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Butt(グリップ)の方は実銃のエボナイトを型取りされたそうです。ティファニーグリップも型を取っていらっしゃるとか。
プラスティック部分が銃身かシリンダーに見えないといけないのは、トラブルを避けるためだと思います。
写真で、メッキの質が違うことがお分かりになるでしょうか。黄色いほうがニッケルメッキ、銀色なのがステンレスメッキだそうです。これをズームすると。
シリンダーの溝にシリンダーストップががかかるところに秘密があります。
写真にばっちり写っているのですが、気づいた方だけ気づいて下さい。
ちなみに、違法改造にはとことん厳しい先生です。どこの会社か忘れましたが、「実銃」に改造できてしまうので、トイガンメーカーさんに警告はしたそうです。
写真の物は全てモデルガンですが、タマの出るリボルバートイガンも改良されて、装弾数と飛距離が改良されてきているそうです。
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装弾数が18発もあります。
モデルガンでクイックドロウを楽しみたい方は、
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※ここでは障害の意味をTRPG自体に支障をきたすものとしています。念頭にあるのは高機能自閉症、いわゆるアスペルガー症候群です。
タブー視される社会適応の障害から、考え直してみる。
#引用開始#
オホーツクADHD&LD懇話会
過去ログ
・ また、シングルフォーカスの特徴があると、同時に複数の刺激要素を処理しないとその意味合いが浮かび上がってこない「他者との社会的交流状況」を十全に理解することが出来ない。相手が発信する社会的交流刺激の一部だけから、その状況を解釈してしまうために、誤解が生じてしまう。
・ さらに、発達障害とは、人生の最早期からの「適切な発達を支える環境との相互作用が歪みを受ける障害」であり、そのために、放置しておくと二次的な障害が生起してくる。出来るだけ早いピックアップと適切な療育が必要。また、上記のシングルフォーカス特徴が発達障害として影響を及ぼすために、視覚的思考といった自閉症に特有の認知特徴が作り上げられてくる。
・ 「自閉症の子は、ごっこ遊びをしない」と言われるが、ごっこ遊び的な行動は、特に高機能自閉症児の場合にはよく見られる。一般に、ごっこ遊びには「再現する要素」(記憶の中にあるストーリーや動きを再現する)と「再演する要素」(キャラクターの心の状態を演じる)とがある。自閉症の子は「再現する要素」が多く、いつも同じストーリー、同じやり方、丸覚えのやり方、大好きなビデオをそのまままねることが多い。また、単なる物まねでなく、自分でストーリーを作っていたとしても、柔軟性やその場その場での展開性に欠け、自分の考えたストーリーの中で他人の役回りを決めて強引にやらせようとすることがある。
#引用ここまで#
このような、障害例を挙げると、タブー的側面が伴う。障害者差別意識はないことを明記しておきます。
ただし、TRPGは基本的に「遊びの僥倖(フランス語のアレアは僥倖、ラテン語のアレア、サイコロを原語とする)」を万人に等しく訴えるものと考えると、このような障害例についての援用も参考になる。
つまり、安易なごっこ遊びは、“「再現する要素」が多く、いつも同じストーリー、同じやり方、丸覚えのやり方、大好きなビデオをそのまままねることが多い。”もの。
正反対の「再演する要素」(キャラクターの心の状態を演じる)が重要となるものであるが、安易なレベルで万人に評判の高いものは、「再現する要素」であり、ネタ元がはっきりわかるものだということ。
そして、“また、単なる物まねでなく、自分でストーリーを作っていたとしても、柔軟性やその場その場での展開性に欠け、自分の考えたストーリーの中で他人の役回りを決めて強引にやらせようとすることがある。”というところから、吟遊詩人マスターやなりきりプレイの、稚拙さをよく指摘されるもの、安易に万人に評判の高いものは、「再演する要素」がない上で、このような類のものであるといってよいかと思う。
しかし、安易に万人に評判が高いものは正解だろうかと言うと、そうではない。
ごっこ遊びとTRPGの違いはひとまず棚にあげるとして、TRPGが個人の遊びに楽しむ一人遊びではない以上、個人だけの楽しみに委ねて評価ができない。しかも明らかにこれはコミュニケーション上の障害に連結している。
このような障害は未発達なシングルフォーカスから来ており、「障害」を含んだTRPGと言える。
吟遊詩人マスターやなりきりプレイが悪いのではなく、「再演性」と「柔軟性」や「展開性」、役回りの「生成性」が欠落していることがコミュニケーションの成立に悪いのだ。
吟遊詩人マスターやなりきりプレイ以外にもこれは当てはまる。意志決定などの手法を用いたとしても注意すべき点はあくまで、この部分に当たる、コミュニケーションの成立失敗である。
とくに、プロットを固定したり、キャラクターの役回りの生成を認めないのは、「障害」にさらされたTRPGで、コミュニケーションが図れない(コミュニケーションが介在する必要を失う)仕組みになる。
また、このような「障害」を少々持つ実際の方であっても、乗り越えやすいような体質のデザイン・アプローチが必要だと言えると思う。
ゲームが意志決定論であるとしている話をして、物語性を否定する方には決定的に見落としがある。ウラジーミル・プロップによる構造主義の先駆者の説です。ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法』より。
原則1 民話の恒常的で不変の要素は登場人物たちの機能である。この場合それぞれの機能がどんな人物によって、あるいはどんな方法によって為されるか、ということとは関係がない。 |
原則2 魔法民話の中に出てくる機能の数には限度がある。 |
原則3 機能の継起順序は常に同一である。 |
すべての民話にすべての機能があらわれるわけではなく、筋運びで省略、併合、統合がされる。はじまりの機能は途中からという場合もある。抜かした経過を取り戻すために後戻りすることがある。機能にはその反対の場合を含むこともある。 |
プロップのカード |
レッジョ・エミーリアでの ジャンニ・ロダーリのカード |
(1)留守 | |
(2)禁止 | (1)禁止 |
(3)違反 | (2)違反 |
(4)捜索 | |
(5)密告 | |
(6)謀略 | |
(7)黙認 | |
(8)加害(もしくは欠如 | (3)加害(もしくは欠如 |
(9)調停 | |
(10)主人公の同意 | |
(11)主人公の出発 | (4)主人公の出発 |
(5)任務 | |
(6)魔法の授与者との出会い | |
(12)魔法の授与者に試される主人公 | |
(13)主人公の反応 | |
(14)魔法の手段の提供 | |
(7)魔法の贈り物 | |
(15)主人公の移動 | |
(8)敵対者の出現 | |
(9)敵対者の悪魔的能力 | |
(16)主人公と敵対者との抗争 | |
(17)狙われる主人公 | (10)決闘 |
(18)敵対者に対する勝利 | (11)勝利 |
(19)発端の不幸または欠如の解消 | |
(20)主人公の帰還 | (12)帰還 |
(21)追跡される主人公 | |
(22)主人公の救出 | |
(23)主人公が身分を隠して家に戻る | (13)家への到着 |
(24)にせ主人公の主張 | (14)ニセの主人公 |
(25)主人公に難題が課される | |
(26)難題の実行 | (15)困難な試練 |
(16)損害の償い | |
(27)主人公が再確認される | (17)主人公であることの再確認 |
(28)にせ主人公あるいは敵対者の仮面がはがれる | (18)仮面をはがされたニセ主人公 |
(29)主人公の新たな変身 | |
(30)敵対者の処罰 | (19)敵対者の処罰 |
(31)主人公の結婚 | (20)結婚 |
物語論(ナラトロジー)参照。
これらのいわゆる各要素が全て欠如しているならば、一般的にTRPGではないとさえ言える。
意志決定がそれを傍観する立場において、このお約束――演技のサブセット――と言っても良いものが傍観を許してくれる。
異論は多いだろうけれど、TRPGを意志決定論で捉えて、病気や災害に予測外の不運にあわないというのは、ユートピア幻想かとも思う。
物語論で触れられているものは、――演技のサブセット――のなかにある規則であって、やはりTRPGは物語をゲームで囲ったものだと思います。これらはなくても「ゲーム」があれば遊べますが、欠ければTRPGではない。
味噌を溶いただけのシロモノになります。
うろうろと、ネットをさまよい、このようなエントリに遭遇しました。
ロールプレイは演技するという意味です - xenothの日記
僕は馬場氏の翻訳を元に、コスティキャン論が展開されていくことを踏まえて、翻訳を信じ込んで考え足らずに論じてしまいました。
コスティキャン氏の原文は
I Have No Words & I Must Design
にあります。馬場氏が都合の良いように、改竄した概念を吹き込んで紛れさせています。
残念です。コラムゲームだったことがはっきりわかってしまった。
あの翻訳に問題性を感じないで鵜呑みにした人たちは、なんだったんでしょう。
僕の戦友が、こんなものを誤解したまま、僕以外の友達をどんどん失いながら(文字通り)死んだのは、悲しい。
今朝も電話が鳴って、「ベータさん、遅いですよ。ゲームもう始めますから来てください」と、はっとして目が覚めてしまいました。懐かしい声を夢見た。
まだ、そっちにはいけない。やること山積み。ごめん。
馬場氏はコラムゲームをしてましたが、なんとしてもこちらはTRPGシステムを拵えます。きっちり決意を固めました
とくに玄兎さん向けエントリ。
六茫星、五茫星に対して、白、黒の二重円の内円は、外接まで。
内円は番号点に接しなければならず、
白円は内円が大きい、妨害にきちんと対処していない。
黒円は、きちんと対処し、ある程度自在さが高い。
ちょっと説明が大雑把ですが、概念は伝わったでしょうか。
僕はこのような図で、ノンフィクションとフィクションを捉えられるかと思います。
図1
図2
TRPGはフィクションですから、図2に相当します。
火事が発生する確率は、ポアソン分布で得られますが、そこから考えると、疑似体験を謳うのはどこかおかしい。
さらにストーリー(物語)構築の現場のまさに最中において、TRPGは対話と解釈と換言出来ます。
[TRPG]物語という言葉の整理。
さらに以前の考察、[TRPG]さらば、馬場理論よ。に立ち戻ると、疑似体験というより、物語構築体験に近い。物語らしさ(=物語性)を再現しているのが、TRPGのルールシステムと言えるのではないかと思います。ゲームが終了したあとに思い返すストーリーのお話ではありません。なぜなら、シナリオに群像劇的なテーマを持ってきて、少なくとも僕の周辺では、よく遊ばれているからです。
さらに、その意識的な物語らしさが、じつは、キャラクターの運用上、図1のノンフィクションとも言える。TRPGは、フィクションを用いて、あくまで、ゲームシステム上のノンフィクション形式で物語を紡ぎ出している。
[TRPG]さらば、コスティキャンよ。においては、ゲームの共通項を導き出したことを認めるけれども、それはTRPGのシステム毎の特徴を説明する要素とはいえない、つまりゲームデザイン(=ルールシステムデザイン)とは無関係と結論しました。ゲームのストーリーの直線はゲーム上の意味があるのです。
TVシリーズの「24(TWENTY FOUR)」などは、駆け引き中心のドラマです。ゲーム的で、直線的ではない。
しかし、この極めてゲーム的なドラマは、ちょうど、登場判定に失敗したか、独自行動をとられているTRPGのプレイヤーの立場に近いでしょう。
ストーリーが直線的だから、感動させられるというコスティキャンの説明がどうかしている。
1on1でプレイしているならともかく、多人数でプレイしている経験を無視している。
選択肢、障害、資源などとなるものが存在したとして、自分のPCが関われない中、別行動のお地蔵さんとしても楽しんでいることを忘れている。
別行動のお地蔵さん状態のときはストーリーは直線的でお地蔵さんは感動するが、お地蔵さんはいざゲームを行うと感動できないのか。感動させられないのか。
コスティキャンは自ら自分のプレイング能力を「言葉通り当たり前のように受容的な問題解決」であるとしているのか。ならば、横槍を散々出す迷惑なプレイヤーか。
TRPGに参加するGMとPLは、脚本を自由にできる(ゲーム体験)がゆえに再現やミミクリではなく「物語らしさ」を構成する司会・参加責任があるのだと思います。
TRPG上の約束事。これは何度も思い返さなければならない。
TRPGのTRPGによる、この約束事によって、人が人とコミュニケーションをとり、互いを尊重しあう関係に身をおくのです。
その遊隙の関係の中でいわばシーソー遊びのように、遊動する関係を切り結ぶのです。ですから、他のPLを楽しませるのは、GMに限ったことではないのです。
そして、その楽しみは人間関係を取り計らった誰々によるゲームであるからこそ、楽しい。
これはTCGの対戦相手に子供が強い子供を連れて来て強い大人と戦うのを見るようなものです。