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ゲーム理論では、(動植物も、人間も)誰もがゲームをしていると言う。
ゲーム理論の肝は、マックス・ヴェーバーのいう「価値合理」には触れず、「目的合理」には明確で、そして、「目的合理」のためには便利な手法である。
ゲーム理論の合理性というのは目的が有用であるとか、倫理的に解決できるとか、そういう方向にはない。
この「価値合理」は、ゲーム理論では考慮しない。これは、「ケーキの苺」の好き嫌いや、利他主義的な行動も含む。倫理上問題のあるものも含む。
このように、もとより、「目的合理」専門で楽しいゲームを生み出す理論ではない一端がお分かりになると思う。
操作をして、できるだけ単純で小さな、「目的合理」モデルを使い、計量を利得表にぶち込む。
自然科学や数学が自ら自身を自明と出来得ないのに対し、この自明自体から出発してくる現象学で言うならば、はじめの文は、
現象学では、人の誰もが知覚したとたんに解釈して、そして、地平を超出する。
もし、止揚させるなら、PLが「価値合理」つまりPCらしさの部分をロールプレイによって「解釈」し構築する。
そうして流れてきた展開とのかかわりの部分に反映(「地平への超出」)されていくときに、「目的合理」を「解釈」しつつ適用させるというところ。
つまり、ゲーム性の基盤にはロールプレイ(展開の連鎖=ミミクリ的な物語性)は不可欠という見方のほうがシンプルに説明できる。
PCの「価値合理」が(ハンドアウトなどではじめから含ませられるものも含めて)定まったあとに、「目的合理」をロールプレイするときにこそ、ゲーム理論の登場ではないかと思う。
そのある立場のどんなPCが「価値合理」を得て、「目的合理」を選ぶのか。実のところ、ここで、ゲーム理論はロールプレイの指針となる場合がある。
選択肢を選び判断することがゲーム(生活を企てていないがそれ自身の規則の中にあるわれわれの行動様式である遊び)の全てではない。キャラクターらしさの表現がある。しかもTRPGはゲームであるので、「目的合理」の遊隙に遊ぶこともできる。
ただし、大目標として、セッションが倦怠で終わらず、それがみんなの関わった物語という充足を目指すのだから、憐憫をかけて悪玉を逃がしたほうが面白い、というのは他のPLさんの倦怠を誘う場合、避けるべき。TRPGは配慮・気遣いしあうコミュニケーションであるから。一時的な集まりか、継続的な集まりか、継続的でも一時性を求めるのか、 それぞれ違う。