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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

[TRPG]TRPGの宿命。

 カイヨワの「遊びと人間」より。抜粋。
 


 

 

 

アゴン
(競争)

アレア
(運)

ミミクリ
(模倣)

イリンクス
(眩暈)

パイディア
(遊戯)
騒ぎ
はしゃぎ
馬鹿笑い

凧揚げ
穴送りゲーム
トランプの
 一人占い
クロスワード
ルドゥス
(競技)

競争
取っ組み合いなど
↑規則なし

運動競技

ボクシング
玉突き
フェンシング
チェッカー
サッカー
チェス
スポーツ競技全般

鬼を決める
 じゃんけん
裏か表か遊び
賭け
ルーレット

単式富くじ
複式富くじ
繰越式富くじ

子供の物真似
空想の遊び
人形、おもちゃ
 の武具
仮面
仮装服

演劇
見世物全般

子供の
「ぐるぐるまい」
メリ・ゴーランド
ぶらんこ
ワルツ

ヴォラドレス
縁日の
 乗り物機械
スキー
登山
空中サーカス


 われわれの求めるTRPGはルドゥスのあるミミクリとアゴンであって、アレアやイリンクスは求めない。ミミクリのルドゥスこそが「ストーリー性」「ロールプレイ(役割分担ではなく役割演技)」である。
 なお、ミミクリはイリンクスと結びつきやすいのは、アゴンがアレアと結びつきやすいのと同様である。これは遊び全体に言えて、TRPGの特有の傾向ではない。






 

社会機構の
外縁にある
文化形式

社会生活に
組み込まれている
制度的形態

堕落

堕落の内訳

アゴン
(競争)
規則のある
競争において、
自分の能力だけに
よって勝利を
得ようという野心

スポーツ

企業間の競争
試験、コンクール

暴力、
権力意志、
術策

 成功だけを目的とするようになる。
 公正な競争の規則は蔑視される。
 規則は窮屈で偽善的な約束事に過ぎぬとみなされる。
 卑劣な攻撃も、勝てば正当化される。

アレア
(運)
運命の判決を
不安と受身の姿勢で
待つために、
意志を
捨て去ること

富くじ
競馬場
施設賭博

株式投機

迷信、
占星術など

遊戯者が偶然を尊重しなくなる。
不可知の力と前兆の不思議に人生の運営をゆだね、虚構の照応体系を機械的に適用しようとする誘惑は、人間の本質的な特権をできるだけ活用しようとする勇気を人間から奪い去り、人を宿命論に追いやる。
現象間の関係を鋭く見抜く力を奪ってしまう。逆境に耐え、成功を勝ち取る気力をくじく。

ミミクリ
(模擬)
他人の人格を
装う好み

カーニヴァル
演劇
映画
スター崇拝

制服、礼儀作法
儀式、
表現に携わる職業

狂気[疎外]
二重人格

模擬が模擬でなくなると、自分を他者であると信じ、それに従って行動し、本当の自分を忘れる。表面だけでなく奥深いところで自分が自分でなくなる。
この自己喪失は、明確な限界が疎外を防ぐが、夢と現実の識別がはっきり付かなくなったとき、すなわち、その人物が空想的で侵略的な
第二の性格を、(自覚的にも)身に付けて来ると[疎外]が発生する。
その第二の性格は当然現実と両立しないが、現実に対して途方もない権利を要求する。やがて疎外者[狂人]、他者となっているものが、現実と言う頑固な舞台装置、承認し得ない、不可解な、挑戦的なこの装置を否定し、屈服させ、破壊しようと絶望的にあがくことになる。

イリンクス
(眩暈)
眩暈の追求

登山、スキー
空中サーカス
スピードの陶酔

眩暈の統御を
見せる職業

アルコール中毒、
麻薬

望ましい興奮や官能的パニックを、人は薬品[麻薬]かアルコールに求めることになる。
遊び、すなわち、常に偶発的で自由な活動とは正反対のところに追いやり、酔いと中毒とにより、眩暈は現実への進入を強め、その度合いは、慣れ[中毒]が生じるにつれて一層広がり、有害になる。
この慣れのため、そこを越すと目当ての惑乱を味わいうる[刺激―反応の]閾が絶えず押し上げられていく。


 ミミクリによる堕落やパイディア傾斜の回避に、奇妙な(鏡氏の)自由論、つまりミミクリのパイディアを目論みアゴンへのルドゥス否定で結局アゴンのパイディア傾斜(又は堕落)に走る論や、ゲーム理論を盾にした(馬場氏の)大層なアゴンへの傾斜による(イリンクスに関与しやすい)ミミクリのルドゥス否定論は具体例とさせていただくが、TRPG論考サイトで認められると思う。

 創造的、生産的な組み合わせは競争と模擬、アゴンとミミクリである。カイヨワ氏はこの組み合わせは滅多にないとしながら、この二つにこそ生産的創造的要素が認められるとしている。TRPGはゆえに、生産的で創造的な遊びであることを宿命付けられている。

 堕落が起きなければいいだけのことを、百家争鳴の喧々諤々の議論になるのはおかしなことで、創造的、生産的なことをもっと語るべきだと思う。

 また、「補論: 二 教育学から数学まで 2 数学的分析」には、ゲーム理論についての遊びへの適用の全く正当な反論が述べられており、僕もカイヨワ氏と意見を一致する。数学者がカードゲーム程度の確率を求めたり、意志決定論を述べたとしても、人間は遊びに合理的選択を強制されては楽しめない。

 「補論: 三 遊びと聖なるもの」には、肝に銘じたい箇所がある。
 「ごまかしをやるものよりも悪いものがいることも、忘れてはならない。それは、規則を馬鹿にしたり、規則には根拠がないと言ったりして、遊びを拒み、あるいは蔑む者である。(中略)こういった「祭に水をさす人」(aguafiestas)すなわちうわべだけの懐疑論者や、疑い深い人ほど、文化にとってぶちこわしなものはないのだ。彼らは、何事につけても薄笑いをうかべ、そのことで、自分を偉いものに見せられると無邪気に思いこんでいる。自分たちで、もっと愉快でもっと大事な新しい遊びの規則を作ろうという心づもりで偶像を破壊し、?聖を行っているなら話は別だが、そうでないかぎり、彼らは、無限の苦労が蓄積してきた貴重な宝を、徒し心から傷つけているにすぎないのだ。」
 とある。自戒としたい。


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