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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]遊びの品行、道徳・倫理・モラル

 カントを持ち出す以前に、倫理を語るには、単純に現時点の自分の職業倫理や家族構成員としての倫理を考えて生きていけばいいと思う。

 つまり、立場の倫理で、すぐ身近なことでしょう。

 倫理一般で言えば。

 オールマイティな倫理があるとしたら、自分自身が自身の主人として生きる意義がない。

 まず、産まれた時点で、人類の営為という因果の只中に皆放り込まれた。ローマ時代で地球の人口はたったの一億人だった。ソクラテスが哲学を開始して、彼から積み重ねられてきた思索の集積は、今この瞬間でさえ70倍(世界人口70億人)あって、産婆術は成り立たない。
 さらに加えて、およそ二千年間の全ての人間の過ごした時間と対等に渡り合えると思うのは、傲慢でしょう。

 自分自身の存在は、そう考えると希薄なもので、無価値なもの。無意味なもの。逆に、自分自身として生きる意義は、非常に希少なもの。

 このどちらの立場に立つにせよ、因果の只中に、全くの準備なしに、放り込まれた。だから、関わっていない先人の知恵や言葉を学ぶのは当たり前でしょう。自分の言葉で語れとか、自分の哲学を語れ、無教養な相手に合わせた言葉で、というよく出くわす要請は、無邪気すぎる。

 あらゆる人間が自らのうちに、奥深い個性の要点をもつというけれども、いろいろな人との出会いや、何気なく手にとった本や花といった、単なる組み合わせの違いだけかもしれない。
 努力や鍛錬によらない本当の個性というのは欠陥であることが多い。

 大雑把にはお互いに似ている。例えば、音楽のメロディやリズムに耳を傾けられるなら、直観的にわかるはずでしょう。

 立場が変われば、時が移れば、同じものを違うと、違うものを同じと、見方を変える。大雑把には、自分自身もお互いに似ているはずなのです。

 それでも一貫した立場でいられる人間は何処にもいないでしょう。
 当座は、現時点の自分の職業倫理や家族構成員としての倫理を考えて生きていけばいいと思う。

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 「儀礼」。私たちは神を礼拝するのと同様に他者の自己という「聖なるもの」を拝み(「敬意」と呼ぼう)、私自身も神のように他者から拝まれるに値するものだということを呈示しようとする(「品行」)のではないか。
  敬意の一つは、まず相手が「聖なるもの」だから侵さないよう距離をとる「回避的儀式」。接触しない、注視しない、言及しないなど、トーテミズムの「禁忌(タブー)」と似ている。
  もう一つの敬意は逆に、相手を重要だと思っていると示す「呈示的儀式」。挨拶、賞賛、サービスなど、神への「供犠(いけにえ)」に近い。

  同時に、他人に適切な敬意を示せる「きちんとした人」だと示すことで、他人からの敬意に値する存在だと示そうとする。これが「品行」である。[アーヴィング・ゴッフマン]
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 人格攻撃をしてきたら、人格攻撃をする。なぜなら、敬意を向けることに値しないからですね。


 品行に応えず、敬意を示さない人は、実は趣味の世界には多い。
 もし、趣味が遊びであれば、その遊びをまじめに楽しむという「遊びの善」がある。

 遊びの趣味を共に遊べる人というのは、気心とかではなくて、「遊びの善」である品行を尊重するかどうかによると思う。
 楽しみのために努力を払った人が楽しめる。新参者に親切を示すなり、品行を守るならば、敬意をはらうことを求めて当然だと思う。


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