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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]さらば、馬場理論よ(3)「役割の分担ではなく演技」

 

ロールプレイングとは役割分担ではなく役割演技である。


 、「初心者のためのRPG入門」で、語られるような、役割分担ではない。もし、役割分担がロールプレイならばサッカーのポジションについての説明にもなってしまい、サッカーはロールプレイングだという、頓珍漢ぶりの論法になります。
 オセロの白プレイヤー、黒プレイヤーも役割分担だといえてしまいます。
 さらに言えば、役割分担ならば、GMが相手をしてくれる少人数が好ましく、最も楽しいことになります。役割分担の振り分けが一個のプレイヤーが担当すればいいのですから。

 TRPGの目標が物語であれば、きちんと理屈が通ります。
 展開の連続が物語である。物語には価値ある物、価値のない物、受け入れ易い物、受け入れ難い物などがあります。
 問題解決もなく、ただ水溜りの鉄釘が錆びるだけのプロセスも、(価値のない)物語です。
 なぜなら、われわれ人間のものの見方は、「因果」で、つまり「原因と結果」で見るようにできているからです。これは人間に備わったものの捉え方の「型」だからこそ、です。

 さらに、物語を目標とするコミュニケーションのツールとするならば、「役割演技」の重要な鍵は示されます。

 物語とすると、関係があり、それが変化し、それを解釈する。
 このとき、役割演技とは、以下の構成になります。

 GMは各PCに立ち位置を与えます。

 もちろん、ハンド・アウトを投入するのも、各PCに立ち位置を与える「関係づけ」です。
 プロセス(展開)によって立ち位置を与えるのも、確定要素から遠ざかることでディテール(詳細)を求めて、各PCに立ち位置を与える「関係づけ」です。

 その関係付けの変化のPCの解釈とは、他ならぬPL(人間、それも互いの配慮の関係上にいる)の解釈のうちPCに適用される部分です。
 そのPCへの適用が「ロールプレイング」であり、役割分担のことでは決してない。「役割演技」です。

 PCには、存在論的に指示が与えられます。その指示は、さまざまな連関を伴い、単純に函数に収まらない。TRPGは具体的な存在論的環境世界を具体的に処理する以上、その連関はさらに恣意的なものです。
 現実より恣意的である「因果」の記述は物語です。現実より恣意的である行動は「演技」です。

 この役割演技説に基づいて、

 恥ずかしい思いをしたかったりしたくなかったりする意思表明でもある「レッテル・システム」
 物語の司会進行のGMからの指示である「コンダクト・システム」
 わざと失敗したり成否のあり方を演技できる「五線譜判定」

 などをデザインしました。

 たしか、「役割演技」を評価する方式もいい、と、馬場氏は述べていますが、「役割演技」を否定していて主要な楽しみではないとしているのです。馬場氏は単に逃げ口上で考察に組み入れませんでした。

 こちらは、「役割演技」こそが、主要な楽しみであり、その腕前は、物語を目標とするコミュニケーションのツールとする以上、PL自身の配慮・気遣いのできる人間性の深さやインスピレーションにこそあるとします。都合のいいことに、これは創造性が重視されることにつながるのです。

 さらば、馬場理論よ!


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