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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

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[TRPG]さらば、馬場理論よ(4)その方法論はできない子の言い訳

〈参加者〉
〈目標〉
〈ゲームトークン〉
〈管理資源〉
〈制限〉
〈障害〉
〈葛藤〉
〈アカウンタビリティ〉
〈結果に対する責任〉
〈選択肢〉
〈選択/決断〉


 馬場信奉者の作ったお話。
 ロールマスターでこんなことがあった。

 大飢饉が起こった世界。遠くの農村に行けば食料が高く売れるという商人から後払いで、キャラバンの護衛を頼まれる。
 第一日目の村で、村の代表者が値下げ交渉してくるが、商人は「まからん」と、取引なし。
 村を出発するものの、村の者が覆面して襲ってくる。商人が人質になり、戦闘は終わり。
 護衛のものたちは、しばらくして馬車を追うと、商人と御者がスマキにされて転がり、品物は空っぽ。
 商人は村を襲って品物を取り返せと叫ぶ。
 さてどうするか。


 なんて、胃癌と肺癌を選びなさいのような、シナリオ。
 どう転んでも、悲惨な損害を受ける人が出るだけ。
 全く、楽しくなかった。馬場理論どおりになっているけれどもそれが成り立っていれば、TRPGなのか。

 成立の過程というか、書かれているコラムゲームや、「マンチキン」紹介(誰だってその要素を持つ。その要素を持たない人は充分に遊べていない)などは、できない子の「社会が悪い」「日本が悪い」「制度が悪い」「あの人が悪い」などの典型ではないのか。それで、過剰なまでにできないことを認められずに、理論武装をした。

 馬場秀和ライブラリに僕の神経が尖るのは、そのあたりの根本的な馬場氏の実力の「自認」の欠如じゃないか。


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コメント

1. 飢饉で設けよう!

という段階で、損害を受ける人間が出るのは明らかなような気もします。
そんな仕事を請ける人間なら、気にせずスポンサーの意向に従う気もしますが、ここはカッコよく、(追加任務として)商品を取り返したあと、値引き価格で商人に売らせるのがカッコいいおはなしにならないでしょうかね?
しかる後に、ちゃっかり報酬は取る。
ピカレスク的カッコよさを求めるのも一興のような。

思うに、GMのシナリオが面白くないなら、面白くするのもTRPGであり、PLの義務かとも思います。
面白くしようとしても、GMが邪魔をする(例:俺の面白いシナリオに逆らうな)なら、それはまた別の問題かと。

ちなみに、前述条件に適うものは「ゲーム」ではあると思いますが、それが全てTRPGとは限らないでしょう。「胃癌か肺癌かを選べ」といわれたときに、TとRPによってそれ以外が選べるものが、TRPGだと思います。

2. Re:飢饉で儲けよう!

 コメント有難うございます。

 それが、ロールマスターで、指輪物語世界の「前期」を舞台としているので、PL全員が、あんぐり、閉口してしまったわけです。

 PCによって、いろいろありましたが、にっちもさっちもいかず、良心的に拒否られて、「はい、さようなら」と、意見がまとまり、終息しました。

 ワールドを例のように「自作しない」までの馬場信奉者は、ワールドのTPOを身に付けるという難しいことをやらないといけないようです。

 中つ国の地図を見せびらかし、前もって、原作と他の資料を勉強させるという手間をかけて参加させて、ピカレスクも、ありえないかと。

 その後、同じキャラで、ワールドで、商人によって指名手配され、村の長は処刑されるという仕打ち。またまた、閉口もの。

 ゲーム性を身に付ける以前に、黎明期から言われているように「楽しむ・楽しんでもらおう」の基本的な姿勢が必要なんです。

 馬場氏のように毒づくような姿勢を取れることは、TRPGに害をなす姿勢と連結していくんです。
 ゲーム性はその先の話で、毒づきながらする話ではないんです。

3. 基本的な姿勢

>黎明期から言われているように

全く同感です。まず「楽しむ・楽しませる」が基本だと思います。TRPGはTだとかRPだとかGの前に遊びであり趣味であり娯楽なのですから。でも、人によって「楽しむ・楽しめる」の閾値・方向性が異なるのも事実なので、件のGMにそれがなかったのか、PLたちと違っただけなのかは、私にはわかりません。
ただ同じことはPL側にも言えると思います。
胃癌か肺癌を迫られたにせよ、「はい、さようなら」は自殺と同じ。GMにとっては最悪のバッドエンドだったと思います。第二話の初期設定に相応のペナルティがついたことは妥当ではないでしょうか。
(PLたちは結局、誰も救わなかったのですよね?)

自分が楽しめなかったから、GMも「楽しませない」で返す、馬場氏が毒を吐くから、自分も毒を吐き返す。ではなく、ならどうすれば楽しめたか、どうすれば毒を吐かずに済むか、こそが大切ではないでしょうか。

4. 自殺を望むGM

 たしかに、自殺を望むGMだったのかもしれません。
 PLは、村人側に回って、何とか解決しようと奔走しましたが、やることなすことGMは否定・無駄骨に終始させました。
 「関わらない」こと「動かない」ことが、最もGMが求めた結末だと思います。
 ならば、物語として終わっていて関わりようがないでしょう。全てを徒労に終わらせてしまうのはGMなら誰でも簡単に出来ます。

 馬場氏の理論で言う「ゲーム性」よりも、予定調和の段取り(これを僕は「テーマ(主題)」と呼びますが、馬場流に言えば意味合い的に単に勝利条件と片付ける部分)の欠落があったのでしょう。

 「噺」でいうと、「まくら」で、指輪物語世界をやるとして、そのTPOで噺に流れていくところを掴めないでいた。PLにキャラクター作成の手間隙をかけて、応えなかった。噺として失敗です。

 「ガンダムTRPG」をやるといって、「プラネテス」をやるような、拍子抜けをやらかしては駄目なんです。

 たまにやることは驚きなのですが、異色ものは異色としてスタンダードにはしてはいけない。興醒めに当たるんですよね。

 順を追って、ワールド、または原作付きTRPGを、プレイするなら、かつての言葉通りフレーバー、テイストを守っていく。
 ワールドの自作が求められたのは、デザイナー側の不備ではなく、「噺」が増え、自作でなければ「まくら」にならないからではないか、と、馬場氏とは逆に思います。

5. ガンダムをやるといってプラネテス

いくら父親が開発したとはいえ、マニュアル本片手に宇宙(しかも戦場)に飛び出したら、プラネテスなら事故れます。下手したら死ねます。少なくとも主人公勤まりませんよね。

テーマの「色」が、PLとGMで違っていると、事故の元ですね。

ただ、
>何とか解決しようと奔走しましたが、やることなすことGMは否定・無駄骨に終始させました

コレははっきり言って、GMが下手なだけで馬場氏の理論の信奉・否定は関係ないと思います。アンチ馬場でも「オレの美しい物語のため」PLのやることなすこと全て否定するGMはいると思います。
まぁ正直個人的には、この手のGMはTRPGに何を求めているのか疑問なのですが。

ただ一つだけ。
もしそのGMが馬場氏的「ゲーム」を求めていたなら、「自殺(=葛藤と選択の放棄)」を求めていた。はありえません。それは(馬場氏的)ゲームになっていないからです。
もしそのGMが「自殺」を求めていたのなら、そのシナリオは馬場氏の理論どおりにはなっていません。
(個人的には前者だと思うのですが、確かに、やることなすこと全てを否定したという点では、後者と判断せざるを得ないです)

そのGMは、本当に馬場信奉者だったんですか? (個人的には、「オレは民主主義者だ」と嘯くファシストを連想させられます…)

6. 馬場理論が最後の要塞?

 かのGMが、MS-DOSで、馬場理論をプリントして広め、「ここまでの理論体系があんたに作れるのか?」という信奉者そのものであったのは間違いないかと思います。

 馬場理論が最後の要塞だったのではないかとも、穿ってかかる部分が多々あります。

 というのは、人間関係的にまずい状態にあって、TRPGが、最後の要塞だったのかもしれないからです。

 結局、馬場理論に逃げ込んで、いわゆる「囚人のジレンマ」構造を繰り返し、載せてあるトークンの紙の王冠が違うだけ。
 そこの利得表に当たる部分で、損害-損害のジレンマに至るのは、TRPGとしてはともかく、馬場理論ではありうることでしょう。

 お話的にどう心が動くのか、面子とのやり取りの有機的な結合・分解がどうなのか、そういった方向性を持った良いGMだったのですが、残念なことに、(精神的余裕がなくなるにつれ)それらがこそげ落ち、余計なものが肥大化したのかもしれません。

7. 信奉では駄目でした

前回の書き込みに一箇所訂正。

>そのGMは、本当に馬場信奉者だったんですか?

信奉者では駄目ですね。ここは「理解者」が正しかったと思います。したがって、件のGMは馬場理論を自分のものにしたGMではなく、「信奉者」だったのでしょう。残念なことに。

信奉してしまうと、1から10まで疑問を挟むことなく、ソレに従ってしまいます。そして、アレは1から10まで従うべき文書ではなく、自分の考えを持つためのツールとして使うべき文書だと思います。私自身、馬場理論は1と3~7まで程度は、役に立つと考えます。でも、完全なものではない。その毒の部分によって、その人の持ち味であった部分が殺されたというのは、大変残念な話だと思います。

ゲーム性、いわゆる、葛藤や意思決定と物語性は、対立概念ではないというのが私個人の持論です。超絶対正義の主人公が弁護の余地も無い絶対悪を、愛と真理の名の下に撃滅する物語になど、ギャグとしての楽しみ以上の物語はありません。互いに相反する相対的価値感に葛藤し、悩み、その上で自身の信じる最善手を選ぶ主人公にこそ、応援を捧げたいと思います。だからこそ、件の話が「胃癌と肺癌の狭間で自殺した」事を残念に思い、コメントをさしはさませてもらったのです。
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