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〈参加者〉
〈目標〉
〈ゲームトークン〉
〈管理資源〉
〈制限〉
〈障害〉
〈葛藤〉
〈アカウンタビリティ〉
〈結果に対する責任〉
〈選択肢〉
〈選択/決断〉
馬場信奉者の作ったお話。
ロールマスターでこんなことがあった。
大飢饉が起こった世界。遠くの農村に行けば食料が高く売れるという商人から後払いで、キャラバンの護衛を頼まれる。
第一日目の村で、村の代表者が値下げ交渉してくるが、商人は「まからん」と、取引なし。
村を出発するものの、村の者が覆面して襲ってくる。商人が人質になり、戦闘は終わり。
護衛のものたちは、しばらくして馬車を追うと、商人と御者がスマキにされて転がり、品物は空っぽ。
商人は村を襲って品物を取り返せと叫ぶ。
さてどうするか。
なんて、胃癌と肺癌を選びなさいのような、シナリオ。
どう転んでも、悲惨な損害を受ける人が出るだけ。
全く、楽しくなかった。馬場理論どおりになっているけれどもそれが成り立っていれば、TRPGなのか。
成立の過程というか、書かれているコラムゲームや、「マンチキン」紹介(誰だってその要素を持つ。その要素を持たない人は充分に遊べていない)などは、できない子の「社会が悪い」「日本が悪い」「制度が悪い」「あの人が悪い」などの典型ではないのか。それで、過剰なまでにできないことを認められずに、理論武装をした。
馬場秀和ライブラリに僕の神経が尖るのは、そのあたりの根本的な馬場氏の実力の「自認」の欠如じゃないか。
A | B | C | D | E | F | ||
A | 1 | ||||||
2 | |||||||
B | 1 | ||||||
2 | |||||||
3 | |||||||
C | 1 | ||||||
2 | |||||||
3 | |||||||
D | 1 | ||||||
2 | |||||||
3 | |||||||
E | 1 | ||||||
2 | |||||||
F | 1 |
「アート」とか、「オブジェ」とか、日本では恭しく尊ばなくてはならないものという意識が強い。
実際上は、「アート」には「技巧」という意味があったり、「人工物」を連想したり、オブジェには「ブツ」という意味合いがあって、てんぷらにした腕時計や携帯電話を「アート」だの「オブジェ」だのと美術館に飾られていたりする。
なぜか若者でも、そうしたものに拝金主義に似た「お芸術コンプレックス」があって、庶民には手が届かない高尚さを持っているのだという価値観がある。
本来、人間自体が芸術の源泉で、出力された表現を評価するのが芸術であって、高嶺の花ではない。
TRPGで、馬場さんがアマチュアによる幼稚な世界設定製作を販売戦略の欠点だと、指摘しているけれども、それが高尚で大変な作業だとは僕は思わない。
芸術に携わる人に何人かに接触したけれども、芸術家も酒もやればタバコも吸う。クソもするし屁もこく。ご飯を作ってあげたら喜ぶ。面白い話もすれば、愚痴もこぼす。
TRPGのプレイヤーがその輪の中で役割演技をするのは、砂絵のようなもので、掻き消えてしまうようなものだけれど、きちんとした「お芸術」だと思う。
このコンプレックスは、弊害も生み出していて、TRPGは単に選択肢を選ぶだけのゲームとして、誰でも人を選ばず、はた迷惑でもメンツ集めにこだわるなんてこともある。
ウマの合わない人とお芸術をすることは、天才ピアニストのリヒテルとクライバーでさえできなかった。指揮者もスコアもあって、互いが醜い喧嘩。
それだけ本来はハードルの高い共同芸術がTRPGなのだけれども、観衆のいないコミュニケーションの枠内での砂絵なのだから、「お芸術にびびるな」と主張したい。
言葉を選ぶならTRPGゲーマーはアーティスト。
もっと自信を持てばいい。
どうして、卑下したり鼻つまみ者である必要があるのか問いたい。
コメント欄に、将棋の優勝者に羽生名人と対決できること、などがあるのですが、そのゲーム大会において、羽生名人との対決は大会において、羽生名人がゲームトークン化している、と指摘します。
ゲームトークンであるから、「詰めろう」で、交代もありえる。また、「合理的」である「勝ち」にむかえる。完全情報においてはゲームトークンは、傍目八目(本来的な意味で)も含めた完全情報。
TRPGにはそれがない。基本的に集ったメンバーが、互いが互いのPCを解釈し合い、演技表現しあう中での模倣をゆるさぬいわば有機的な不完全情報。
PCはPLのその置かれたシチュエーションでの解釈物であり、表現物である。ゲームトークンの機能はこの場合分類されなくてはならない。
こちらは、俵ねずみさんのいう「ありかた」を「解釈」と呼び、「ふるまいかた」を「表現」と呼ぶと、宣言する。
俵ねずみさんが何も否定せず、肯定せず、分類だけする論文に終始したのは悪意を感じるが、とりあえず、ここではそういう呼び方をしておく。
そして「役割演技」は「芸術の一種」であって、それは「解釈」と「表現」とする一面を強調しておく。この一面はコミュニケーション上では成り立つ(芸術的に成り立つ)がゲーム的には成り立たない一面がTRPGには必ず起こりえることの経験則からいえる。
芸術の一例として、DTPデザインの基本から。
マルセルの色相というものがあります。これが、PLの個人尺度のスタンス(アプローチ)のベクトルとします。
色相、彩度、明度が成立した状態です。
ここまでは合理的に分かるのですが、色合いが作り出すトーンは非合理的です。
例示として。
混合色ではなくトーンの一例です。
これらを、意志決定論では崩しえないARS(ギリシャ語でアルス)とよびます。人間の着想自体、芸術と技術が根本的に未分化な状態です。
これは芸術を意志決定論で、分類しようとすると、大きな錯誤にあたります。
それぞれのトーンの要素色がそれぞれ「役割演技」、つまり「解釈」と「表現」ならば、展開プロセス、つまりストーリー(セッション)も全体的のトーンが統一されたものの例えになるかと思います。
音楽でいえば調をそろえていくのはなぜか。不協和音だらけにしてしまうと調子っぱずれになることと同じこと。
意志決定論で決定的に説明不能なのは、トーンを合わせようとしたり、調をあわせようとしたりという、それぞれのGMとPLの普通に普段からしていることを説明できないことです。「葛藤」「資源管理」は、ゲームの重要な要素かもしれない、それでも、政治や経営を芸術だと主張する人は聞いたことがありません。
芸術性を無視したゲーム性追求者は、人を楽しませあおうと努力する人より迷惑なことを少し自覚すべきです。
事実上の源流には、コミュニケーションとは別個の枠組みがあって、意志決定論や確率などを集合とする「形式性を持ったルール群」があった。テーブルゲームやシミュレーションゲームにソリティアがあることから言えることはコミュニケーションは不要な場合が許されている。それどころかソリティアには、コミュニケーション自体が邪魔だともいえる。
ところが、TRPGは、役割演技という「演じる」部分において、ソリティアがまず成立しない。一人で「演じる」ことはできない。このため、TRPGが、コミュニケーションの欠落を起こすと成立しない。TRPGは、まず、構造的にはコミュニケーションの枠の中で成立するように、デザインされることが前提となった。そして、「演じる」ことは、プロセスを生み副次的に「物語」の生産を行うこととなった。
そこで問題になる「物語」「演技」について、これがコミュニケーションの不成立を引き起こす事態が生まれ、馬場さんがゲーム性への回帰を、過剰にシニカルなノスタルジーでコラムが展開され、一時、アマチュア層に再考を促した。個人的にまとめるとミスリードしていなければ、こんな感じだと思います。
そして、コラムどおりの理屈の進め方では、結局、TRPG自体からの放棄撤退しかなく、やはり、TRPGの内部の構造を「コミュニケーションの成立」>(「ゲームの成立」&「演技の成立」(物語))と、受けとらざるを得ない。TRPGはここを崩すと成立しないと思います。この前提だけでもTRPGの面白さと言えるかもしれない。
ゲーム理論上では、正直一番考えたくない形式をとる悪夢のゲーム。ゲーム性は演技の適切な解釈規定性として立ち現れる。おまけに、第三者からの観察解釈を嫌う。ゲームが生物ならカモノハシのような存在かなあ。
他のゲームとゲームの意味合いが異なる。協力型というよりは、協奏型か。非零和、多人数という呼び方も正確には当てはまらない気がする。
やはり、直観的には、音楽理論のようなものはできても、物理理論のようなものはできないような気がします。