのだと、時計職人が、存在論的了解内容をもっているといいます。

 これと同じように、遊び手が存在論的了解内容として、「TRPG(に)遊ぶこと」、「遊ぶこととは、遊びを遊びたらしめる規定性と遊隙に自分をおき、遊び手とTRPGとしてのコミュニケーション関係に位置づけること」をもっていること、これがRP/GのGです。

 このGが成り立たなければRPGは絶対に成り立ちえません。

 そして、シーソーのように遊動関係であるからこそ、遊び手にはバランスをとることは、決して忘れてはなりません。性別や趣味、年齢、職業(クリエイター系だったり、人権運動家だったり)など、配慮が大切です。

 万人が合理性を感じるからといって、ゲーム理論を盾に、メンツ集めに奔走しても、TRPGは、解釈学論的な遊びであるからこそ、コミュニケーションが成り立たず、つまらない諍いを起こして終わることが多いのです。チェスとは大きく違うのはこの点です。

 TRPGの勝利条件が、もし、TRPGで楽しいひと時を過ごすというものなら、メンツ集めのとき慎重に配慮することが最上の上達の近道です。

 解釈学については、ハイデガーの立場を僕はとっています。

 解釈学
 解釈学的循環

 mixiで「存在と時間」の読書会を開いています。

 

ハイデガーは『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学(数学もゲーム理論も含みます)の解体を行いました。
 形而上学はものの上から、ものそのものでなく相対化したり抽象化して見直してみよう、という学問ですが、これの解体です。

 数学は数字の法則や使い方を学びますが、メタ数学もあります。数学的に言うと「数学は数学の正しさを証明できるか?」と問います。ゲーデルの「不完全性定理」では「数学は数学の正しさを証明できない」としました。
 ノイマンは「不完全性定理」の第一の理解者です。ノイマンはゲーム理論の創始者ですが、Wikiにあるとおり、ゲーム理論史上最大の功績とされるナッシュの均衡論に、「くだらない、不動点定理の応用ではないか」と貶めたとあります。



こちらの本の著者の新田先生は母校での恩師です。




解釈学的遊びとして

 解釈学論的なアプローチを実践するには、「関係」「変化」「解釈」の三部構成を用いて、アウトプットとして、PLがPCを考慮したあり方で、ロールプレイ、つまり、逆に「解釈」「変化」「関係」の流れを滑り込ませます。これが、「意志決定」ではなく、解釈学論的なアプローチです。

 もし、ゲーム理論上の合理的選択の結果を伝えるだけであれば、ロールプレイという手法自体を必要としません。シミュレーションゲームやチェスのように、ユニットや駒を動かせば良いだけです。
 PCがキャラクターという駒である以上、キャラクターらしさを取ろうとしたとしたら、それはすでに、「意志決定」ではなく、解釈学論的なアプローチです。これは、駒を動かすテクノー的なデザインではなく、アルス的なデザインです。RPG上で必要な分だけキャラクターを造形するデザインと言い換えられます。

 ある「関係」を如何に着目するか、どのように「変化」したかを着目したか、どのような「解釈」を導き出すのか、これらはPL固有のインスピレーションによるもので、PLの個性であり、アウトプットにいたっては、PCはPLの固有のもので、模倣はできないものと言えます。

 PCを模倣したNPCは、PLから手放された「PCごっこ」で、公式なPCではありません。遊びを大切にしないイロニーの人のPCと、ほぼ大差がありません。

 「葬式ごっこ」という「いじめ」がありました。ごっこ遊びに、悪意が仕掛けたものです。
 そのごっこ上の子供は、自殺に追い込まれました。遊びの名を借りた、「いじめ」です。
 RPGが、悪意を用いて成立可能であるのも、この事件によっても社会学的にありうる事象であると言えるのではないでしょうか。

 ですから、PCのNPCとしての利用には、注意が必要です。PLに了解を得ることが一応、必要です。TRPGがその場限りとは限らないからです。

 なにせ、「遊び=(社会的ルール上の)善」ではないのです。
 遊びの善というのは、遊びに対する真面目な態度であり、イロニーの正反対の立場です。誰とも真面目に遊ぶことが遊びの善です。繰り返しますが、ルールがない遊びは存在しない、遊びはそれ自体の「遊びのルール」によって成り立つからです。その遊びの善は遊びの面白さを尺度とします。

 「社会的ルール」よりも「遊びのルール」のカテゴリは小さいはずです。それが逆転する現象は、遊びの危険、誘惑、堕落、現実逃避、狂気と呼べるでしょう。

 察するに、多くの論者が遭遇した面白くないTRPGは、結局、この逸脱を指していただけではないでしょうか。


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[TRPG]「遊びの現象学」を読んで。


 この西村清和先生は、美学者として哲学を用いて、近代美術論の根底にある「芸術=遊び」や「仮象論」などに明晰に切り込んでいく。
 読了しました。内容の使えるところをまとめると、以下のようなものです。

 

 「芸術=遊び」を美学者の立場から否定する。

 「遊び」とは「遊隙」である。歯車の「遊び」と同様、あるかぎられた範囲内での運動の自由、算定不能な多義性をもった「遊動」の空間とする。ある状況「に・遊ぶ」のであって、独特の存在様態指示する自動詞・状態動詞で用いる。

 「芸術」の熟練と「遊び」の僥倖には大きな差がある。
 美的体験と言うのは仮象論が陥穽するように、二重性といった分裂もない独立したわれわれのあり方であり、コミュニケーションである。

 遊びもまた訓練とか能力開発の土台づくりではなく、遊びの規定性(ルール)のうちでとり行われるわれわれのあり方であり、コミュニケーションである。

 ごっこ遊びは型にはまった動作系列のワン・セット、図式化された行動パターンを、いわばこどもの共有財として固定している。キャラクターに動機付けられて典型化された一定のパターンを組み立てて遊ぶ。キャラクターのタイプを示してさえいれば、この遊びのルールとしては十分であって、それ以上の模倣や造形や表現は必要がない。

 演劇において俳優の表現と造形行為が、ヒステリー的な同一化でも、精神分裂でもなく、「芸術的意志による演技」であるというメタ・コミュニケーションに支えられている。

 演技がペルソナの変形の駆使であるような「世界劇場(サルトル)」においては、真の素顔に戻れるのはトイレや寝室だけということになる。排泄行為や性行為のみを人間の本性とする考え方は滑稽ではないか。

 



 TRPGにおける役割演技(=ロールプレイ)は上手下手はあるにしろ、交渉での「話術」「挑発」「はったり」「言いくるめ」などの成否判定における項の選定に不可避なのであって、言い換えると、それはPCの性格描写も含むことになります。

 その連鎖を処理したプロセスを物語と位置づけるならば、物語の造形のためには役割演技(=ロールプレイ)は不可欠な要素です。 ここで、TRPGの物語の造形性とは、僕はTRPG「に遊ぶ」ことで目標とすることではないかと考えます。
 遊びが終わるのは倦怠からです。TRPGがなぜ、プロセスの連鎖において「物語」を目指すのかと言えば、この「倦怠」が物語の完成を見る「物語完結」によるカタルシスに取って代わるためではないでしょうか。

 また、通常、われわれはゲーム理論の陥穽に陥ることなく、非合理的な行動をとります。

 経済学でも、ゲーム理論の適用できる場面は一部分に限定されます。
 私たちがある八百屋さんでレタスを買ったりするのは、スーパーで買うほうが高いからではなく、お付き合いで買うことで情感を交歓するためであって、合理的経済活動ではないのです。また、ある会社の株を値下がりしても吐き出さないのはお付き合い上株を保持していかなければならないだけです。

 まず、遊びが必ず勝負で、実力の伯仲した名誉ある闘争とは断言できないでしょう。
 実力は同程度の相手と楽しむのが遊びとして拮抗、遊動関係を切り結ぶのと同じく、遊びを遊ぶには笑顔があり、まじめに遊ぶことが遊びを成り立たせます。
 シーソーあそびと原理は同じです。

 ゆえにルールがあれば必ずしも、闘争・競争さらには上達と言う理屈は成り立たない。例を挙げれば、「いない・いない・ばあ」の競争・闘争・上達はないでしょう。それでも、「いない・いない・ばあ」は、消え去るような遊びでしょうか。

 遊び全般(ルールのない遊びは存在しない)においても、「意志決定論的なゲーム」「ゲーム理論が楽しみを授け得るゲーム」と言うよりは、「解釈学論的な遊び」なのです。
 「ゲーム理論が楽しみを授け得るゲーム」は「企て」において有効なだけです。

 TRPGも同じ事で、基本的に勝敗のない遊びにおいて言えることは、解釈学論的な遊びの典型であるとしか言いようがありません。厳密な意味で解釈学論的な遊びとして、TRPGは、お芸術の仲間入りを果たします。

 そして、美的観照が独立した一個のわれわれの行動様態でとるコミュニケーションであるのと同じく、TRPGの遊戯精神はTRPGが扱う題材が何であれ、GMとPLらによる遊戯関係を築いた中でのコミュニケーションに他ならず、扱っているのは物語にせよ、そこに病的な二重性はないし、疑似体験や感情移入といった要素があるわけでもない。
 非現実的な事柄を遊ぶとしても、それは話題の中に収められ、きわめて現実的な遊びの関係に遊んでいるのですから。

 TRPGはこの意味で、人と人同士のコミュニケーションの一形態である遊戯関係(独立した一個のわれわれの行動様態でとるもの)に過ぎないと思います。

 いくら目先に選択肢があったとしても、TRPGは解釈学論的に遊ぶゲームとすれば、「面白いからリスクを負う」ことも明らかになります。
 それを幼稚であると非難できるでしょうか。

 ここで必要な規準は「物語デザイン」の観点です。果たして、この横道に入ることで、時間通りに「物語完結」を見れるのか、という感覚が求められます。その感覚がだらしないと、遊びに不真面目であるということになります。

 遊びに最も不真面目と言うのは、イロニーの人であり、誰とも遊ばない・遊べない人です。遊び相手は誰もいません。遊びに加わりながら冷笑的に遊戯関係をぶちこわしにする人です。実はその中には薄っぺらい虚栄心しかないのです。遊びにおける悪そのものです。遊びは、それとは反対に楽しくするためのまじめさが必要なのではないかと思います。

 それからTRPGのゲーム性のお話なのですが、この遊びの場合、TRPGの進行において解釈の余地(遊隙)があるか、そしてその反映の余地(遊隙)があるか」がTRPGのゲーム性になると僕は思います。

 さらには、この遊隙こそが、従来のゲーム性や自由度の論点として集約されているのではないかとも思います。
 ゲーム性や自由度は遊隙の中の規定性(遊びのルール)によります。固く規定することで遊隙を作ることも可能なことで、これがいわゆるゲーム性と呼ばれる部分のお話で、固い規定性を持たないことで遊隙を広くとり、最大限に広さを利用して遊ぶのも可能なことで、こちらが自由度のお話ではないのかと思います。

 ゲーム性が高いとか自由度が高いというのは、どちらが優れていて偉いと言うわけでもないでしょう。遊び手がそのルールや運用において楽しさや面白さを手に入れられるかが、問われるべき価値のある特質ですから。

エピメニデス(又はラッセル)のパラドクス

 

 例えば、みずみずしいリンゴの絵、犬などの動物のじゃれ付き遊びの解釈は、あの有名な論理的パラドックス、エピメニデス(又はラッセル)のパラドクスだと言う。


ここに書かれているのは嘘です。


  この有名なパラドクスを拡張すると、



この枠内の事物、行為はすべて非事実(うそ、仮象、遊び、ファンタジーetc..)である。



これはリンゴである。


これはかむ行為である。



 これらもパラドクスになります。  このアポリアの陥穽において、古来からの芸術、遊びが、不当な二重性を持って論じられてきたと言う。トリック・アートの絵では「驚き」だけれども、芸術の感動ではない。

 絵画の瑞々しいリンゴは「非事実」ではなく、「絵に描かれたリンゴ」で、動物がじゃれて「かむ」のは、偽りのない遊びのあまがみの「かむ」です。

 TRPGはTRPG「(を用いて、その状況)に・遊ぶ」という独立したわれわれの存在様態でしょう。

 疑似体験を求める冒険家が求めるものではない。戦場訓練を求める生き残りをかける兵士の訓練でもない。舞台度胸や造形力を求める駆け出しの俳優が出てくる稽古でもない。
 TRPGの存在様態は、あくまで「遊び」であって、笑顔を信じて遊戯関係を切り結んだ関係に遊ぶものです。

ゲーム・遊び・ルール

 「遊び(ルールをもたないものは存在しない)」と「ゲーム」の違いは、インド=ヨーロッパ諸語において、「Play(英語)」で顕著なように、「遊ぶ・演技する・演奏する・競技に挑戦する」と一致していて、わざわざ、「Play the game」「Play the piano」となります。
 野球でも、ゲーム開始に「プレイ・ボール」と合図をします。

 古高独語の「Spilan」は、一説にには「かろやかで、あてどなく揺れ動く運動、それ自体内部で、行きつ戻りつする運動」、中世オランダ語では、液体がぐつぐつ煮立つさまを「spelen」、アングロ・サクソン語の「plega,plegan」を(「play」が語源とする)、「すばやく器用で、しかも規律正しく動く指の運動」にあるという。 「遊」「玩」「弄」「戯」も印欧語と同じく漢語の原義を見れば、日本語の「あそび」「たはむれ」「もてあそび」と対応すると考えてよいと言う。(例えば、歯車の遊び「遊隙」)

 

 

 「TRPG(を)する」というが、「仕事(を)する」と同じ表現で、「TRPG(を)遊ぶ」とは言わず、「TRPG(をして)遊ぶ」または「TRPG(で)遊ぶ」と言う。必ずわれわれは、「TRPG(を)する」という一行動の、そのような状況「(に)遊ぶ」のです。

 遊戯関係と呼ぶものは、ものとわたしの間で、いずれが主体とも客体とも分かちがたく、つかずはなれずゆきつもどりつすする遊動のパトス的関係です。

 真剣か真剣でないかという、遊び手の主観の心理状態表示に過ぎず、たびたび、こどもは一生懸命、真剣に遊び、しばしば大人は、不真面目に仕事をする。もしも、不真面目にしか遊ばない子供がいれば、みんなの遊びは台無しになってしまいます。

 さらに「いない・いない・ばあ」におけるゲームの骨格をみると、「ルール」と呼びうる一連の決まった経過がある。プレーとゲーム、カイヨワのいうパイディアとルドゥスの区別において、異議申し立てが出来ます。
 


 上図のような関係が西村清和氏の「ゲーム・遊び・ルール」の関係だと思います。

 ルールには「法学的慣習的な社会ルール」も入ります。

 ゲームには、後期ヴィトゲンシュタインの提唱するような「言語ゲーム」なども入ります。

 *をつけた部分以外のゲームには、プロ・プレイヤーによるスポーツなどが入ります。棋士として生きていくことの「企て」、テニス・プレイヤーとして生きていくことの「企て」、プロのウェイターとして感じの良い振る舞いをして印象付けを「企て」るなどのものです。

 なぜ、ここに「企て」が入るのかと言えば、カイヨワのいうように「アレア」を神との関係において、遇運にまかせて賭けているのではないか、という一面が人生の「企て」にはあるからです。

 遊びには、チェスや囲碁、将棋、遊びのスポーツ、そして無論、TRPGセッションなどが入ります。前も記述したように、実力の拮抗したシーソー・ゲームと同様、遊びのテニスの相手はプロ・テニス・プレイヤーではなく、実力の同じ相手で拮抗しているような、遊動関係であることが条件です。

 さらに、社会生活において、ハイデガーのいう道具的存在として有意義な適所に、われわれがいなければ、また、歯車の「遊隙」が全くなかったり、ありすぎたりすれば、その「遊びの僥倖」を大切にしないし、価値も認めないし、遊び相手も大切にしない。

 
遊びが適所を得て有意義なものであるためのは、遊び手自身が遊びうる資質が必要だと言えるかもしれません。


[SYS]CEPから判定誤差を十進法で得る理由。


 CEP(半数必中界)から精度係数を求め、積分していくと、横のグラフ図のようになります。
 
 なぜ、このような精密な数値を具体的に得たいのかと言えば、「TORG」によって、巨大な数を自在に扱えたことに衝撃を受けたためです。
 あの発想の逆、つまり小さな数値の変動を扱うことができれば、おのずから巨大な値を扱うことが出来ます。
 「TORG」では、常人離れしたヒーローが、フィクションの中でどこらあたりで、はみ出ないかを扱うコンセプトなのに対し、拳銃劇やロボット、飛行機物などは必然的にリアリティを求められます。
 なぜなら、それらのギミックはフィクション性が薄く、扱いとしては、ノンフィクションがどこまで非現実的な、はみ出しをするのかというアプローチに似て、「ブツ」の差を表現しなければならないからです。

 この思想を、拳銃劇である西部劇TRPGは、デザインの根幹に持っています。
 単に複雑さを狙っているわけでもなく、簡略さの利点を上回る利点を見出しているためなのです。

 「TORG」では、巨大な無限の可能性が、発生して、あまりにも現実から遊離する現象が起きました。これでは細部を描きようがない。細部を描くためには、空想や妄想ではなく、細部を描き出せるエンジンがどうしても不可欠だと結論しました。

 この積分の近似値は、誤差対象が10倍のときは10倍にそのまますればよく、モンテカルロ法では100倍に試行回数を増やさなくてはならない点を考えても、最も合理的でシンプルです。


[TRPG]TRPGの宿命。

 カイヨワの「遊びと人間」より。抜粋。
 


 

 

 

アゴン
(競争)

アレア
(運)

ミミクリ
(模倣)

イリンクス
(眩暈)

パイディア
(遊戯)
騒ぎ
はしゃぎ
馬鹿笑い

凧揚げ
穴送りゲーム
トランプの
 一人占い
クロスワード
ルドゥス
(競技)

競争
取っ組み合いなど
↑規則なし

運動競技

ボクシング
玉突き
フェンシング
チェッカー
サッカー
チェス
スポーツ競技全般

鬼を決める
 じゃんけん
裏か表か遊び
賭け
ルーレット

単式富くじ
複式富くじ
繰越式富くじ

子供の物真似
空想の遊び
人形、おもちゃ
 の武具
仮面
仮装服

演劇
見世物全般

子供の
「ぐるぐるまい」
メリ・ゴーランド
ぶらんこ
ワルツ

ヴォラドレス
縁日の
 乗り物機械
スキー
登山
空中サーカス


 われわれの求めるTRPGはルドゥスのあるミミクリとアゴンであって、アレアやイリンクスは求めない。ミミクリのルドゥスこそが「ストーリー性」「ロールプレイ(役割分担ではなく役割演技)」である。
 なお、ミミクリはイリンクスと結びつきやすいのは、アゴンがアレアと結びつきやすいのと同様である。これは遊び全体に言えて、TRPGの特有の傾向ではない。






 

社会機構の
外縁にある
文化形式

社会生活に
組み込まれている
制度的形態

堕落

堕落の内訳

アゴン
(競争)
規則のある
競争において、
自分の能力だけに
よって勝利を
得ようという野心

スポーツ

企業間の競争
試験、コンクール

暴力、
権力意志、
術策

 成功だけを目的とするようになる。
 公正な競争の規則は蔑視される。
 規則は窮屈で偽善的な約束事に過ぎぬとみなされる。
 卑劣な攻撃も、勝てば正当化される。

アレア
(運)
運命の判決を
不安と受身の姿勢で
待つために、
意志を
捨て去ること

富くじ
競馬場
施設賭博

株式投機

迷信、
占星術など

遊戯者が偶然を尊重しなくなる。
不可知の力と前兆の不思議に人生の運営をゆだね、虚構の照応体系を機械的に適用しようとする誘惑は、人間の本質的な特権をできるだけ活用しようとする勇気を人間から奪い去り、人を宿命論に追いやる。
現象間の関係を鋭く見抜く力を奪ってしまう。逆境に耐え、成功を勝ち取る気力をくじく。

ミミクリ
(模擬)
他人の人格を
装う好み

カーニヴァル
演劇
映画
スター崇拝

制服、礼儀作法
儀式、
表現に携わる職業

狂気[疎外]
二重人格

模擬が模擬でなくなると、自分を他者であると信じ、それに従って行動し、本当の自分を忘れる。表面だけでなく奥深いところで自分が自分でなくなる。
この自己喪失は、明確な限界が疎外を防ぐが、夢と現実の識別がはっきり付かなくなったとき、すなわち、その人物が空想的で侵略的な
第二の性格を、(自覚的にも)身に付けて来ると[疎外]が発生する。
その第二の性格は当然現実と両立しないが、現実に対して途方もない権利を要求する。やがて疎外者[狂人]、他者となっているものが、現実と言う頑固な舞台装置、承認し得ない、不可解な、挑戦的なこの装置を否定し、屈服させ、破壊しようと絶望的にあがくことになる。

イリンクス
(眩暈)
眩暈の追求

登山、スキー
空中サーカス
スピードの陶酔

眩暈の統御を
見せる職業

アルコール中毒、
麻薬

望ましい興奮や官能的パニックを、人は薬品[麻薬]かアルコールに求めることになる。
遊び、すなわち、常に偶発的で自由な活動とは正反対のところに追いやり、酔いと中毒とにより、眩暈は現実への進入を強め、その度合いは、慣れ[中毒]が生じるにつれて一層広がり、有害になる。
この慣れのため、そこを越すと目当ての惑乱を味わいうる[刺激―反応の]閾が絶えず押し上げられていく。


 ミミクリによる堕落やパイディア傾斜の回避に、奇妙な(鏡氏の)自由論、つまりミミクリのパイディアを目論みアゴンへのルドゥス否定で結局アゴンのパイディア傾斜(又は堕落)に走る論や、ゲーム理論を盾にした(馬場氏の)大層なアゴンへの傾斜による(イリンクスに関与しやすい)ミミクリのルドゥス否定論は具体例とさせていただくが、TRPG論考サイトで認められると思う。

 創造的、生産的な組み合わせは競争と模擬、アゴンとミミクリである。カイヨワ氏はこの組み合わせは滅多にないとしながら、この二つにこそ生産的創造的要素が認められるとしている。TRPGはゆえに、生産的で創造的な遊びであることを宿命付けられている。

 堕落が起きなければいいだけのことを、百家争鳴の喧々諤々の議論になるのはおかしなことで、創造的、生産的なことをもっと語るべきだと思う。

 また、「補論: 二 教育学から数学まで 2 数学的分析」には、ゲーム理論についての遊びへの適用の全く正当な反論が述べられており、僕もカイヨワ氏と意見を一致する。数学者がカードゲーム程度の確率を求めたり、意志決定論を述べたとしても、人間は遊びに合理的選択を強制されては楽しめない。

 「補論: 三 遊びと聖なるもの」には、肝に銘じたい箇所がある。
 「ごまかしをやるものよりも悪いものがいることも、忘れてはならない。それは、規則を馬鹿にしたり、規則には根拠がないと言ったりして、遊びを拒み、あるいは蔑む者である。(中略)こういった「祭に水をさす人」(aguafiestas)すなわちうわべだけの懐疑論者や、疑い深い人ほど、文化にとってぶちこわしなものはないのだ。彼らは、何事につけても薄笑いをうかべ、そのことで、自分を偉いものに見せられると無邪気に思いこんでいる。自分たちで、もっと愉快でもっと大事な新しい遊びの規則を作ろうという心づもりで偶像を破壊し、?聖を行っているなら話は別だが、そうでないかぎり、彼らは、無限の苦労が蓄積してきた貴重な宝を、徒し心から傷つけているにすぎないのだ。」
 とある。自戒としたい。


[TRPG]関係、変化、解釈。

 懐かしの幼稚園当時、僕は「ハカセくん」キャラで、図鑑が大好きでした。
 幼稚園の先生は、ある程度の漢字が読める僕を可愛がったそうです。泣き虫で、分らないことは分らないことと、済ませることができず、わからないことが悲しみでした。

 遠足の幼稚園のアルバムには、「どうして遅いのか」と泣きじゃくっていて、手をつないでいる女の子が困った顔をしている恥ずかしい写真があります。

 その先生から、教えられたことがあります。

 かいつまむとこうです。
 「何にでも関係があって、変化があって、解釈がある」
 もっと単純に、つながりがあって、変わるから、そこではじめて考えるんだよ、と。今では恥ずかしいながらも温かな思い出です。

 何でも知りたがり君のために保母さんは、このように教えるものだと、新聞に載っていました。

 これは、どんな学問にも、どんな理論にも、根底に流れています。

 TRPGの基礎も同じ、です。
 「関係」「変化」「解釈」です。それを繰り返してセッションは運営されます。
 そして、その発展も、同じ原理が働きます。

 そこから、TRPGの特徴的な要素や特徴的な理論が構築されるということで、的外れにはならないと僕は思います。
 突拍子の憂いや、疑わしい権威らしきものからの出発などしなくてもいいのではないでしょうか。
 われわれは、ハイデガーや仏教の教えどおり、因果律で事物を捉えます。そう宿命付けられた「ハコ」なのです。

[TRPG]僕のゲーム理論のTRPGへの適用。

 ガンプレイで、トルネード吉田先生が、両手バタフライ(両手てふてふ)と言う技を披露されるのですが、拳銃を両手で、上方向にも下方向にも、横回し(普通の回し方は垂直回しだとしたら、水平回しです)をすることが出来ます。
 

 お話を伺ったところ、何が難しいかと言えば、それら手元を見ずに、「いつもより多めに回っています~」と首を観客に向け、観客の顔を見ること、拍手を得ることだそうです。
 

 ガンプレイの上達であればそんなことはどうでもいいことなのですが、ショーとしては「必ず」やらなければならない。
 

 これはTRPGでも同じことが言えます。
 いくら、データ上の強さや、特色や、意志決定や、役割演技などを巧く行えたとしても、皆を楽しますことができるかが、重要なのです。
 名チェスプレイヤーの指南はあと一歩のところになるように手を落として貴族たちにチェスを楽しませました。賞金がかかっても勝負以前に娯楽でしかない。
 

 まず、第一にそこの誤解が解けないと、ゲーム理論の単純なお話さえ理解不能になってしまいます。
 

 ゲーム理論で、利得表の前書きに何の内容であるかが示されます。お金だったり、人の命だったり、ピザの切れ端だったり、布切れだったりします。もし、貴方がその立場であれば、という想定があります。
 

 TRPGの場合、「その立場であったら」、その時点で架空の人間の役割演技であり、なおかつ娯楽であることが前提になります。
 

 ゲーム理論から何百歩か遠ざかっているという指摘は間違いでしょうか。
 

 ゆえに、ゲーム理論を楯にTRPGの上達云々は間違いであり、役割演技、芝居、感情移入の駆逐は、ゲーム理論を援用するうえでさえ、全くの誤謬になるのです。


 

 

[TRPG]アディオス、馬場理論よ。

 馬場理論の持ち出すゲーム理論の誤謬は、功利主義から来ている。
 ヴィトゲンシュタインは、倫理を論理学で分析する方法を「論理哲学論考」で行った。彼の師のラッセルが、その後函数に閾値や属性を与えるタイプ理論を発表、それに批判的な弟子は師の功利主義に対抗して「論理哲学探究(探求)」を発表。

 ラッセルの影響下、ノイマンが「ゲーム理論」を創始。

 ところが、ヴィトゲンシュタインの影響下、フィリッパ・フットが掲げる単純な倫理学パラドクスの「トロリー(トロッコ)問題」にさえ、回答が出すことができないことが判明する。
 結局、「幸せ」「楽しさ」「不満」「不幸」「痛み」「喜び」「美しさ」が計量できると考えた変な人の妄想です。

 人間が飼うケダモノ「家畜」を「人間」自身に適用する考え方です。わが子を殺された命の代償として、カネで解決する方便にすぎません。

 ゲーム理論の函数に数値しか入らないで勉強した方は、これを単にゲーム理論上のジレンマと考える傾向があるが、盲目的な功利主義から抜け出せていないから、説得力を持たない。まず、前提に功利主義があり、数理主義、合理主義、客観主義がある。それがさも「合理的で真」と錯覚する。

 (哲学方面からの函数の入り方を経験していれば、ゲーム理論でまず、そんな単純な錯覚を起こさない。経済学から齧ると、話が通じないのはこのためかと推測……。)

 TRPGは、この手のパラドクス(注意。利害衝突だけを扱うゲーム理論用語である「ジレンマ」や「意志決定」とは呼ばない)を倫理的な問題でも、また別の様々な方面(笑いや恐怖など)からも多く扱える。
 それはTRPGが展開の連鎖で「ストーリー」性を保っているからこそ、可能にしている。

 そして、きちんとした責任放棄が「架空の人物を演技する(ロールプレイ)」ことで認められるゆえに、娯楽であることを可能にする。

 そのため、TRPGではPLがロールプレイを行うに当たって「我々の」ストーリー性を意識しなければ、楽しめないのは当たり前ではないかと思う。

 こう結論付けて、さっさと不愉快な馬場理論への反証を終えます。



 この本はゲーム理論の基本的な考え方がクイズ形式で易しく解説されています。ゲーム理論の実像を知ることができ、誰でも理解できるかと思います。


 この本はゲーム理論の「ジレンマ」が実はチキン(レース)・ゲームに置き換えられることを説明しています。生物界の進化の歴史の秘密が、ゲーム理論で説明できることを示し、社会心理学への適用も扱っています。特徴的なのは利得表に数値を用いないことで、文系の読解力で充分に理解しやすく書かれている点が優れています。



 

 

 ノーベル賞をとったJ・ナッシュについて。ナッシュ均衡は、この分野で最大の発見でした。


アディオス、戦友。

ゲーム理論のTRPGへの適用の限界

 ゲーム理論の経済数理的展開は、ほとんどが「ジレンマ」「混合戦略」などの別称さえあるにせよ、最大利得解においては、チキン(レース)・ゲームを対象としている。シグナリング、脅迫他の手段手法において、ゲーム理論は、目覚しい功績のナッシュ均衡でさえ致命的なことに「損害」の概念から抜け出せていない。ラッセルのタイプ理論が出発点と目され、ラッセル自身の弟子であるヴィトゲンシュタイン論理実証主義側から激烈に批判されているのに、ノイマンの固執によってなお踏みとどまったままである。第二次世界大戦の傷跡が修復されていないためか、サルトルハイデガーでさえにじり寄った現象学さえにも歩み寄ろうとしていない。

 TRPGは、協力型ゲームとは言い切れず(フリーライダーが干される構造は注目に値する)、コミュニケーションによるある種の協奏型非零和のゲームであり、そこには、脅迫ではなく、賞賛という形式が適用される未開拓なゲーム形式である。

 最大利得と最小利得、均衡、支配戦略、均衡解などに当てはまらず、ほぼ報酬系のない点、合理的であることを強要できない点から、前提からして、経済数理的展開のゲーム理論の次元においては無理で、哲学的展開が必要である。この方面においてゲーム理論は立ち遅れており、残念ながら、経済数理的モデルで発達めまぐるしいセオリーの適用が不可能であることをまず、明記しておく。

 また、ゲーム理論で展開されるモデルは現在のところ端的に自然界のモデルを理解し、進化の過程を説明できる、いわば「ケダモノの論理」にすぎず、サイモンの提唱した「人工物の科学」として不適切な全く正反対の結論を導き出すため、有害で幼稚な段階にあることを自覚して用いなくてはならない。その証拠にスポーツ科学にゲーム理論は全く取り入れられていないか、役に立っていない。TRPGがゲームだからと言って安直に分析にゲーム理論を用いてはならない。

 この「ケダモノの論理」は、主体的な人間とその感性の介入の余地を入れないものであり、心理学が個としての人間の心理を洞察することができないのと同様であり、これを援用しない原始的な基礎理論が必要である。

 TRPGユーザーは「ゲーム理論」の迷妄の信仰をやめるべきである。

 この信仰を広めた無知な人間の罪は重い。

 TRPGにだけ、シグナリング、脅迫他の手段手法や問題解決の創作が対応しているのだとするのは愚の骨頂であり、ジレンマの戦略的選択に関してもTRPGは、GMとPLの利害の衝突でもなく、もちろん、PLとPLの衝突でもないため、TRPGとゲーム理論の曲解は冒涜と断言できる。

 付言するなら、そんな暗鬱たる同調者がTRPG仲間を失って行きSSRIを飲んでも効かず、苦しみながら、ゲームを開く日の早朝に亡くなった。われわれは希望を求めたのであり、絶望とペシミズムを求めるのではない。 ゲーム理論は楽しいゲームを作る理論ではない。TRPGはゲーム理論で成り立つ構造は見かけ上の一部分にしかなく、重宝しても気を利かせた機転にさえ劣る。

 パスカルは「幾何学の精神と繊細の精神」が大切だと言っている。TRPGは知的挑戦ばかりではなく、心理学が対象にしないいわゆる「こころ」、智・情・意の挑戦である。その能力に障害を持った病的な精神には負担が大きい。