TRPGの解釈学性は、このディルタイの解釈学論においては、体験―表現―了解の円環過程のうちにあり、創造的力動的作用と見られるべきである。ディルタイが解釈(Interpretation,Auslegung)と呼んでいる技術とは、了解が、固定された表現をとおして表現以上のものを追体験してゆくに必要なものだと言える。
そして、了解には「受容する」能力と「自己活動的に形成する」能力とが分かちがたく統一されているから、了解や解釈が受容的にして同時に創造的であるゆえに、「著者を、著者自身が自己を了解していた<よりもよく(ベッサー・アルス)>了解することが必要である」と唱えることができる。
しかしディルタイが審美主義的立場に立つ方向へ向かうとなると、拒まざるを得ない。
『了解や解釈が受容的にして同時に創造的である』とするならば、審美主義的立場は、創造的力動的作用との主張に反し、静動、静観、いわゆる、お地蔵さまプレイを正当化する。
TRPG論考者が、しばしば、そのような審美主義的プレイに陥ることがあるのは、新カント学派の形式的かつ固定的な「主観―客観―関係」に固執したTRPGのもつ変化に対する警戒と防禦的後退とも言える姿勢によって貫かれたか、または、ディルタイと同じような陥穽に嵌り、TRPGの「遊び」もしくは「ゲーム」の、創造的力動的作用を、TRPGの中のセッション中に発揮できないのかもしれない。
実のところ、了解というものの中に解釈と言う技術があるならば、そればかりではなく、表現にも解釈を根底においた技術があるはずだと僕は思う。
第一部 現象学と解釈学――その接近と提携
第一章 現代ドイツ哲学の動向――学的認識から経験へ
第一節 新カント学派から生の哲学へ
新カント学派の歴史認識論
新カント学派の形式的かつ固定的な「主観―客観―関係」に固執したこの試みは、科学的認識に対して外部から付加された認識論としての素朴性を脱却していないばかりか、(中略)現実のもつ変化に対する警戒と防禦的後退とも言える姿勢によって貫かれている。
生の自己了解
生動性はけっして客観的観察によって捉えることはできず、むしろ内からそれを気づくしかないところのものである。この「気づく働き(Innesein)」は、「気づく作用」と「気づかれる内容」との分離できない統一態であり、それ自体、直接的な自己確実性を意味している。ディルタイはこれは「体験」の統一性として見出すのである。(中略)「体験は、その諸部分が共通の意味によって結合されている統一のことである」とディルタイはいっている。
(最も注目さるべき点は)生の自己了解が単に過ぎ去ったものの再生的反復ではなく、むしろ生をまさしく生たらしめている生の自己創造的な営みであるという点である。表現はそれなりに表現される体験内容の単なる反復と言うよりも、生の深層部まで照らし出す働きを有し、了解もまた了解者にとって表現以上のものをもたらすと言う意味で創造的である。体験―表現―了解の円環過程は、反復運動ではなく、生の汲み尽しがたさを表す創造的力動的作用と見られるべきである。
了解が、固定された表現をとおして表現以上のものを追体験してゆくには技術が必要であり、ディルタイはこの技術を解釈(Interpretation,Auslegung)と呼んでいる。
(中略)
(アリストテレスの詩学、キリスト教の聖書解釈、シュライエルマハーによって、了解が作品の創造過程の追構成であり、創造する精神の源泉にまでたどり直す方法とされたのであるが、ディルタイによれは、それは)了解には「受容する」能力と「自己活動的に形成する」能力とが分かちがたく統一されているからにほかならない。このように、了解や解釈が受容的にして同時に創造的であることに基づいて、「著者を、著者自身が自己を了解していた<よりもよく(ベッサー・アルス)>了解することが必要である」と言う命題が成り立つ。
歴史的相対主義とディルタイの限界
いうまでもなくこの審美的立場は、内在主義の方向とは相容れない矛盾した矛盾した方向にある。(中略)ディルタイの哲学を導いた最も基本的なモチーフは、ひとつは、直接的な知がいかに生動性と結びつくのかという問いであり、もうひとつは、歴史的内在的知がいかにして歴史認識の普遍性をもちうるのかという問いであった。しかし生の概念が不規定であるために、いずれのモチーフも徹底して問い抜かれず、知の根源性はフッサールの現象学によって、生の自己了解の根源的事実性の意味はハイデガーの存在論によって、それぞれ改めて問われることになるのである。
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◎ [TRPG]1.TRPG解釈学論性、資料の目次