忍者ブログ

GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

[SYS]「キャラクターメーカー」を読んで。


キャラクターメーカー : 6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」

大塚英志 著

ライトノベルやまんが、アニメに登場する「キャラクター」は、作品の成否を決定づけるだけでなく、商品として消費され、あるいは二次創作に使用される。そのようなキャラクターは、どうやってつくれば魅力的になるのか?古今東西の物語理論を自在に応用し、「私」が反映されたキャラクターをつくりだす決定版マニュアル。

「BOOKデータベース」より

[目次]

  • 序 「キャラクター」とは「デザイン」するものではない
  • 第1講 アバター式キャラクター入門
  • 第2講 トトロもエヴァンゲリオンも「ライナスの毛布」である
  • 第3講 手塚キャラクターは何故テーマを「属性」としているか
  • 第4講 雨宮一彦の左目にバーコードがあるのは何故か
  • 第5講 自分からは何もしない主人公を冒険に旅立たせるためのいくつかの方法
  • 第6講 影との戦い

「BOOKデータベース」より



 キャラクターはパーツの順列組み合わせなのか?

 さて、再びウェブ上のアバターに戻りましょう。例えばセカンドライフに参加するためにはアバターが必要ですが、参加者はアバターを自分で、「つくる」ところから始めることが一般的です。しかし、アバターをつくるという場合、大抵それは、あらかじめ用意された体型、髪型や髪の色、目や口や鼻の形、肌の色、服や靴、眼鏡を始めとするアイテムアイコンの中から選択していく、という形をとります。
(中略)
 こういう感覚はしかもウェブ上のアバターだけではなく、最近のゲームやアニメーションにおけるキャラクターづくりの一つの定石になっている気がします。東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で、「でじこ」というキャラクターは、あらかじめ用意された萌え系まんがの様々属性のパーツの順列組み合わせにすぎないと指摘しています。しかし注意しておきたいのは、こういったキャラクター順列組合せ説は決してインターネット環境が成立して以降に新しくでてきたポストモダン的な感覚ではなく、むしろ極めてベタなモダニズム、この国で言えば1920年代の文化的状況に出自があるということです。
(中略)

ロシア構成主義とディズニーのキャラクター形式

 (中略)ロシア構成主義とディズニー的なキャラクターの描き方は、例えば大正末期、村山知義らの前衛美術館『マヴォ』に参加した高見沢路直の手によって図-8のようなキャラクターとして具体化します。図-9のように「のらくろ」に近い犬のキャラクターは「のらくろ」以前にアメリカ産アニメーションの中に描かれていますが、これはキャラクターの借用というより、同じ順列組み合わせ的キャラクター構成法で犬を描いたら同じものになった、という方が正しいといえます。高見沢路直は田川(後に田河)水泡と名乗り、昭和初頭、まんが表現に転じますが、それは前衛美術から統合を実践して、「まんが」という表現に行き着いてしまったのだと考えた方が正解でしょう。
 順列組み合わせ説について一点補足しておくとすれば、キャラクターを構成要素に還元する、という考え方は、アメリカにおいては1970年代に成立したTRPGに起源が見いだせます。TRPGプレイヤーが自ら演じるキャラクターの外見だけでなく、出自や数値化された能力などを、ダイスを振ることで、もしくは任意に項目を埋めていくことで決定していきます。コンピューターゲームのRPGの冒頭でもこのようなキャラクターづくりをまず行なうことがあるのは、言うなればTRPGの名残りでもあるわけです。アバターという概念を最初にウェブ上で用いたのは「ハビタット」だと記しましたが、先の引用したのと同じ論文で開発者は以下のようにも述べてます。

 ハビタットを作るきっかけは、昔のコンピュータハッカーSF「TrueNames」(1,Vernor Vinge著)から来ている。もちろん、子供の頃のごっこ遊びや、もっと最近のロールプレイングゲームや、その他もろもろの経験が生きている。それに、ちょっとのまぬけさと、サイバーパンク(2,3)とオブジェクト指向プログラミング(4)の味付けを施した。(*4)〈傍点引用者〉

 アバターのつくり方にTRPGのキャラクターメイキングの影響があったとまでは言ってませんが、やはり両者は地続きであると考えた方が自然です。


 ストーリーが順列組合せだという分析には、僕もコミットしています。
 [SYS]戦闘システム論からTRPGの物語論。 
 [SYS]メタゲーム論02

 TRPGでは、たしかにキャラクターのアバターと呼ばれるたぐいのランダマイザーやロール・オア・チョイスが用いられたりはします。最近はアーキタイプや、パッケージの組合せを使っています。
 ただし、昔も今も、プレイヤーが自分のキャラクターの背景設定を作り込むことは推奨されて行なわれています。TRPGは単純なスゴロク作成のキャラクターを仮に用いたりすることもありますが、シナリオを進めていくうちに、必ず、作成以前の設定が求められてきます。親や兄弟がどうしたという話のたぐいが求められてきます。

 ですが、類型だけでは、作家性やメッセージ性が本当に失われるという実験を大塚さんはしていないようです。
 [つれづれ]「ファンタジーの文法」で触れたように以前、僕は実験しました。

 ですから、ストーリーが順列組合せである、キャラクターも順列組合せであるということについては、コミットする姿勢が違います。
 順列組合せだけでは作家性が得られないということが僕の実験の結果です。

 作家性や「私」には、ストーリーの順列組合せは道具であることについての見解は同じです。そこから先に、テーマやメッセージ性を盛り込まなければ、結局、創作上の「なぜつくるのか」という問題を解決しません。そこが、「誰にでも創れる論」の限界です。
 キャラクターがアバターで順列組合せだという論においては、TRPGでさえも、キャラクターに背景設定のストーリーが求められる実情を把握していないのでしょう。

 TRPGでは、キャラクターシートのイラストや、「フォーチュン・クエスト」のお面というか頭飾りがあります。これは、他のプレイヤーさんに描いてもらったり、自分で描いたり、描いてあげたりするレッテル(ラベル)的な仕組みです。つまり、コミュニケーション上のアイコンです。(「フォーチュン・クエスト」では、頭飾りをすげ替えて遊ぶことも見られました。言いたくもないことを頭飾りをすげ替えて言わせたり、やらせてしまうギミックでした)
 これは、キャラクターのアバター(表面・内面)が、その内包する順列組合せを表示しないということです。

 TRPGでは、キャラクターは、ペルソナ(仮面)を使った、ミミクリ(模倣)の遊戯の仕組みです。
 ペルソナは、能面という日本文化のコードだけでも、組合せとはとても思えないバリエーションが確認できるでしょう。例えば、このペルソナと決まった曲目で、能が演じられます。そして、その鑑賞形態や鍛錬の披露が行なわれます。表現の余地はないかどうかと言うと、確かにあります。「遊びの現象学」を読んで。 の西村清和先生の論である、遊び=遊隙で括られます。
 ミミクリ同様、ストーリーの類型論も、遊び=遊隙で括られます。

 類型論を辿るストーリーをキャラクターが征き、キャラクターには類型論で語れる背景のストーリーが流れる。
 キャラクターの構成要素はストーリーであるから、結果、キャラクターが類型論でカテゴライズできるかのように錯覚させられてしまいます。直截に言うと、僕のこの感想は、

 「誰にでも創れる論」の限界がないように錯覚させる
 手品
の種明かしという指摘です。


 手品の種を知っていたとしても手品師にはなれないでしょう。これは個人的な感想です。
 こういった手品にコミットできる方は古今東西のキャラクターの類型をどうぞ蒐集してください。プロップやトンプソンもそんな壮大な作業はされていません。


PR