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伏見先生のツイートから。
ロール・プレイは、他の人々の立場やパーソナリティという点から「憶測し直すこと(Second-guessing)」が特徴で、他のゲーミング・シミュレーションとの大きな違いだとされます。
TRPGはこの要素を引き継いでいます。
一方、「感情移入(empathy)」という心理学用語は、「同一視」のカテゴリーに入れる精神分析学の学者もいます。
いわゆる、TRPGの「なりきり」プレイは、プレイヤーが、(どこまでがゲームメカニクスの面白さかな、とか、どこからは思いやりや盛り上げに依存しての面白さなのかな、相手が好きな人だからという楽しさかな、という疑問や穿ちを持ってしまう程のものは)ゲーム上のリアリティーを生み出そうとする試みだと思います。
「なりきり」プレイが失敗するとゲーム上のリアリティーを得られないことになります。この失敗は、行き過ぎた「感情移入(同一視)」そのもので、Second-guessingを意識しない、ないし、そこから逸脱してしまう点にあります。
衆目を集めた中でのロール・プレイが「金魚鉢」状態(ゲーミング・シミュレーション用語)になることがあります。なりきりが「感情移入(同一視)」として色濃く現れると、日常世界にも、TRPGというゲーミングの領域にも、当てはまらない情念の世界を生み出して、異質な「金魚鉢」を形成してしまいます。
ですから、リアリティーを求めていくには、舞台演劇論とは違う、Second-guessingを前提にした演技が必要だと思います。
また、TRPGのゲーム上のリアリティーをどこまで求めるかという合意プロセスが、ルール化されて来なかったことは、結局「なりきり」プレイを善悪二元論で捉えていく感性的な次元のアポリアに陥らせました。
これは、ゲーミング・シミュレーションの見地から、プレイヤーがTRPGのリアリティーを求めようとする試みであったと解釈すべきでしょう。
プレイの一手段としては、あくまで提案として面白さを求める姿勢であって、「遊びに対する真面目さ(遊びにとっての善)」が動機だと受け取れば、失敗しなければ何ら問題なく、かえってTRPGには歓迎すべきもの、挑戦するにも価値があるものだと思います。
もしかすると、TRPGにおける役割体験、ロールプレイ、なりきりプレイのうちにある一種の遊び感覚は、ゲームの構造において、リアリティーを介入させるか、どのくらい求めるか、という合意プロセスを暗黙に探っていくのが楽しいのかもしれません。
僕の考え方では、これを顕在化したのが、レッテル・システムで、軽いT&Tへの搭載で成功しています。
現在のデザインはこんな感じです。
ダウンロード(pdf)
参考.
感情移入の理論
期待は、現在ここにないことについて決定を必要とする。ゲームには、将棋のように、感情移入の能力を必要とするものがある。自分の差し手の結果に期待を持ち、その期待によってゲームを進める。
感情移入の概念が意味があるというのは、将来を予測し、自分自身の行動、続いて起こる他人の行動、それに続く自分自身の行動の関係を予測できるからです。行動する前に、その行動に影響を及ぼす他人について、いろいろな期待を持つもの、これが感情移入の意味です。
二つの理論があって、共に、
期待の基礎資料は、人間がとる物理的行動、すなわちメッセージであるとしている。
また、内的な心理状態を予測するには、観察できる物理的行動をもとにするということ、さらに、人間は物理的な行動を表示するためにシンボルを使い、かつシンボルを操作して予測するということは一致している。
ちがいは、
3つの仮定において、肯定するか、否定するかだと、バーロは説明する。まず、感情移入の推測理論(inference theory og empathy)があります。
1 人間は自分自身の内的状態の証拠を直接把握するが、他人の内的状態は間接にしか把握できない。
2 ある内的状態を表現する際に、他人も自分と同じ行動をする。
3 自分自身で経験したことのないような他人の内的状態を理解することはできない。すなわち、自分で経験したことのない情動や思考などを理解することはできない。
以上が、感情移入の推測理論の中心問題です。TRPGの感情移入(同一視)が異質な「金魚鉢」になってしまうのは、3 自分自身で経験したことのないような他人の内的状態を理解することはできない。すなわち、自分で経験したことのない情動や思考などを理解することはできない。に当てはまると思います。
ミードによる、社会科学に基づく「役割取得理論(role-taking theory of empathy)」では、
1 自己についての概念は、コミュニケーションに先行するものではなく、コミュニケーションをとおして形成されるものである。
2 役割取得の最初の段階では、幼児は何の解釈もできないまま、他人の役割を実際に演ずる。
3 役割取得の第二段階では、幼児は理解しながら他人の役割を演じることである。
4 役割取得の第三段階では、子どもが実際にではなく、シンボルによって他人の役割を演じはじめる。
5 やがて、一般化された他者の概念をもつ。一般化された他者とは、取得された抽象的役割であり、ある個人が集団の他のすべての人の個々の役割に共通する一般的なものについて学習したことがらの総合である。
これを持つことによって、自己概念というある状況において自分のとるべき行動についてもっている期待の集合を成立させる。自己概念とはコミュニケーション、他人の役割の取得、コミュニケーションの対象としての自分自身に対する行動、一般化された他者の形成などをとおしてつくられるのである。
バーロは、推測理論と役割取得理論の両方を組み合わせていると論じる。この過程はたえず繰り返され、適応や順応を可能にするとします。
TRPGの感情移入(同一視)が異質な「金魚鉢」になってしまうのは、ロールプレイ上の自己概念の放棄と未完成の一般化された他者の形成が原因でしょう。
「コミュニケーション・プロセス 社会行動の基礎理論」D.K.バーロ著 布留武郎・阿久津喜弘
この記事について、かなり意欲的でとんがったゲームデザインをしている金色さんから、@ツィートをいただきました。
確かに、背景世界の世界観を単なるフレーバーにしかならない、成り得ないという考え方も出来ます。構造主義神話学的分析にかけるのもいいと思います。
繰り返しますが、ロール・プレイの「TRPGにおける役割体験、ロールプレイ、なりきりプレイのうちにある一種の遊び感覚は、ゲームの構造において、リアリティーを介入させるか、どのくらい求めるか、という合意プロセスを暗黙に探っていくのが楽しいのかもしれません。」という結論に僕はとどまります。ゲームメカニクスに何でも頼るのではなく、コミュニケーション・プロセスを大切にしたいのです。
本来的にこれをなくしてしまうことを、楽しめるかどうかの天秤にかけると、残しておいたほうがいいという考え方です。