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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[つれづれ]遊びコミュニケーション上の「エコ贔屓」と「ツマ弾き」

 遊びというコミュニケーションにおいて、「エコ贔屓」と「ツマ弾き」は、なぜ起こるのでしょうか。

 当方の個人的な見解では、遊びもコミュニケーションである以上、好意・嫌悪や尊重・軽蔑の表明の場です。そのため、理不尽で不当な「エコ贔屓」と「ツマ弾き」は、極めて人間的な領域にあります。これが、起きることは当然で、その解決は当方は持ち合わせていません。

 『問うことは、思索の敬虔さなのだから』とハイデガーは述べています。
 ならば、どうしたら楽しくなるのか、遊びの中でのコミュニケーションを試みることが、遊びへの敬虔さだと思います。


 まず、遊びは遊びだけで成立する、人間のコミュニケーションの一種である、と仮定します。

 対人関係には

 「良いところを見出して指摘してくれる」
 「気に触ることを言ってくる」

 「借りたままのお金を待ってくれている」
 「借りたお金を返さない」

 「趣味に合う話題を深めてくれる」
 「生理的に受け付けない趣味を押し付けてくる」

 などなどから由来するの感情要素があります。

 「車椅子生活で大変そうだ」
 「ガンの痛みをこらえても参加してくれている」
 「麻酔療法をするくらい重度のうつでもロールプレイでは明るく振舞っている」

 などなどから由来する尊重の感情要素もあります。
 逆に、軽蔑の感情の要素もあります。

 遊びにこの対人関係を持ち込むのは、フェアではないと言えるかもしれません。しかし、「エコ贔屓」と「ツマ弾き」は、二人からの人数でよく発生します。

 将棋で有名な先生がある作家とうったときに、「僕、〇〇に『銀』をはられたら、困っちゃうなあ」と呟かれたそうです。
 身近でも、麻雀をしたときに、僕が当たり牌で振込むはずなのに、アタマ越しをして見逃されたことがあります。
 遊びは遊びだけでは成立していない、人間のコミュニケーションの一種であることがわかります。


 遊びのコミュニケーションは実力が均衡しているようなシーソーの関係であって初めて成り立ちます。遊びでは、遊びの腕前なり、積み重ねてきた経験なりが、均衡していて、ルドゥスあるアゴンを楽しめるのです。それなしには遊動関係にならないのです。

 遊びのルドゥスあるアゴンを理解している相手であると「解釈」して、結果、白熱した真剣な遊びを行うことができます。そのような遊びは、僥倖であって、喜ばしい神聖な機会なのです。

 逆にパイディアなアゴンを楽しむにも、おふざけぶりの均衡があります。これも、白熱した真剣な遊びと同じ貴重な僥倖であって、また喜ばしい神聖な機会なのです。おふざけぶりから逸脱すれば、スベったと、受けとられて冷ややかな対応を受けます。

 均衡関係にあることは遊びの成立要素です。

 翻って、対人的コミュニケーションは、まず、「関係」があって、「変化」して、「解釈」される繰り返しであると捉えられます。「解釈」されることで、また新たな「関係」を構築していきます。

 遊びのコミュニケーションもまた、対人的コミュニケーションと変わりません。同じように、「関係」「変化」「解釈」の繰り返しです。

 遊んだのに人づきあいもしないで、他人をゲームキカイとして扱ったりすることや、逆に、人づきあいの延長と騙って、遊び仲間にお金や労力を借りるための口実に、マルチ商法や宗教勧誘に誘ったりすることは、遊びへの敬虔さとは、両立しません。
 人と遊び楽しむという点において、目的が均衡しないのです。どうすれば餌食にできるかという、「解釈」を導いているだけです。

 もし、遊びが楽しめなくて、一緒に遊ぶ人のせいにするなら、遊ぶ人を説得して遊び方を変えればいいし、それでもダメなら遊ぶ人を選べばいいのです。
 ただし、選んだため、つまり他人を爪弾きにしたために、嫌悪されるならば、自分の責任です。コミュニケーションを拒否したならば、嫌悪されてごく当然だからです。

 「放っておくことも含む気遣いや力になる配慮」
 「存在して成長することを認める意味での尊敬」
 「応じる責任」
 「その人への理解と知識」

 人を愛するこういった能力を磨くことは、遊びのコミュニケーションでも大切な事です。もちろん対人的なコミュニケーションでも大切な事です。


 もし、障碍を抱えて苦しんでいる方と遊ぶならば、このコミュニケーションの次元で生まれた、人類が大切にしてきた大きな課題への挑戦です。期待されていることを喜びとして、取り組んでみてはどうでしょうか。
 以上、参考になればと思います。

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[WESTERN][資料]西部劇クラシックス

 昭和52(1977)刊行。
 ウエスタンユニオンの会では「マスケンさん」こと、故増淵健先生の本です。スチールから起こしたモノクロ光沢紙ページが厚さの半分を占めています。

 本文ページは少なく、「西部劇カタログ」としてヒーロー人別帳、悪役インディアンの背景として登場する西部劇を挙げておられます。
西部劇クラシックス

[WESTERN:GUN]世界の銃器 コルト拳銃編 S&W銃器編 Gunコルトのすべて


 

 R.L.ウィルソン氏監修です。カラー写真が多くカタログ性が高いです。コルト社の歴史についても書かれています。シリアルナンバー表は初めて見ました。
 R.L.ウイルソン氏の研究は、以下のものです。気難しそうな学芸員のような風貌ですが、気前のいいおじさんらしいです。SAAのティファニー・グリップの型取りを許可してくださったりとか。
 アメリカン・アンティーク・ファイヤアームズの権威。

Amazon  

最近のお仕事。

WilsonBooks celebrates the History, Artistry and Adventure of Fine Firearms



 

 

 S&Wです。ボルカニックライフルを含みますので、「銃器編」とされているのでしょう。カラー写真が多くカタログ性が高いです。S&W社の歴史についても書かれています。



 

 コルトのリボルビングライフルも載っています。


 

 


[GUN]GUN1月別冊Part5GUNのパワーとメカニズム


1990年刊。

 伝説的な現代ガンマン、俳優さんでもおかしくない雰囲気のあるセル・マーク・リード氏のガンプレイが特殊撮影も含めてカラー写真で載っています。

 氏は現在「ずいぶん肥えていた」との噂があります。真偽はいかに?

 カタログ性はなく、競技において使われる場面でのシチュエーション性に重点が置かれています。


[GUN]GUN1月別冊Part4世界の名銃シリーズ

GUN1月別冊Part4世界の名銃シリーズ

 1989年刊。

 リボルバーからオートマチックまでのピストル。カタログ性の高い本です。

 コルトSAAのフィールドストリッピングが3枚の写真できちんと載っています。展開図、断面図。コルトのバリエーションの写真も豊富です。
 カタログ性は高いのですが、私の好きな「モーゼルHSc」がないので、いまいちな感じです。


[TRPG]ゲーム性がこの世に本当にあるならば

 TRPGをデザインするに当たって、一体、何がゲーム性かを考えてデザインしなくてはならないのは当然だと思います。

 池波正太郎先生が、仰るところによれば、

「やれ、芸術でござい、なんでございと偉そうなことを言ってもね、自分が書いたもので金を貰って、それで暮らしているんですからね、これは商売なんですよ。
 自分で書いたものを自費で出版して、ただで人に配ってというなら、これは何とでも好きなように言えばいい、芸術でございとかね。だけど金を貰って生活している以上は商売なんだから、客が喜ぶものでなくてはなりません。そうじゃありませんか。」

 TRPGのユーザー(GM、PL)は、互いにお金のやり取りや商売をしていないのですから、彼らは彼らなりに、楽しめばいいのです。やれ、芸術でございとやってもいい。その場に観客がいるわけでもないので、内輪ネタのユーモア、パロディ、パスティーシュを発揮してもいい。

 TRPGをデザインする立場は違います。
 TRPGの開発は、単一の個人から生み出すことはどうしてもできなくて、テストプレイを必要とします。模倣や全く簡略したものならば、その必要はないかもしれません。しかし、TRPGに新しい試みを仕込むときには必ずテストプレイが必要になります。
 そのテストプレイは協力してくれる方の時間と労力を奪い取ります。
 いかにTRPGに対して愛情を持っているとしても、TRPGの新しい試みへの挑戦は多くの場合、徒労に終わりますから、犠牲者を出してしまうようなアイデアには協力は得られません。

 そのためには、TRPGをデザインするにはある種の哲学、ゲーム性への見解が必要です。
 人を説得できるゲーム性へのアプローチが分かりやすく説明できなければなりません。

 私は、演技つまりロールプレイ(RP)のシークエンス(並び)を、いわば高い役に揃えることは、ストーリーの構築とゲーム性との間に矛盾のない親和性があると主張します。
 ロールプレイの積み重ねにおいて良い並び、良いストーリーに揃えるのはゲーム性と何ら背反しないと思うのです。

 ゲーム性というものは、TRPGのように勝負や儀礼の要素がなければ、遊びを指します。
 本質的に遊びとはカラクリ(機械)のなかの隙間に遊ぶものです。

 サルトルが世界劇場という説明をして、世界はペルソナを被って演技されているだけだから、そこから抜け出すという論法で自己実現を説きました。しかし、私は世界が演技だらけとは思わないです。

 この世界がすべて問題解決で成り立っているような論法にも同意できないです。ひとは皆、狂気におかされたり、忘却されたり、死ぬことによって、自らの手で得たものをすべて失うという結末を分かっています。

 遊びとは人生の真剣な張りつめた営みの隙間で、一種の幸運な遭遇によって生み出される営みです。
 遊びとは、遊びであるという互いの了解的な笑顔つまり楽しみ合う心のもとに、機会を捉え、機知を駆使して、機運をつかみ、機微や機転を働かせるものだと思います。
 勝負や儀礼の要素がないゲーム性は遊びの根底と一致しているのだと思います。

 何がゲームを成り立たせているのか。この内訳は遊びを楽しみ合うという心が核心です。ネコやイヌであってもこれは同じです。

 ですから、私がTRPGをデザインするに当たって第一のアプローチは、機会、機知、機運、機微、機転の余地を作ることによって、遊びを楽しみ合うという心を、一番大切にすることだと思っています。

 これをゲーム(G)とすると、RP÷Gでは必ずG>0であってGが0では成り立ちようがない重要なことだと思います。
 面白くて楽しいゲームを論じることには、ゲーム理論を持ち出したりするようなことより、重要なことになると思います。そして、TRPGの楽しさを伝えるヒントにもなると思います。

2011.5.27追記

 遊びというコミュニケーションは、対人的なコミュニケーションとは別の様式のコミュニケーションだと思います。
 芸術作品へのコミュニケーションが同じようにまた、対人的なコミュニケーションとは別の様式と考えれば、仮象論的二重性を論じることなく、説明ができますし、何よりも感覚的に納得出来ると思います。芸術作品を鑑賞する行為は、何も分裂したり、二重化された、倒錯ではないからです。
 遊びも、分裂したり、二重化された、倒錯ではなく、人間的なコミュニケーションのうちの一形態だと考えられます。

ゲーム性の仮説(メモ)

「遊びの現象学」を読んで。

コベントリー・ジレンマ(Coventry Dilemma) 

戦闘システム論からTRPGの物語論。

私のゲームを遊ぶメタ[個人メモ]

RP/Gとはなにか。


{WESTERN:GUN]世界の銃パーフェクトバイブル



 銃器のカタログ性が乏しいのは他の本に譲るとして、Q&Aや年表、メカニズムなどをきちんとした用語で説明している本です。
 嬉しいのはストッピングパワーの数式が表記されていることです。
 



図解ハンドウェポン

大波篤司著

図解でわかる拳銃、ライフル、機関銃などの銃器ガイド。

「BOOKデータベース」より

[目次]

  • 第1章 基礎知識(銃はどんなカテゴリーに分類されるか?
  • 口径は大きい方が強力か? ほか)
  • 第2章 拳銃(拳銃とはどのようなものか?
  • ピストルとハンドガン、どっちが正しい? ほか)
  • 第3章 ライフル(ライフルとはどのようなものか?
  • ボルトアクションライフルは連射に不向き? ほか)
  • 第4章 機関銃(連射できる銃はすべて機関銃か?
  • 機関銃はどうやって固定するか? ほか)
  • 第5章 ショットガン・その他(ショットガンとはどのようなものか?
  • 「12番ゲージ」とはどのくらいの大きさか? ほか)

「BOOKデータベース」より




 こちらは似たような表紙で一回り小さい本。一般読者向けの物書きさんのための資料と思います。いろいろ、書かれていることに例外が見受けられます。著者の方もその点苦心したようです。一般の鉄砲をよく知らない方に向けて書かれました。
 用語などは、一般に流布している言葉に修正されたそうです。カタログ性はなくて、Q&Aをイラスト図版で説明しています。


[WESTERN]アメリカ先住民 戦いの歴史


図説 アメリカ先住民 戦いの歴史

クリス・マクナブ著 ; 角敦子訳

ヨーロッパ人の新大陸開拓から19世紀末までにいたる、アメリカ先住民の戦闘をさまざまな視点から多角的にとらえ、詳細に分析。布陣図、地図など、200点を超える写真と図版を収めた。馬や銃器の導入からもたらされた根本的な変化、平原で騎乗のスー族が使った一撃離脱戦術、ブラックフット族の襲撃者が築いた戦闘小屋、チェロキー族をはじめ、広範囲の部族が得意とした偽装と隠密行動のテクニック…。主要な戦闘や軍事作戦をわかりやすく図解し、先住民の戦士たちの世界に読者を導く。

「BOOKデータベース」より

[目次]

  • 第1章 東海岸の部族
  • 第2章 北部の部族
  • 第3章 平原の部族
  • 第4章 南西部の部族
  • 第5章 西海岸と高原・グレートベースンの部族

「BOOKデータベース」より


 内容はカラー図版が多く、「わが魂を聖地に埋めよ」に比べると、詳細な情報には欠けるけれども、戦争史としては先住民がなぜユーラシアやアフリカの戦争の伝統と異なる戦いをしたのか。
 戦法や戦争勝利の概念が、根本的に異なっていたことを明らかにしてくれます。

 一方でマニフェスト・ディスティニーの考えのもとに、戦争勝利の権限を絶対的なものとして押し付けてきた論理がやっと理解できました。