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F | 1 |
VHS
RUSTLER’S RHAPSODY
監督
ヒュー・ウィルソン
出演
トム・ベレンジャー
G.W.ベイリー
コメディ西部劇で、VHSのみ。DVD化されていないらしい。
ペヨーテ(サボテンの根っこ)で、トリップするシンギング・カウボーイ・パロディ。
夕陽のガンマン
PER QUALCHE DOLLARO IN PIU
FOR A FEW DOLLARS MORE
1965年イタリア・スペイン
監督・原作・脚本
セルジオ・レオーネ
撮影
マッシモ・ダラマーノ
出演
クリント・イーストウッド
リー・ヴァン・クリーフ
ジャン・マリア・ヴォロンテ
関係 |
賞金稼ぎのモーティマー元大佐(リー・ヴァン・クリーフ)は50年も稼業を続け賞金首を上げてきた。時々何かを持って耳に手をやるしぐさをする。 |
変化 |
モーティマーは奪った金をサドルバッグに移し変え、箱の中に手配書を入れ、カギを閉めなおす。名なしはサドルバッグを持って屋根の瓦を元に戻してでるが、見つかってしまう。モーティマーも同じく見つかりリンチにかけられる。 |
解釈 |
コメント |
個人が特定しにくいよう、加工して見ました。
展示されていたチャックワゴンのミニチュア作品。
F先生が当店に御越しの際、「男の出発」をご参考にされてはいかがでしょうと、ご助言させていただきました。
真昼までの一時間、男はもう一度だけ保安官のバッチを胸につける
カメラ、音楽、シナリオ、演技、この映画が公開された1952年の映画で、まぎれもない傑作だ。
アカデミー賞主演男優賞、音楽賞、歌曲賞、録音賞に輝き今でも作品の力は失われていない。
この映画のもつ輝きと人間ドラマの収束は半世紀すぎた今でも観る者を魅了して、本当の映画の面白さとシリアスな展開は現代の映画を大きく突き放して、娯楽大作と呼ばれる現在のハリウッド映画のアンチ・テーゼとして君臨する。
90年から00年代に製作されたハリウッド映画が、何故今、飽きられてきているのかを、おなじハリウッド映画たる本作「真昼の決闘 HIGH NOON」が教えてくれるのは、なんと言う皮肉な事だろう。
舞台はハドリービルという小さな町、保安官のウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー)はエミー(グレイス・ケリー)との結婚を境に保安官を引退して、他の町で平穏に暮らそうとしてた。
祝福してくれる町の知人、友人たち。その結婚式の最中にもたらされた電報は、祝賀ムードを打ち消すには充分な内容であった。
かつて逮捕したならず者フランク・ミラーが保釈されて、仲間と共に正午到着の汽車でそちらに着く。
ケインは、町のため友人のためにと、銃を手に町に残ろうと考えるが、エリーに説得されミラー一味が到着する前に町を去ることにする。
街道をはしる馬車を操り急ぐが、元保安官としての誇りか、男としての意地だろうか、ケインは町に戻った。
再び保安官のバッチを胸にするケイン。
しかし、町の住人たちは必ずおこるだろう撃ち合いを恐れ、ケインに味方するものは誰もいなかった。
決闘の時刻となる時間軸と、ケインの心の葛藤が丁寧に描かれており正午までの一時間が、人間としての有り様と社会風刺に満ち、ラスト・シーンで堂々たる作品太さを見せてくれるだろう。
まさしく時代をこえて受け継がれるべきタイトルである。(転載:リバティー店主たの)
「アート」とか、「オブジェ」とか、日本では恭しく尊ばなくてはならないものという意識が強い。
実際上は、「アート」には「技巧」という意味があったり、「人工物」を連想したり、オブジェには「ブツ」という意味合いがあって、てんぷらにした腕時計や携帯電話を「アート」だの「オブジェ」だのと美術館に飾られていたりする。
なぜか若者でも、そうしたものに拝金主義に似た「お芸術コンプレックス」があって、庶民には手が届かない高尚さを持っているのだという価値観がある。
本来、人間自体が芸術の源泉で、出力された表現を評価するのが芸術であって、高嶺の花ではない。
TRPGで、馬場さんがアマチュアによる幼稚な世界設定製作を販売戦略の欠点だと、指摘しているけれども、それが高尚で大変な作業だとは僕は思わない。
芸術に携わる人に何人かに接触したけれども、芸術家も酒もやればタバコも吸う。クソもするし屁もこく。ご飯を作ってあげたら喜ぶ。面白い話もすれば、愚痴もこぼす。
TRPGのプレイヤーがその輪の中で役割演技をするのは、砂絵のようなもので、掻き消えてしまうようなものだけれど、きちんとした「お芸術」だと思う。
このコンプレックスは、弊害も生み出していて、TRPGは単に選択肢を選ぶだけのゲームとして、誰でも人を選ばず、はた迷惑でもメンツ集めにこだわるなんてこともある。
ウマの合わない人とお芸術をすることは、天才ピアニストのリヒテルとクライバーでさえできなかった。指揮者もスコアもあって、互いが醜い喧嘩。
それだけ本来はハードルの高い共同芸術がTRPGなのだけれども、観衆のいないコミュニケーションの枠内での砂絵なのだから、「お芸術にびびるな」と主張したい。
言葉を選ぶならTRPGゲーマーはアーティスト。
もっと自信を持てばいい。
どうして、卑下したり鼻つまみ者である必要があるのか問いたい。