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マカロニだけではない西部劇ホームページの日本の西部劇ネットシーンの最古参サイト、Wide West Webの10周年オフ会へ、行って参りました。
直木賞作家の逢坂剛先生はじめ、ガンエフェクトやミリタリー雑誌で西部劇を紹介しているD先生、T先生、西部劇熱狂の先生方、が、集いました。最高齢80歳オーバーで、僕が最若年。
西部劇伝道のサーキット・ライダーに加わりまして、楽しいながらも緊張の時間を過ごしました。みなさんの横にいるときは必ず右手にいました。
日曜は、くたりとしながらも、興奮冷めやらず。
今日はF先生が、当店に赴いてくださり、西部劇のTRPGの製作について、資料一覧を今度持って来て下さる旨、また、僕の手持ちの洋書で重要な書籍について歓談しました。オールド・ツーソン巡礼にいかれるとか。
さらに、D先生からはハートフォードのSAAを一丁温存してくださっているとのメッセージが、来ました。ずいぶん温存してくださって、ご厚意に感謝しました。
弾丸の分布は精度によって変動する。これは正規分布と互換があるので、乱数に応じて基準距離での誤差を、誤差積分すればよい。
(距離の扱いは、基準距離に比例する。)
図は何もバイアスがかかっていない場合。6面体と10面体で、ズレ角をだす。時計の分数と同じなので、すぐにお分かりになると思う。
この方式は、以下のようなDVDの印刷したキャプチャ画像(ターゲットシート)に透明のOHPシートに印刷することによって命中、命中部位、命中数を求めるものとしていた。
これに対し、効果スクリーンを下敷きにすることを考案、狙点を共通化せずに、別個のターゲットシートとサイトスクリーンを置き、同じロールの出目で「効果」を確定することとした。もちろん異なる精度(能力やスキル)で一気に処理する。
つまり、一度のロールで、「効果」も狙って判定してしまう。
イニシアティブ、命中精度、攻撃回数、隙などを、一括してしまう。
この運用は、スカラー場とベクトル場の合成を、幾何学的な意味で行える。
「箱庭型シナリオ」の数量化にも応用でき、単純に大小で表された「効果値」ではできない次元を提供できる。
スカラー性、ベクトル性の要素をフラグとして立てれば、CRPGくらいしか出来ないGMのマスタリングの補助と出来るのではないか。
自由と管理は混ざらない+魔獣戦線の件(鏡さん)
GMの管理で論じているのは、AかつC。
自由なプレイングで論じているのは、BかつC。
ABとABCについては論考の対象にはなっておらず、ACからA(ABとABC以外)の論考を、BCからB(ABとABC以外)の論考を行っていると考えるべきなのか。
論考の解釈者はABとABCの理論展開を望んでいるのだと思うが、その折り合いはないという主張ならば、合意はないと思う。
今後、論考で触れる、
>このカテゴリーは、あと二つの記事で当初からの執筆予定を終了します。ひとつは「そこそこ自由なゲームプレイ」と題し、「自由なゲームプレイ」における「自己管理」について述べます。もうひとつは「自由と管理の混在」として、「自由」と「管理」とが明確に分かれていないゲームプレイではどうすべきか、について考えます。
とされていますが、管理と自由の下のTRPGは混ざらないと断定しているのですから、この図の枠外に当たる結論なのでしょうかねえ。
荒業として、図の内容をあらかた変えてしまう方法に出るとして、何が入るのか気になっています。
自由度という概念論を、自在度と言い換えてみる。
まず自由自在という言葉から、自在という連想が来ると思います。
自在には、他在がありまして、鏡さんの「管理する」という言葉から、他在が想定されていることは想像に難くない。
哲学的に言えば、さらに実存とか、頽落とかいう連想語を伴ってしまうが、そういう構築の原始的な段階の自在と言い換えれば話は通じるのではないか。
西部劇のRPGを作る。まず、西部劇についての考察から始めねばならない。
西部劇はアメリカがペーパー・バックス(三文小説/ダイム・ノヴェル)時代に入ってから隆盛を極めたジャンルであり、1860~65年ごろ流行した。なんとこの5年間に約500万部を売ったとされる。この中にはデッドウッド・ディック、ハリケーン・ネル、カラミティ・ジェーンだとかバッファロー・ビル(実在の人物、本名ウィリアム・フレデリック・コーディ 1846 ~1917)を主人公としたネッド・バントライン(1823~86)の作品など有名なものが書かれた。
まずこの時代、エンターテイメントとしてこのジャンルは確実に大衆文化の中に地位を築いた。
この後、このジャンルは幾つかの潮流を辿ったようだ。まず一つは単純な娯楽作品として『勧善懲悪の劇画的なもの』。第二は現実主義的に西部世界を考察し、『歴史過程の問題をテーマとするもの』。第三は、そう言った問題から逃避する形で『ロマンティックな幻想世界として描くもの』である。
20世紀近くには一連の捕虜物語といった自然回帰、および文明批判をテーマとするもの、人種問題という深刻なテーマを描くものが現れる。
日本人にとっての西部とは、明らかに異質で架空として移る世界であり、おもな情報提供者は映画であり、ヴィジュアル性の強いジャンルである。人種問題は日本国内に現にあるにも拘らず、それを自分達自身に関わる問題として受け取ることができない。我々は西部劇をエキゾティクさ、アクション、または異国の精神文化への憧れについて評価するのだ。これは非常に残念なことであるが、アプローチの大きな手掛かりとなろう。
世界叙述の方法はいろいろあり、また、どれか一つに頼ることもできない。しかし基盤は大切である。哲学的世界観によれば文化の類型は、『実在文化』『価値文化』『社会文化』とされる。
年表は不可欠だ。まずこの激動する時代をとらえるには、戦史、技術史、政治史、などの時間軸が必要かもしれない。その他に宗教、人種、経済上の価値観を明らかにし、生活臭漂う世界として奉り上げなくてはならない。
しかし19世紀の歴史ガイドを書くわけでもないわけであるから、このRPGに必要であるか否かを常に注意する必要がある。
一番大切なことは『映画』の紹介であろう。これが現実を人工的に脚色したものであるにせよ、結局はRPGも同じ架空のジャンルなのであるから、大いに資料として役立てることができる。
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西部劇の現像済みフイルムが手に入ったら買ってもいいくらい。
ちょっとしたオブジェには、なりますね。
音声は多分でないと思うけれど。
もう一つこのシリーズで欲しいのが、スターリング機関のモデル。