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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[つれづれ]FEARゲーの多くは何故つまらないのか。

◎ [TRPG]シングルフォーカスから、本当の障害考察。


※ここでは障害の意味をTRPG自体に支障をきたすものと限定しています。

参考:テーブルトークロールプレイングゲーム(TRPG)を用いた自閉症スペクトラム障害児童への支援 - A Fickle Child Psychiatrist
DSM-5 での注意欠如多動性障害(ADHD)の取り扱い - A Fickle Child Psychiatrist

 タブー視される社会適応の障害から、考え直してみます。

#引用開始#

オホーツク ADHDLD 懇話会
過去ログ



http://www7.ocn.ne.jp/~ya2002/alto/adachire.htm

・ また、シングルフォーカスの特徴があると、同時に複数の刺激要素を処理しないとその意味合いが浮かび上がってこない「他者との社会的交流状況」を十全に理解することが出来ない。相手が発信する社会的交流刺激の一部だけから、その状況を解釈してしまうために、誤解が生じてしまう。

・ さらに、発達障害とは、人生の最早期からの「適切な発達を支える環境との相互作用が歪みを受ける障害」であり、そのために、放置しておくと二次的な障害が生起してくる。出来るだけ早いピックアップと適切な療育が必要。また、上記のシングルフォーカス特徴が発達障害として影響を及ぼすために、視覚的思考といった自閉症に特有の認知特徴が作り上げられてくる。

・ 「自閉症の子は、ごっこ遊びをしない」と言われるが、ごっこ遊び的な行動は、特に高機能自閉症児の場合にはよく見られる。一般に、ごっこ遊びには「再現する要素」(記憶の中にあるストーリーや動きを再現する)と「再演する要素」(キャラクターの心の状態を演じる)とがある。自閉症の子は「再現する要素」が多く、いつも同じストーリー、同じやり方、丸覚えのやり方、大好きなビデオをそのまままねることが多い。また、単なる物まねでなく、自分でストーリーを作っていたとしても、柔軟性やその場その場での展開性に欠け、自分の考えたストーリーの中で他人の役回りを決めて強引にやらせようとすることがある。

#引用ここまで#

(このような、障害例を挙げると、タブー的側面が伴います。安易な障害者差別意識はないことを明記しておきますが、きっちり多くの労力と困惑と犠牲を払った上での取り上げです。私の義母弟がこの障害を持っていまして、当事者家族でもあります)

 TRPGは基本的に「遊びの僥倖(フランス語のアレアは僥倖、ラテン語のアレア、サイコロを原語とする)」を万人に等しく訴えるものと考えると、このような障害例についての援用も参考になります。

 つまり、安易なごっこ遊びは、「再現する要素」が多く、いつも同じストーリー、同じやり方、丸覚えのやり方、大好きなビデオをそのまままねることが多いもの。

 正反対の「再演する要素」(キャラクターの心の状態を演じる)が重要となるものです。ただ、安易に万人に評判の高いものは、「再現する要素」であり、ネタ元がはっきりわかる物まねだということ。

 そして、“また、単なる物まねでなく、自分でストーリーを作っていたとしても、柔軟性やその場その場での展開性に欠け、自分の考えたストーリーの中で他人の役回りを決めて強引にやらせようとすることがある。”というところから、吟遊詩人マスターやなりきりプレイの稚拙さをよく指摘されるもの、安易に万人に評判の高いものは、「再演する要素」がない上で、このような類のものであるといってよいかと思います。

 しかし、安易に万人に評判が高いものは正解だろうかと言うと、そうではないのです。

 ごっこ遊びとTRPGの違いはひとまず棚にあげるとして、TRPGが個人の遊びに楽しむ一人遊びではない以上、個人だけの楽しみに委ねて評価ができない。しかも明らかにこれはコミュニケーション上の障害に連結しているのです。

 このような問題は未発達なシングルフォーカスから来ており、コミュニケーション上の不成立を含んだTRPGと言えるでしょう。

 吟遊詩人マスターやなりきりプレイが悪いのではない。本来の要点は。

 「再演性」
 「柔軟性」
 「展開性」
 「役回りの生成性」

 
が欠落していることがコミュニケーションの成立に悪いのです。

 吟遊詩人マスターやなりきりプレイ以外にもこれは当てはまります。意志決定などの手法を用いたとしても注意すべき点はあくまで、この部分に当たる、コミュニケーションの成立失敗です。

 とくに、プロットを固定したり、キャラクターの役回りの生成を認めないのは、コミュニケーションが図れない(コミュニケーションが介在する必要を失う)仕組みでしょう。

 また、このような「障害」をスペクトラムから言うと少々もつ方であっても、乗り越えやすいような体質のデザイン・アプローチが必要だと言えると思います。

 FEARゲーは、ブレカナ、NOVA、セブンフォートレス、ナイトウィザード、テラガンを体験したものの、まさに、シングル・フォーカスの遊びで、上記に当てはまりました。マローダーを倒す、エミュレイターを倒す、などと、紋切り型に固定されています。コミュニケーションを要しないことは、明らかです。

 思い当たる経験はマローダーが人々を助ける善で倒す必要がないと主張しても、そういうゲームだからと自動的にゲームのセオリーとして押し切られたことがあることです。

 いや、個人的な嗜好で、そういうローテーションが飽きて嫌なだけかもしれません。
 個別にお気に入りの作品はありますが、あえて分析してみました。

 TRPGの面白さはそんな紋切り型を「旬の商材」として引き摺っていては駄目だと思います。
 さらに、「再演性」と「柔軟性」や「展開性」、役回りの「生成性」を欠落させコミュニケーションの成立を縛ることでその不自由の遊隙でしか遊べないモノにとどめてはつまらない。遊ぶなら自動的なゲームのセオリーから自由にして、幅を持たせて楽しむ方が良いと思います。


 楽しさをより目指すための涜聖は許されまいかと願って書きました。


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