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T&Tでの運用テストで実験的に導入された、ハンドアウト拡大解釈新ツールです。
真ん中には正方形型のPOST ITを貼り付け、表面、裏面にはGM、PLからハンドアウトを頂きます。
シーンによる区切りで交換し合います。
四隅には要望の強さに応じて、カラークリップをはめます。はめる必要がなければ、はめなくても良い。
要望に応えてプレイが盛り上がったならば、ヒーローポイントとして、ポイントを受け取ります。ポーカーチップ、キャラクタシートのゲージに、クリップ、でもいいでしょう。
運用には、「成功を失敗にした」ことで、頂いてもかまいません。
ヒーローポイントの使い道は、セービングロールの成功、相手のセービングロールの失敗、他にも、使用行使して構いません。
P.S.
現実の人間にレッテルを貼ることはバカらしいことです。TRPGというゲーム中に、役柄に対する目標や注文は、そういう世界だから出来るのです。アンチテーゼですね。
評論家さんは、こんなのはあり得ないとのことですが、実際に使ったら面白いと好評です。
デザインの意図が読めない評論家の程度も知れますね。
以前書いた考えは変わらない。TRPGは絶対に自由のバイブルではない。コミュニケーションのツールの一つでしかない。
ストーリー統一の機能
ごっこ遊びにおいては役割に対する明確な位置付けが存在せず、それが行われる理由も、またその終結も明らかではない。
RPGがストーリーの流れをある意味で統一する基準であるという、その機能があるために我々はそれを用いるのである。
これはRPGが現実に適応した複数の人間同士のコミュニケーションであることに由来する。
コミュニケーションに共通の話題の知識、共通のものへの関心、共通する感性が必要なのと同じである。
共通の言語であると考える必要はない。
言語はコミュニケーションに限って用いられるだけのものではないからである。
赤子に対する母親が抱くような、一つの一人の自由を生み出す感覚と、TRPGを一緒くたにしてはいけない。
TRPGをより良く楽しむのは、コミュニケーションの素晴らしい例を考えるべきだ。それは哲学者のエーリッヒ・フロムのいう「愛」である。「愛されるためのこと」にではなく、「愛すること」に価値があるという考えだ。
彼によれば、「愛」とは、配慮・尊敬・責任・知である。相手に配慮すること、相手を死ぬときまで成長する尊いものであること、求められたならば応じること、そして相手の状態を良く知っておくこと、だという。
男女の愛でも、親子の愛でも、友愛でも、「愛すること」は素晴らしい。己に愛される資格を問うのではなく、己が愛する資格があるのかを問う。
コミュニケーションの素晴らしい例が、愛するということならば、TRPGのうまさは、単純に、楽しまされることより、楽しむことより、楽しませることにある。そのために、同じように、配慮・尊敬・責任・知を持ち出してもいいのではないか。
日本語の西部劇の概念と「WESTERN」の概念の違いは以下の本とのご比較願いたい。
米国、カナダ・極北を網羅。
アリュートを強制移住させた日本の仕打ちもきちんと記されている。
大丁さんの大丁の小噺から知ったのですが。
http://d.hatena.ne.jp/taitei/20080625/1214401336
卓上RPGを考える
http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/06/post-145.html
から、TRPGと現代ファンタジーを愛する男のブログ
http://blog.livedoor.jp/gensoyugi/archives/51428100.html
卓上RPGを考える
http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/06/post-146.html
この議論において、言葉の齟齬が大きくてお話になっていないと思いました。
あまりにも、鏡さんの言う「ミステリー」との語彙の齟齬が大きいので、「ミステリーの社会学」より、ミステリー作家によるミステリー作品の成立を並べてみます。
探偵クラブ「誓言」 |
ヴァン・ダイン「探偵小説作法二十則 |
ノックス「探偵小説十戒」 |
チャンドラー「九つの命題」 |
ハル「探偵小説とその十則」 |
このように、ミステリーには作法にスポーツのようなルールがあります。
鏡さんの言う「自由は」、サッカーで、「自由」にバットを使ってくださいとの暴論に近い。
ミステリーのような謎解きの解明という競技的なシナリオでは、「自由」は、得点を取る、負けない、勝つ、そういった競技上の「自由」であって、参加するかしないかにも「自由」を与えている点が、大きく齟齬を生んでいる。
>以下引用
まず、「制約の無い自由なんてそもそもありえない」との見解については、過去にも触れた通り、私も同じ意見です。ただし私は、ルールシステムや世界設定に基づく「制限(制約)」と、シナリオ作成者やゲームマスターの「期待/願望」に基づく「管理」とを、明確に分けて考えています。プレイヤーの発想や決断が「制限」されても「管理」はされない状態が、私の言う「自由」です。この点をご理解の上で「無茶で非現実的なもの」か否かをご判断ください。
>引用ここまで。
つまり際限のなき「自由」のことではない。「制約」「制限」「管理」と雑多に独自の語彙を振り回していて、混乱させる原因になっていると思う。
ゲーム性が必要だとか、ストーリー性が必要だとか、議論しているあいだにTRPGを遊ぶ人が少なくなった。
亡くなった友人の教えてくれた、馬場秀和さんの論文は、ゲーム性を、ゲームの理論で説明ができるようになっていること、ストーリー性は問題解決以外いらないという切り口だった。
展開がストーリー性だと言うのは、僕の主張。
わざわざ、トレーディングカードゲームに「なんたらかんたらドラゴン」などと書いてあって、これが止めを刺した、とか。ゲーム性だけを追及するなら、データを書いたカードでおしまいで済む。立派なチェス盤も将棋盤も要らず、駒にどう動けるのか書いた紙で充分。これを単に演出と言うなら、その演出と言う用語は、ゲーム性よりもストーリー性にこそふさわしい言葉ではないか。
話を戻す。展開がストーリー性だと言う、僕の主張を友人に話したところ、鉄釘が水溜りで腐っていくだけで展開にはなるが、ストーリーではないだろう?と言われた。
それだけでも僕はストーリーを見出すと。フロギストン説が支持されていた時代を考えれば、またはなぜ鉄と酸素が化合しやすいのか周期表を調べていけば、充分にストーリー性を見出せる。
展開がストーリー性をもたらさないなら、なぜ人は歌のないメロディーだけの曲でもカタルシスを得られるのか。
「大人はストーリーが無ければゲームを楽しめない。ゲーム性だけではゲームがいかに優れていても見向きもしない」
最近のパチンコ台でさえ、ストーリー性を求めているんだよ。
現在、制作が停止している西部劇TRPGですが、参考資料書籍を少し載せてみます。
これは、1895年の通信販売カタログです。
中身はこんな感じ。
それから、西部劇のテイストを彩る生活文化についてはこの本を参考書籍としています。
19世紀後半の発明ラッシュにはこちらの書籍を。 レオナルド・デ フリーズ, Leonard de Vries, 本田 成親 図説 発明狂の時代
資料が膨大になっているのでとても熟読できませんが、がんばっています。