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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[西部劇書籍]アンティークの銃。

僕は西部劇の資料について調べているので、参考資料として次の本を重宝しています。 これはアンティークの銃の本です。 

最近は動物の命を奪うより、動物の命、息づいている姿を永遠に残せることに興味があるので、カメラのシャッターに非常に興味があります。



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[西部劇書籍]西部のすべて―おとなのための西部入門

西部の史実がその時代の視点で描かれています。僕が生まれる前だから、大先輩の本で、現在では忘れ去られた西部劇映画がのっています。


貴重な資料です。筆者の名前は小林久三ですが、津神久三、白井哲の二つの筆者名を使い分けるのだそうです。
 この古書も高かった。昭和39年の初版本。札幌ではまず、入手不可能です。




[西部劇書籍]西部劇 (三一新書)

著者: 増淵 健 古本屋さんで購入。7500¥。

冒頭でガンマンは必ず左肩を負傷するというパターンのところで不覚にも大笑い。




西部劇「道」力説してみる。

 西部劇調べてるって言うと変な顔される。

 西部劇「道」っていうのがあって(ここで普通はヒク)、図書館にない古書を最高額45000円で購入して、文献を漁る姿がわからない、らしい。

 アメリカ出身のハリウッド・スターは、西部劇に出演することが、ステータスの一種。

 古き良きアメリカを伝え称える映画は、俳優のおじいちゃんやおばあちゃんにも分かり易い好感度をアップさせる匂いが、スターの嗅覚は、遠く高い峰の残雪から届いたように、なぜか、春風の中で嗅ぎ当てられるのだろう。
 あげつらえば、きりがない。

 単に、そういうジャンルであると、仮定すると説明不能なツッコミどころは満載なのだけれど、西部劇が取り上げる、19世紀という激動の時代や、西部という地域性は、日本での時代劇と異なって、古臭さがなく連綿と続いた文化史のルーツに素直に行き着くのが、アメリカらしいと断定できる。

 かつての、アラモ、メーン号を忘れるな!というのは、パール・ハーバーを忘れるな!と受け継がれ、ケネディ大統領の宇宙計画に「フロンティア」という言葉が出てきたり、と垣間見えるのは一貫して文化の崩壊を内包しながら形成し続けてきた、アメリカの足跡。

 それを、ハリウッドは活写し、喧伝する。



 アメリカ史を論じているときに、西部劇を取り上げるのは、向こうでは笑い話。
 西部劇を論じるときにも、逆も然りで、また笑い話になるとか。

 歴史的に見ると、全くの笑い種であっても、西部劇独特のパターン、展開方式は、人を惹きつける。

 何故、根拠のない時代考証に、昔の姿はこうかなあ?程度の、映画が成り立つのか?という疑問。

 それには日本人なら、月代毎日剃ってます、毎日結ってます髷、の「あっぱれな!ちょんまげ!」が、刷り込まれているところに来て、山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」または「隠し剣 鬼の爪」みたいに、考証が芸術的に織り込まれていても、「なんだこの貧相な髷は!眠たくなるぞ!」という大方の印象が実証している。

 そこから借りると、当時の西暦何年とかにはこんな銃は存在しないという方がナンセンス。

 意味を成さない。

 バーンと撃ったときには煙に隠れて見えなくなるので、とりあえずその瞬間まで見てくれが格好良ければいい。

 鉄砲はでかい音がするのさ!という、童心で、ああ、アタッチメントね、小道具ね、と流す。

 これが、西部劇「道」入門。一応、心得を説くと、まず肝心なのがココ。

 じゃあ、ガン・マニアって、西部劇には関係ないんだね!と、なるけれども、クリント・イーストウッドは、本当に、ガンマン。

 早撃ちのスポーツ大会に、ライフル協会にと、関わっているとか。コレは、まず、例外。

 彼の西部劇は、ガン・マニア垂涎の類。

 考証がまず、銃が基盤で、そこから年代が逆算されてしまう。

 でもね。じゃあ、西部劇は「てつほう」が年代をかもし出すものだ、とは言えない。

 「天国の門」というチミノ監督のある地方の事件を扱った西部劇は、電線が何十本も電信柱の上に通っているカット、町の風景。「てつほう」ではなく、何年何月何日のころは技術発展史、移民史、疫学史……はと、よく調べつくしたわ、音楽は、個人的に輸入版のサウンド・トラックを購入しなければとなるまで秀逸。

 会社を倒産させるほど興行の失敗という、オマケ付きに、なんだか臭いな、と感じてくだされば、心得が理に適います。

 そりゃ、お金を注げば、時代考証も町の風景も屋外セット建てまくりで出来ます。3DCGで故ジョン・ウェイン様やアラン・ラッド様を再現することも可能ですよ。

 なぜしないのか?
 お金がかかるでしょ。
 映画はビジネスサイドのアート。聞こえ悪く言えば、大衆娯楽。

 バックできないなら、製作費出ないし、映画会社が抱えているのは一本の大作だけではない。

 ありきたりに、説明します。ここは、映画「道」に、交代です。

 映画について。評論家、蓮實さんの難しいけど癖になる文章で指摘するところは、

 映画会社も企業なので、価値あるものを生み出したいけど、リスク分散したい。需要があれば供給する形態を、採っている時点で、ゲージュツはゲンジツの興行産業に。
 コレも怪しい需要に怪しい供給。

 それからもう一つ、興行はお一人様大体定額。
 貴重だから、と古書のように興行単価を吊り上げることは出来ない。結局個として楽しむものだけれど、映画館では観衆の一人。

 アートでありながら、群れないと作れないし、群れないと見ることが出来ない、でもって産業、というなんか宙ぶらりんのスクリーンが白い黒い論じるような怪しげな映画自体のカタチ。

 単純に、鏡に映った映像がどのくらいみてもタダ、なのに、映像と音声に支払う対価って、物理的に許せないと憤慨しませんか。

 だって、見ている最中は映画の話が出来なくて、見終わったらサイフが軽くなる。
 観衆にとっては買い物のはずで、映画入った買い物袋提げていないので、スラれたのか、と。
 映画写している映画館の方は頑張ってくれたようには思えない。

 おまけに、肩も凝って、目も疲れ、表情筋が強張るし、なんだか眠い。
 あれ、会社行って仕事して来たんだよな~昨日。時間守って行ったし。
 ありゃあ?なんか、サービス業疲れかな。サービス業、映画観衆。

 何がなんだかさっぱりしよっと。テレビをぽちっと。サービス業、テレビ視聴者。

 時間は守らなきゃ。

 という、苦笑いするところあるよねという、重たい文章をかいつまみ、共感を呼んで難しい文章で、時折呆れてしまうような鋭い様で役に立たない指摘。

 以上が正統派の映画「道」?なのです。

 ゲームはやってみないと面白いかどうかわからない。映画も観て聴いてみなければ、同様です。

 まず、映画自体の認識からして、こう厳密に定めると、何も書けない。
 観よ、としか。

 観てもいない映画を観に行こうと誘うとき、「それ、面白いの?」って変な質問してくるとき、「面白いかどうか、僕ら、確かめにいこうよ!」と、返す。

 この「道」なしには、西部劇「道」は成立しない。

 まず、映画館にしろ、ビデオ屋さんにしろ向かう道、古本屋さんを彷徨う道。

 僕生まれる前、祖父が牧場やっていたことを、懐かしそうに語る父のふるさとへの道。

 涙堪えて、語られた昔話を聞いた道。

 振り返れば、たぶん、そんな道。
 でもでも、まだまだ果てなく続く西部劇「道」。彼方は、映画の黎明期、すぐ一歩目は最新作。

 どんどん、果てに消え行く彼方。この道を歩くには、進んでいるはずという感触だけが、全てなのさ。


[西部劇書籍]西部劇大鑑

西部劇研究の基本的書籍。再販前に買ってしまったので、高かった。内容はとても充実しています。



[TRPG]具体的なものをギミックに。

 よく、ルールの奴隷になるな! と、TRPGのルールブックに書いてあった。

 だけれども、過去、魔術師の呪文のようにギミック化された部分が、技の類で、全般的にギミック化するのはどうかと思う。

 ギミックを生かそうとするあまり、楽しさが失われていないだろうか。

 故 大貫昌幸氏がデザインした、「ダブルムーン伝説TRPG」から、始まった流れだと思います。

 その後は、技のギミックに関して、細部の描写がなくて、困ることが多い。

 たとえば、飛び上がって弱点を突き刺すとします。

 天井の高さはどれくらい必要で、弱点は複数あるうちの最善のポイント限定なのか。
 寝そべった態勢で組み合っているところで状況次第では狙える弱点は変動する。
 
 こういった細部がすごく重要なんです。TRPGは、さまざまなシチュエーションドラマの中で、「ギミックを生かそうとするあまり、楽しさが失われていないだろうか」と、思うのです。

 細部が欠けていると特に感じる例としては、昔、「雷撃系」の呪文が金属張りの部屋では使えなかったとか、ね。このあたりの細部描写が欠けていて、面白さが少なくなったのかな、と。

 呪文にしろ技にしろギミックのそれぞれには、プロセスが伴っていて、あるプロセスの一部の具象化が成り立たない、ではどうするか? という、特別性、異色性が、欲しいところです。




[TRPG]皆の楽しめる基準。

TRPGで、出くわすのが自分のプレイスタイルの押し通し。

 例えば、空を飛べるキャラがいて、上昇して別行動。
 
 空を飛ぶ速度は、走る程度。TORGのアイルでリビングランドの星形生物。

 常識的な知識があるならば、空を飛べば偏西風があるので吹き飛びます。雲だって出る。寒い。ジャンボ機も空港から空港へ、北と南へは真っ直ぐ飛べないコースを取るのです。ヘリコプターでさえ、高高度では偏西風に影響されます。広めのフォーメーションでは曲がるときに崩れます。中傷の腕を磨くことに興味はありませんが、航空学の本でもご覧ください。 

 常識知らずは、日光浴を楽しみながら、ふらりふらり、ふわりふわり、と飛べると言い出すでしょう。 「日向ぼっこをしながらふわふわと上空に上がります」
 そうして、PLが寝はじめる。
 ゲーム内時間で一晩以上42km以上上昇。

 例えば日光浴飛行を、あるPLにだけ認めて、他のPLには偏西風しか認めない羽目になるという、先々のことを判断してみると。 

 仲良くはいいのだけれども、フェアかどうか。これが判断基準だと思う。

 ですから、TRPGは、PLにもGMにも、どうしても教養を要求する。フィクションの知識を仕入れるだけではなく、雑学的な知識のほうが重要なのです。

 そのうえで、具象として想定した事態を、説得された事態として、処理出来ます。

 罪の意識が全然ないリアル犯罪者PLがどうのの話なので、そこに水準をあわせられても面白くないねと言う話です。犯罪被害者としての話なので分からなくていいです。
 叩く話ではないです。

[TRPG]無敵キャラクター論

 PLのキャラクター(PC)というものは、イマジネーションに偏ると、インスピレーションを不要とする「面白くなさ」の原因です。

 暴論でも、仮定してみれば分かることがあります。

 無敵キャラクターは何がやりたいのかはっきりしないと、作られたとします。それでも、何が面白いでしょうか。

 われわれが遊びをして、面白いと感じるのは、何かの「成功」が喜ばしいフィードバックとして返ってくるからです。もし、いつも「成功」だったとして、それを喜ぶことができるでしょうか。

 キャラクターのイマジネーションとは、PLの「やりたいこと」のバランス、GMのイマジネーションの産物の展開連鎖の「架空世界」へのアプローチ(介入)の傾向、スジというものです。

 PCとは、PLが「やりたいこと」「かかわりたいこと」の、ひいては面白がりたいことと言えます。

 スリルが失われれば、全てをキャラクターの力で乗り切ります。つまり、GMは壊れにくい作りやすい想定しやすいシナリオを作ることが出来ます。これは悪いことです。

 なぜなら、遊びの面白さの価値が簡単に奪われてしまいます。

 このあたりをTRPG論として肝に銘じていただきたい。

 キャラクターメイキングのマンチキンや、PLのサイコロごまかしなどは、僕が批判の根底におくのは楽しめないからであって、楽しい時間を共同で作ることから外れることと同義です。 

 分からない方とは遠慮したいですね。

 分かりやすく言うと、「ルナ・シルバースター・ストーリー」で、所持金がザックザックで、クライマックスにしか楽しみがなくなるような感じ。「風来のシレン」で、永続的に無敵なのがはじめの一度目から。

 分かりにくいでしょうか。

 GMの筋運びにそぐうようにしか進めない、いわゆる「ストーリーGM」が、嫌われるように、「ノンリスクPL」とでも言っていいでしょう。
 アドリヴ演劇に、アドリヴ否定のくびきをかけては、リブレット演劇でしょう。

 この論で言うところで含まないのは、ゲームに、チェスのエチュードのような、仕掛けを仕込むことですが、それは論の対象外としておきます。一般的な遊び方についてです。

 システムデザイナーは、意外性を提案するものと思います。

 シナリオデザイナーが、GMに「壊れにくい作りやすい想定しやすいシナリオを運営させる」よう強要して、ひいてはPLのPCに及ぶのではないでしょうか。

 多くの場合、シナリオデザイナー=GMのパターンがほとんどだと思いますが、この局面が全てではありませんでした。

 GMがオーダーメイドでシナリオを拵えてあっても、市販のシナリオの問題点として、ある局面で有用な無敵ぶり、活躍ぶりが、仰々しいまでに強制されていることは問題です。

 PLが見せ場を作るのであって、PCが活躍するのであって、シナリオデザイナーが仕込みをハデにやらかすと温めるだけのレトルト食品になるんです。