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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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ゲーム・デザインとTRPGプレイの違い。

 語義の定義で勘違いされている方がいるが、ゲーム・デザインは、ルール・システムの構築であって、ゲームがプレイされることとは違う。

 ゲーム・プレイされる「前に」合意的に選択されるものが、ゲーム・デザインの全てであって、TRPGプレイが、デザインの一種であろうと、区別しなくてはならない。

 言葉が混乱されているかと思う。

 元を正せば、B氏の見境のない語義の乱用からの誤解から来る。
 B氏はTRPGプレイが、ゲーム・デザインだと言い、自分にはゲーム・デザイン能力はないという。
 明らかに別の意味合いで語っていることが明白なので、文脈の整合性から、分別をつけておきます。

 いまだに訂正されないのでは用語に関してお話できません。

 狭義の、広義の、というお話でもない。

 セッションという言い方はJazzセッションと似たような意味で、スタンダードナンバーをアドリブを利かしてプレイすることが連想されます。それはコード進行やリズムの改変による創造的な即興です。
 クラシックでは、リヒテルとクライバーによる曲は、その二人のピアノが喧嘩して聞くに堪えません。

 プレイには準備されたデザイン・コンセプトがありません。
 ゲーム(TRPGシステム)にはあります。
 プレイにあるのはデザイン的であれ、テーマ(主題)とアプローチ(関わり)です。
 プレイにデザインがあると取り違えると、どうしても語弊を生んでしまいます。

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[TRPG]さらば、馬場理論よ(4)その方法論はできない子の言い訳

〈参加者〉
〈目標〉
〈ゲームトークン〉
〈管理資源〉
〈制限〉
〈障害〉
〈葛藤〉
〈アカウンタビリティ〉
〈結果に対する責任〉
〈選択肢〉
〈選択/決断〉


 馬場信奉者の作ったお話。
 ロールマスターでこんなことがあった。

 大飢饉が起こった世界。遠くの農村に行けば食料が高く売れるという商人から後払いで、キャラバンの護衛を頼まれる。
 第一日目の村で、村の代表者が値下げ交渉してくるが、商人は「まからん」と、取引なし。
 村を出発するものの、村の者が覆面して襲ってくる。商人が人質になり、戦闘は終わり。
 護衛のものたちは、しばらくして馬車を追うと、商人と御者がスマキにされて転がり、品物は空っぽ。
 商人は村を襲って品物を取り返せと叫ぶ。
 さてどうするか。


 なんて、胃癌と肺癌を選びなさいのような、シナリオ。
 どう転んでも、悲惨な損害を受ける人が出るだけ。
 全く、楽しくなかった。馬場理論どおりになっているけれどもそれが成り立っていれば、TRPGなのか。

 成立の過程というか、書かれているコラムゲームや、「マンチキン」紹介(誰だってその要素を持つ。その要素を持たない人は充分に遊べていない)などは、できない子の「社会が悪い」「日本が悪い」「制度が悪い」「あの人が悪い」などの典型ではないのか。それで、過剰なまでにできないことを認められずに、理論武装をした。

 馬場秀和ライブラリに僕の神経が尖るのは、そのあたりの根本的な馬場氏の実力の「自認」の欠如じゃないか。


[TRPG]箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」その3

 シナリオは、以下の枠内に、それぞれどれだけの時間消費がかかったか、フラグが立っていない場合はどうするのか、それぞれ記入し、AからFのフラグゾーンから、A1などのベクトルを記述することで完成します。

 この手法を基本とすることにより、一本道でもなく、鬼側の戦略を記述しやすく整理できる土台となります。

        A B C D E F
A 1                        
    2                        
B 1                        
    2                        
    3                        
C 1                        
    2                        
    3                        
D 1                        
    2                        
    3                        
E 1                        
    2                        
F 1                        

[TRPG]箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」その2

 スタートは端から。きび団子一個入手の図。
 一個のきび団子で、戌(いぬ)をお供にするために、B1を狙う。Bに命中。戌が一匹、お供に。

momo_sc01.png




 さらに、(きび団子を少し分けるのか? 交渉するのか?)戌をお供にしようとするが、
 あわれ、Eの鬼が島の鬼(鬼合戦)がやってくる。戦力不足か。

momo_sc02.png


 ここで雉を味方につけようと、C1へ。Cの雉ゾーンに入る。

momo_sc03.png

 このように、ABCDEFのそれぞれから、その中に点フラグになる基準方向と、その際にかかる誤差を操作していけば、ベクトルとスカラーを包含できます。
 この場合、箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」その1のフローチャートではない、処理系となります。

 このとき、鬼側の戦略や、きび団子増強による申軍団を桃太郎が作ってもお話にはなりますし、鬼を殲滅して、和睦を結ばなくてもいい。ゴールは決まっていません。
 この図のそれぞれのゾーンの立体的な運用がマスタリングとプレイングの演出となり、ユーザーがゲームデザインできる部分です。

[TRPG]箱庭シナリオ「桃太郎の鬼征伐」その1

 桃太郎の鬼征伐の御伽噺について、詳しいことは抜きに、
基本的な話の流れは下のフローチャートで表せます。
 

momof.png




 上の図のようなオブジェクト指向的な図表をシナリオとします。

 御伽噺上たどった道は下の図になります。


momo02-2.png

 このルートをたどらなくても、(Aマホのように)結果を目標としなくても、いくらでもルートのパターンが作りやすいか、推測がつくと思います。
 この具体的運用方法は次回に述べます。


 


[TRPG]お芸術を怖れるな!

 「アート」とか、「オブジェ」とか、日本では恭しく尊ばなくてはならないものという意識が強い。

 実際上は、「アート」には「技巧」という意味があったり、「人工物」を連想したり、オブジェには「ブツ」という意味合いがあって、てんぷらにした腕時計や携帯電話を「アート」だの「オブジェ」だのと美術館に飾られていたりする。

 なぜか若者でも、そうしたものに拝金主義に似た「お芸術コンプレックス」があって、庶民には手が届かない高尚さを持っているのだという価値観がある。

 本来、人間自体が芸術の源泉で、出力された表現を評価するのが芸術であって、高嶺の花ではない。

 TRPGで、馬場さんがアマチュアによる幼稚な世界設定製作を販売戦略の欠点だと、指摘しているけれども、それが高尚で大変な作業だとは僕は思わない。

 芸術に携わる人に何人かに接触したけれども、芸術家も酒もやればタバコも吸う。クソもするし屁もこく。ご飯を作ってあげたら喜ぶ。面白い話もすれば、愚痴もこぼす。

 TRPGのプレイヤーがその輪の中で役割演技をするのは、砂絵のようなもので、掻き消えてしまうようなものだけれど、きちんとした「お芸術」だと思う。
 このコンプレックスは、弊害も生み出していて、TRPGは単に選択肢を選ぶだけのゲームとして、誰でも人を選ばず、はた迷惑でもメンツ集めにこだわるなんてこともある。
 ウマの合わない人とお芸術をすることは、天才ピアニストのリヒテルとクライバーでさえできなかった。指揮者もスコアもあって、互いが醜い喧嘩。

 それだけ本来はハードルの高い共同芸術がTRPGなのだけれども、観衆のいないコミュニケーションの枠内での砂絵なのだから、「お芸術にびびるな」と主張したい。

 言葉を選ぶならTRPGゲーマーはアーティスト。
 もっと自信を持てばいい。

 どうして、卑下したり鼻つまみ者である必要があるのか問いたい。



[TRPG]役割演技がARS(アルス)である理由。

 コメント欄に、将棋の優勝者に羽生名人と対決できること、などがあるのですが、そのゲーム大会において、羽生名人との対決は大会において、羽生名人がゲームトークン化している、と指摘します。

 ゲームトークンであるから、「詰めろう」で、交代もありえる。また、「合理的」である「勝ち」にむかえる。完全情報においてはゲームトークンは、傍目八目(本来的な意味で)も含めた完全情報。
 TRPGにはそれがない。基本的に集ったメンバーが、互いが互いのPCを解釈し合い、演技表現しあう中での模倣をゆるさぬいわば有機的な不完全情報。
 PCはPLのその置かれたシチュエーションでの解釈物であり、表現物である。ゲームトークンの機能はこの場合分類されなくてはならない。

 こちらは、俵ねずみさんのいう「ありかた」を「解釈」と呼び、「ふるまいかた」を「表現」と呼ぶと、宣言する。

 俵ねずみさんが何も否定せず、肯定せず、分類だけする論文に終始したのは悪意を感じるが、とりあえず、ここではそういう呼び方をしておく。

 そして「役割演技」は「芸術の一種」であって、それは「解釈」と「表現」とする一面を強調しておく。この一面はコミュニケーション上では成り立つ(芸術的に成り立つ)がゲーム的には成り立たない一面がTRPGには必ず起こりえることの経験則からいえる。

 芸術の一例として、DTPデザインの基本から。
 マルセルの色相というものがあります。これが、PLの個人尺度のスタンス(アプローチ)のベクトルとします。


  色相、彩度、明度が成立した状態です。
 ここまでは合理的に分かるのですが、色合いが作り出すトーンは非合理的です。
 例示として。


混合色ではなくトーンの一例です。




 これらを、意志決定論では崩しえないARS(ギリシャ語でアルス)とよびます。人間の着想自体、芸術と技術が根本的に未分化な状態です。

 これは芸術を意志決定論で、分類しようとすると、大きな錯誤にあたります。

 それぞれのトーンの要素色がそれぞれ「役割演技」、つまり「解釈」と「表現」ならば、展開プロセス、つまりストーリー(セッション)も全体的のトーンが統一されたものの例えになるかと思います。
 音楽でいえば調をそろえていくのはなぜか。不協和音だらけにしてしまうと調子っぱずれになることと同じこと。
 意志決定論で決定的に説明不能なのは、トーンを合わせようとしたり、調をあわせようとしたりという、それぞれのGMとPLの普通に普段からしていることを説明できないことです。「葛藤」「資源管理」は、ゲームの重要な要素かもしれない、それでも、政治や経営を芸術だと主張する人は聞いたことがありません。

 芸術性を無視したゲーム性追求者は、人を楽しませあおうと努力する人より迷惑なことを少し自覚すべきです。



[TRPG]TRPGとカモノハシ

 事実上の源流には、コミュニケーションとは別個の枠組みがあって、意志決定論や確率などを集合とする「形式性を持ったルール群」があった。テーブルゲームやシミュレーションゲームにソリティアがあることから言えることはコミュニケーションは不要な場合が許されている。それどころかソリティアには、コミュニケーション自体が邪魔だともいえる。

 ところが、TRPGは、役割演技という「演じる」部分において、ソリティアがまず成立しない。一人で「演じる」ことはできない。このため、TRPGが、コミュニケーションの欠落を起こすと成立しない。TRPGは、まず、構造的にはコミュニケーションの枠の中で成立するように、デザインされることが前提となった。そして、「演じる」ことは、プロセスを生み副次的に「物語」の生産を行うこととなった。

 そこで問題になる「物語」「演技」について、これがコミュニケーションの不成立を引き起こす事態が生まれ、馬場さんがゲーム性への回帰を、過剰にシニカルなノスタルジーでコラムが展開され、一時、アマチュア層に再考を促した。個人的にまとめるとミスリードしていなければ、こんな感じだと思います。

 そして、コラムどおりの理屈の進め方では、結局、TRPG自体からの放棄撤退しかなく、やはり、TRPGの内部の構造を「コミュニケーションの成立」>(「ゲームの成立」&「演技の成立」(物語))と、受けとらざるを得ない。TRPGはここを崩すと成立しないと思います。この前提だけでもTRPGの面白さと言えるかもしれない。

 ゲーム理論上では、正直一番考えたくない形式をとる悪夢のゲーム。ゲーム性は演技の適切な解釈規定性として立ち現れる。おまけに、第三者からの観察解釈を嫌う。ゲームが生物ならカモノハシのような存在かなあ。

 他のゲームとゲームの意味合いが異なる。協力型というよりは、協奏型か。非零和、多人数という呼び方も正確には当てはまらない気がする。

 やはり、直観的には、音楽理論のようなものはできても、物理理論のようなものはできないような気がします。