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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[SYS]レッテル・システム

letter

 T&Tでの運用テストで実験的に導入された、ハンドアウト拡大解釈新ツールです。
 真ん中には正方形型のPOST ITを貼り付け、表面、裏面にはGM、PLからハンドアウトを頂きます。

 シーンによる区切りで交換し合います。

 四隅には要望の強さに応じて、カラークリップをはめます。はめる必要がなければ、はめなくても良い。

 要望に応えてプレイが盛り上がったならば、ヒーローポイントとして、ポイントを受け取ります。ポーカーチップ、キャラクタシートのゲージに、クリップ、でもいいでしょう。

 運用には、「成功を失敗にした」ことで、頂いてもかまいません。

 ヒーローポイントの使い道は、セービングロールの成功、相手のセービングロールの失敗、他にも、使用行使して構いません。

P.S.

 現実の人間にレッテルを貼ることはバカらしいことです。TRPGというゲーム中に、役柄に対する目標や注文は、そういう世界だから出来るのです。アンチテーゼですね。
 評論家さんは、こんなのはあり得ないとのことですが、実際に使ったら面白いと好評です。

 デザインの意図が読めない評論家の程度も知れますね。


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[TRPG]なぜ、TRPGは論理で議論できないのか。

 TRPGの本質は道具である。

 道具的存在には、「指示」が含まれている。

 TRPGもまた、「指示」の塊である。「指示」には、ものすごい量があって連関し、数学函数的に捉えることはできない。
 TRPGが道具として適切なところになければ、道具として有意義ではない。そして道具を扱うもの達も有意義な結果を得られない。

 議論が不毛に終わりやすいのは、そのあたりの言葉では言えないことの類のことを無理に語ろうとするからだろう。

[TRPG]TRPGは自由のバイブルではない。

 以前書いた考えは変わらない。TRPGは絶対に自由のバイブルではない。コミュニケーションのツールの一つでしかない。


ストーリー統一の機能

 ごっこ遊びにおいては役割に対する明確な位置付けが存在せず、それが行われる理由も、またその終結も明らかではない。
 RPGがストーリーの流れをある意味で統一する基準であるという、その機能があるために我々はそれを用いるのである。
 これはRPGが現実に適応した複数の人間同士のコミュニケーションであることに由来する。
 コミュニケーションに共通の話題の知識、共通のものへの関心、共通する感性が必要なのと同じである。
 共通の言語であると考える必要はない。
 言語はコミュニケーションに限って用いられるだけのものではないからである。


 赤子に対する母親が抱くような、一つの一人の自由を生み出す感覚と、TRPGを一緒くたにしてはいけない。

 TRPGをより良く楽しむのは、コミュニケーションの素晴らしい例を考えるべきだ。それは哲学者のエーリッヒ・フロムのいう「愛」である。「愛されるためのこと」にではなく、「愛すること」に価値があるという考えだ。

 彼によれば、「愛」とは、配慮・尊敬・責任・知である。相手に配慮すること、相手を死ぬときまで成長する尊いものであること、求められたならば応じること、そして相手の状態を良く知っておくこと、だという。

 男女の愛でも、親子の愛でも、友愛でも、「愛すること」は素晴らしい。己に愛される資格を問うのではなく、己が愛する資格があるのかを問う。

  コミュニケーションの素晴らしい例が、愛するということならば、TRPGのうまさは、単純に、楽しまされることより、楽しむことより、楽しませることにある。そのために、同じように、配慮・尊敬・責任・知を持ち出してもいいのではないか。


[WESTERN]基本的資料。

 

 日本語の西部劇の概念と「WESTERN」の概念の違いは以下の本とのご比較願いたい。







[WESTERN]先住民族 北米

 米国、カナダ・極北を網羅。
 アリュートを強制移住させた日本の仕打ちもきちんと記されている。



[TRPG]ミステリーに自由が必要か?

大丁さんの大丁の小噺から知ったのですが。
http://d.hatena.ne.jp/taitei/20080625/1214401336


卓上RPGを考える
http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/06/post-145.html

から、TRPGと現代ファンタジーを愛する男のブログ
http://blog.livedoor.jp/gensoyugi/archives/51428100.html

卓上RPGを考える
http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/06/post-146.html

この議論において、言葉の齟齬が大きくてお話になっていないと思いました。

 

 あまりにも、鏡さんの言う「ミステリー」との語彙の齟齬が大きいので、「ミステリーの社会学」より、ミステリー作家によるミステリー作品の成立を並べてみます。

探偵クラブ「誓言」

探偵は天啓や女性の直観、偶然などに頼っては行けない
ギャングや陰謀、殺人光線、幽霊、引き窓、中国人、催眠術、超能力、狂人などの利用には節度を。未知の毒物は不可。
キングス・イングリッシュに敬意を。
手がかりを隠すべからず。

 

ヴァン・ダイン「探偵小説作法二十則

手がかりはすべて明確に提示せよ。
故意に読者を惑わす記述は不可。
恋愛を持ち込むことなかれ。
探偵が犯人であってはならぬ。
偶然、暗号、無動機の自白による解決は不可。
ちゃんとした探偵が登場して問題の解決にあたる。
殺人が必要。他の犯罪では、特に長篇はもたぬ。
水晶占い、読心術、降霊術などによる解決は不可。
探偵は一人に限る。
犯人は主要人物たるべし。
召使が犯人ではいけない。
犯人は一人だけ(共犯者はあっても良い)。
秘密結社やマフィアなど組織を持ちこむなかれ。
殺人方法と推理方法は合理的・科学的たるべし。
真相は常に何らかの形で開示されるべし。
目的から外れた饒舌や雰囲気への陶酔、冗漫な描写はいけない。
プロの犯罪者が犯人であってはならぬ。
犯罪が事故や自殺であってはならぬ。
国際的陰謀や政治的動機などは不可。個人的動機のみ可。
その他無能で非独創的な手法は不可。

1タバコの吸殻による割りだし。
2ニセ降霊術の利用。
3指紋の偽造。
4人形によるアリバイ。
5犬が吠えず。
6双生児や近親者の利用。
7皮下注射器と自白剤。
8踏みこんだあとでの「密室」殺人。
9言葉の連想テスト。
10暗号又は略号の利用。


 

ノックス「探偵小説十戒」

犯人は冒頭から登場すべし。かつ共感できぬ人物たるべし。
超自然的な要因は持ち込むべからず。
二つ以上の秘密の部屋や通路は不可。
未発見の毒物や長い解説の要る装置は不可。
中国人を登場させてはならぬ。
探偵は偶然や不思議な直観の力を借りては行けない。
探偵が犯人であってはならぬ。
手がかりは直ちに公開せよ。
ワトスン役は思ったことを隠してはならぬ。かつ、読者の知能よりわずかに低かるべし。
双生児や犯人のそっくりさんは不可。


 

チャンドラー「九つの命題」

はじめの状況と結末は納得できる理由が必要。
殺人と捜査方法の技術的な誤りは許されない。
登場人物、作品の枠組み、雰囲気は現実的たるべし。
作品の筋は緻密に作られ、かつ物語としての面白さが必要。
作品の構造は単純に。(最後の)説明が誰にもわかるように)
解決は必然的かつ実現可能なものに。
謎解きか暴力的冒険談かどちらかに。
犯人は罰を受けねばならない。
読者に対してはフェアプレイを(データを隠してはならぬ)。 


 

ハル「探偵小説とその十則」

一つのことについて互いに矛盾する記述をしてはならぬ。
決め手となる事実を最後まで隠してはならぬ。
故意に虚偽の陳述や誤解を招く陳述をしてはならぬ。
医学、法律などの誤りは許されない。
読者に手がかりを与えよ。
筋違いの手がかりは理由があれば良いが、散漫な結末は不可。
人物描写は的確に。できれば犯人は同情さるべき存在に。
文章のうまみやユーモアは必要。恋愛はあっても良い。
結末には意外性が必要。
正当な理由ある場合を除いて、犯人の逮捕又は自白で結ぶこと。 


 このように、ミステリーには作法にスポーツのようなルールがあります。
 鏡さんの言う「自由は」、サッカーで、「自由」にバットを使ってくださいとの暴論に近い。
 ミステリーのような謎解きの解明という競技的なシナリオでは、「自由」は、得点を取る、負けない、勝つ、そういった競技上の「自由」であって、参加するかしないかにも「自由」を与えている点が、大きく齟齬を生んでいる。

>以下引用 

まず、「制約の無い自由なんてそもそもありえない」との見解については、過去にも触れた通り、私も同じ意見です。ただし私は、ルールシステムや世界設定に基づく「制限(制約)」と、シナリオ作成者やゲームマスターの「期待/願望」に基づく「管理」とを、明確に分けて考えています。プレイヤーの発想や決断が「制限」されても「管理」はされない状態が、私の言う「自由」です。この点をご理解の上で「無茶で非現実的なもの」か否かをご判断ください。

>引用ここまで。

 つまり際限のなき「自由」のことではない。「制約」「制限」「管理」と雑多に独自の語彙を振り回していて、混乱させる原因になっていると思う。


ゲームのストーリー性

 ゲーム性が必要だとか、ストーリー性が必要だとか、議論しているあいだにTRPGを遊ぶ人が少なくなった。

 亡くなった友人の教えてくれた、馬場秀和さんの論文は、ゲーム性を、ゲームの理論で説明ができるようになっていること、ストーリー性は問題解決以外いらないという切り口だった。

 展開がストーリー性だと言うのは、僕の主張。


 わざわざ、トレーディングカードゲームに「なんたらかんたらドラゴン」などと書いてあって、これが止めを刺した、とか。ゲーム性だけを追及するなら、データを書いたカードでおしまいで済む。立派なチェス盤も将棋盤も要らず、駒にどう動けるのか書いた紙で充分。これを単に演出と言うなら、その演出と言う用語は、ゲーム性よりもストーリー性にこそふさわしい言葉ではないか。


 話を戻す。展開がストーリー性だと言う、僕の主張を友人に話したところ、鉄釘が水溜りで腐っていくだけで展開にはなるが、ストーリーではないだろう?と言われた。

 それだけでも僕はストーリーを見出すと。フロギストン説が支持されていた時代を考えれば、またはなぜ鉄と酸素が化合しやすいのか周期表を調べていけば、充分にストーリー性を見出せる。

 展開がストーリー性をもたらさないなら、なぜ人は歌のないメロディーだけの曲でもカタルシスを得られるのか。


 「大人はストーリーが無ければゲームを楽しめない。ゲーム性だけではゲームがいかに優れていても見向きもしない」

 最近のパチンコ台でさえ、ストーリー性を求めているんだよ。



[西部劇書籍]参考書籍

 現在、制作が停止している西部劇TRPGですが、参考資料書籍を少し載せてみます。

これは、1895年の通信販売カタログです。 

 中身はこんな感じ。
  それから、西部劇のテイストを彩る生活文化についてはこの本を参考書籍としています。


 19世紀後半の発明ラッシュにはこちらの書籍を。 レオナルド・デ フリーズ, Leonard de Vries, 本田 成親 図説 発明狂の時代  


 資料が膨大になっているのでとても熟読できませんが、がんばっています。