コミュニケーションの社会学
長谷正人, 奥村隆編
「互いにわかりあうのがよいコミュニケーションである」という思いに囚われている現代社会。本書はその常識に疑問を投げかけ、コミュニケーションの文化的豊かさを、リアルな人間模様を描く事例から描き出し、新しい社会学を提示します。
「BOOKデータベース」より
[目次]
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第1部 コミュニケーションの社会学とはなにか
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コミュミケーションと社会学
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なぜ「社会学」にとって「コミュニケーション」は重要か
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なぜ「コミュニケーション」論にとって「社会学」は重要か
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現代のコミュニケーションはどうなっているか
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Aくんへのレッスン(1)対話と遊戯としてのコミュニケーション
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レッスンのはじめに
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対話としてのコミュニケーション
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遊戯としてのコミュニケーション
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Aくんへのレッスン(2)パラドックスと接続としてのコミュニケーション
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インターミッション
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パラドックスとしてのコミュニケーション
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接続としてのコミュニケーション
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レッスンのおわりに
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単独性の社会学
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対話/遊戯/非対称としてのコミュニケーション
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コミュニケーションにおける時間と変化
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第2部 コミュニケーションの社会学になにができるか(対話としてのコミュニケーション)
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対話というコミュニケーション
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対話と暴力
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対話の理想
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ディスコミュニケーション
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権力は至る所にある
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新しい権力の登場
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司法の範囲を超える権力
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権力=快楽のゲーム
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「権力」と「コミュニケーション」
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コミュニケーションの対等性という理念
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メディア文化と日常世界
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メディア・コミュニケーションの非対称性
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遊戯としてのコミュニケーション
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遊びと笑いというコミュニケーション
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キャラクターとはなにか
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キャラゲームの作法とその変容
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遊ぶ社会の行方
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社会学における恋愛論
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否定的にとらえられた「恋愛」
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コミュニケーションとしての恋愛
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友人関係と恋愛文化
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友人コミュニケーションの二つの側面
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愛しあう友人たち
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格闘する友人たち
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非対称のコミュニケーション
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家族というコミュニケーション
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暴力的コミュニケーションとその挫折
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親子関係の構築と挫折
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産む/生まれるという関係
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「生まれる」という物語をめぐって
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対等な関係性の果てに
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奇妙なコミュニケーション
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師匠は「教え」,弟子は「学ぶ」
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知っている人の共同体/知らない人の共同体
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ケアとはどのようなことか
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コミュニケーションのなかでのケアの位置づけ
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ケアのなかでの言葉のコミュニケーション
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ケアのなかでの情報のコミュニケーション
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死によるコミュニケーションの途絶,そして
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フラット化した人間関係
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関係を支える基盤の消失
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他者性を欠いた日常世界
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フラット化する自己像
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コミュニケーションとしての暴力と悪
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ヤクザは暴力と悪を伝える
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やさしさ社会の暴力と悪
「BOOKデータベース」より
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「互いにわかりあうのがよいコミュニケーションである」という思いに囚われている現代社会。本書はその常識に疑問を投げかけ、コミュニケーションの文化的豊かさを、リアルな人間模様を描く事例から描き出し、新しい社会学を提示します。
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なぜ「コミュニケーション」論にとって「社会学」は重要か
「記号論」は、人間のコミュニケーションの間接性、虚構性、演技性を強調するところに魅力がある。(ex:フェルマン[1980=1991])
つまり、私たちは無意識のうちに、伝統的な生活のなかで交わしてきた具体的な「交際」や「つきあい」とは違ったニュアンスをもつ言葉として、「コミュニケーション」を使っているらしいのだ。
戦後民主主義的な知識人の言説を通して「コミュニケーション」という概念は使われるようになり、やがて1980年代以降のポストモダン社会において、社会の流動性が高まるなかで「コミュニケーション・スキル」を磨かなければ社会人として出世できないといった表現を通して、直接的な個人同士の関係にも「コミュニケーション」という表現が使われるよう変化した。その意味で「コミュニケーション」という概念は日本では最初から個人主義的で民主主義的な意味を帯びて導入された。
私たちは、コミュニケーションによって人間同士がわかりあうことが人間関係を良くすることだというタテマエの神話から、いい加減に解放される必要があるということだ。つまり「コミュニケーションの社会学」は、「いかに私たちはコミュニケーションによって相互理解にいたるべきなのか」という常識的な問題設定に疑問を付し、たとえいじめや暴力や自殺のような辛い事実であっても、そのなかに人間が互いに葛藤しながらコミュニケートしている営みの豊かな表情を読み取り、そこで人間がなにをしようとしているのかを明らかにしたい。
土井(隆義)は著書『友だち地獄』でこう述べる。いまの若者たちは、他者との対立を回避することを最優先にするやさしい関係を結んでいる。相手を傷つけない・自分が傷つけられないように、繊細に互いに配慮して対立の要素を徹底的に排除しようとする。この関係を乱す者は「空気の読めない者」として忌避され、いじめの対象となる。
こうした関係のなか、「純粋な自分」でありたい、それを承認しあう「純粋な関係」を築きたいという願いが高まり、現状の配慮しあう関係は「偽りの関係」に見えて絶望感を深めてしまう。そして、純粋な関係が可能な場として、「本音」をいいあえるネット上の関係が求められ、「内発的な衝動や直感」(=純粋な自分)が投げ出される。(土井 2008:9-10,46-49)。
この関係を支えるものに「対等性の原則」がある。価値観や意見の押しつけへの強い嫌悪感を持ち、上下関係は少しの時間も容認できず、「上から目線」にめっちゃムカつく。対等を守らなければ怒り出すこわい人が増え、互いを腫れものや爆発物として扱わなくてはならない。(森真一 2008:50-64,117)
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基本的に生まれた時点で人間が対等であるわけではない。素直に互いの差異の承認をするなら、「純粋な自分」でありたい、それを承認しあう「純粋な関係」を築きたいという願いなど、需要がない。
対等性を固定することでは、非対称のコミュニケーションである教育や議論ができない。
社会を作るのに、意識をもった人がモノを生産するという「成果」を志向する行為(「道具的行為」)は不可欠だ。だがそれは一人ではできず、「成果」志向で他人とかかわる「戦略的行為」も重要となるだろう。しかしこれでも社会はできない。「道具的行為」「戦略的行為」のような「成果」志向とは違う、相手を「わかる」=「了解」を志向する行為があってはじめて社会は成立するのではないか。この「了解」志向の行為を「コミュニケーション的行為」と呼ぼう。(ユルゲン・ハーバーマス)
だが、コミュニケーション的行為では別の基準、「コミュニケーション的合理性」が必要ではないだろうが。これは、「究極的に強制をともなわず議論によって一致でき、合意を作り出せる重要な経験に基づ」き、これによって各人は最初の主観的な考え方を克服して相互主観性が保証される、という合理性である。
三つの妥当性要求、「真理性(本当かどうか)」「正当性(人間関係が成り立つような社会規範に従っているか)」「誠実性(考えていることを誠実に発言しているかどうか)」。これらが満たされていなければ、「権力的要求(~しなければ~してやるぞ、というサンクションで人を動かそうとする)」と呼ぶ。
「権力」ではなく、妥当性要求に応えながら話し、それを「根拠」としてわかりあい合意が成り立つ。これがコミュニケーション的行為であり、これは了解の機能、行為を調節する機能、行為者を社会化する機能を果たす。
「地平」(相互にわかりあう条件)として、E.フッサールに始まる現象学の用語「生活世界」という概念を使おう。コミュニケーション的行為ではなにかを解釈するプロセスが生じるが、自明で確信に満ちた「文化的に伝承され言語的に組織化された解釈範型のストック」が共有されているから、コミュニケーションが成り立つ。このストックを「生活世界」と呼ぼう。これはコミュニケーションの前提であり、コミュニケーションにより再生産されるものだ。
<社会統合>「生活世界」が了解を志向するのに対し、<システム統合>市場=交換関係や国家=権力関係は「成果志向」である。
<システム統合>によって<社会統合>が侵されているのではないか。言語による合意形成よりも、貨幣や権力という制御媒体の効率性が高いことから、相互行為は生活世界から切り離され技術化される。言語による合意形成が貨幣や権力にとってかわられて、システムが物象化したり文化が貧困化したりする「生活世界の植民地化」が生じているのではないだろうか。
妥当性要求を理解して、これを満たした合理的な根拠のある合意にいたるよう議論をすること、これが「討議」だ。
ルールとして、
なにか規範を決めるとして、それに影響を受けるすべての当事者が、合理的に討議して合意できるものだけを妥当とすること。
語り行為をする能力をもつすべての人が討議への参加を許され、誰もがどんな主張をも話したり問題視したりでき、こうした権利を行使することが内的・外的な強制により妨げられないこと。
このルールによって討議を強制や抑圧や不平等から守り、合意に達することができるだろう。(ハーバーマス)
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合意に至ったとして、そこから先へのコミュニケーションは不十分な説明だと思う。
「討議」のルール。
GMに委任するよりもTRPGのローカルなコミュニティでは、
なにか規範を決めるとして、それに影響を受けるすべての当事者が、合理的に討議して合意できるものだけを妥当とすること。
語り行為をする能力をもつすべての人が討議への参加を許され、誰もがどんな主張をも話したり問題視したりでき、こうした権利を行使することが内的・外的な強制により妨げられないこと。
これは大切だと思う。
「社会」が実在するという立場があるが、社会が個こ人の集まりにすぎないとすればそれは実在せず、他方で「個人」も究極の単位ではなく「無数の社会的な糸の交差点」にすぎない。
結びつくか/離れるかではなく、結合するから分離し/分離するから結合する。私たちはさまざまな境界にこの両義性を発見する。相互作用もこの両義性に満ちているのではないだろうか。
分離が結合を生み、結合が分離を生む。私の考えでは、社会とは「調和と不調和、結合と競争、好意と悪意のなにほどかの量的な割合を必要」とし、調和、結合、好意だけの社会がよいという考えは通俗的で皮相な見解である。
関係とは「一定の無知」と「相互の隠蔽」を前提とし、無知、隠蔽、秘密がコミュニケーションを支えるのではないだろうか。
では、コミュニケーションの歓びはどこにあるだろう。「社交」という楽しいコミュニケーションを考えてみよう。相互作用にはさまざまな内容や目的があるが、「社交」とはそれから解放された相互作用のための相互作用であり、「純粋の「社会」」「社会的遊戯」と呼んでもいい。たとえばなにが正しいか、どうしたら合意が得られるかなど「議論が実質的になる途端に、もう社交的でなくなる」。社交はこれを排除することで自身以外に目的をもたないコミュニケーションとなり、社会は「遊戯」になる。(ジンメル 1971=1979:81,85-86)
恋愛ゲームのひとつ、女が示す「コケットリ」について話して終わりにしよう。男が女を求めるが、女のほうは「与えることを仄めかすと思えば、拒むことを仄めかすことで刺戟し」、「惹きつけはするものの、決心させるところまで行かず」、「避けはするものの、すべての望みを奪いはしない」
「対話/権力パラダイム」ではとらえられない。「対話」が了解や合意を志向するのに対し、「遊戯」はなにもめざさない。そして「対話」を始めてしまうと社交の楽しさは台無しになる。「わかりあい」「合意をめざす」ことが関係を破綻させることがあり、冷淡に距離をとり秘密を守ること(「分離」)が関係を続け(「結合」)、コミュニケーションの歓びを生むとジンメルはいう。(ゲオルク・ジンメル)
「儀礼」。私たちは神を礼拝するのと同様に他者の自己という「聖なるもの」を拝み(「敬意」と呼ぼう)、私自身も神のように他者から拝まれるに値するものだということを呈示しようとする(「品行」)のではないか。
敬意の一つは、まず相手が「聖なるもの」だから侵さないよう距離をとる「回避的儀式」。接触しない、注視しない、言及しないなど、トーテミズムの「禁忌(タブー)」と似ている。
もう一つの敬意は逆に、相手を重要だと思っていると示す「呈示的儀式」。挨拶、賞賛、サービスなど、神への「供犠(いけにえ)」に近い。
同時に、他人に適切な敬意を示せる「きちんとした人」だと示すことで、他人からの敬意に値する存在だと示そうとする。これが「品行」である。[アーヴィング・ゴッフマン]
「演技」。誰かといっしょにいると、どうしてもなんらかの印象を与え、なにかを表現してしまう。私たちはこれを統御する「印象操作」をいつも行っている。
私たちは複数の役割を演じる俳優として「オーディエンスの分離」を行ない、印象を操作する。
印象は「ささいな不運な出来事でこなごなになりかねない繊細な壊れ物」である。だが、当惑を招く事態をパフォーマーたちは必死にとりつくろって自分のショーを救おうとするだろう(「防衛措置」)。また、観客の側もそれを察して見て見ぬふりをしたり、あからさまな言いつくろいを許容したりして相手のショーを救うよう援助する(「保護措置」)自分のショーを演じ切る「自尊心のルール」と相手のショーを救う「思いやりのルール」が私たちに要求されており、これが相互行為を秩序づけることになる(ゴッフマン)
印象操作を行うさい、「表局域(front-region)」と「裏局域(back-region)」が生まれる。
舞台裏は表舞台での演技にとって必要だが、それは表舞台と慎重に分離されなければならない。
私たちは役割を演じるが、表局域でも役割に100%コミットするわけでもなく、役割と自己のあいだにくさびを打ち込んで役割に呑み込まれない「自己(selfhood)」を表そうとするのではないか(「役割距離」)。
表舞台の役割の秩序から隠すべき私を持ち出すことで、相互行為の秩序もそこから外れる「自己」も維持される。
演技や儀礼のルールから逸脱した人が登場した場合を想定する、敬意・品行・思いやりのルールも自尊心のルールも身につけず、皆が表と裏を繊細に往復しているのにぶちこわしにする人。「感受性が鈍すぎ、機転に乏しすぎ、思慮がなさすぎる」、空気が読めない人は、「安全を脅かす存在」だろう。「仲間外れ」にし、不自然で不完全だとし、さらには「病気」だと考える。それによって「社会的集まり」を守る必要が生じることになるだろう。
「精神障害者」は、「役割」を剥奪され、服装や髪形は標準化され、氏名も奪われる。「情報の聖域」(私信やプライバシー)は侵犯され、身体もすみずみまで検査される。舞台裏の空間も監視によって奪われる。つまり「儀礼」「演技」の基盤が剥奪される。こうして彼らは「自己」をもつことができず・もつ必要もなくなって、「精神病院の被収容者として生きていくこと」を学んでいく。この状況は「自己が無力化される過程」である。
儀礼や演技は私たちが「私」でありつつ、人とコミュニケーションするための基盤である。(ゴッフマン)
Iとmeから自我はなる。Iは「自由」や「自発性」の感覚を与えるものだ。meは、経験の蓄積による因習的で習慣的な個人。Iにおいて衝動的行動は統御されず、meはこれにたいする検閲官であって、Iの反応は社会状態の堕落かもしれないし、より高次な統合かもしれない。自我はこのIとmeの会話として存在する。
このIが作動することがなければ、苦しいことだろう。Iは自由な創発性をもつ。(ジョージ・ハーバート・ミード)
人間のコミュニケーションでも、ある発話が「遊びのモード」か「まじめのモード」か、「空想」か「神聖」か「比喩」 かを示すシグナルが伝達されている。「コミュニケーションについてのコミュニケーション」を「メタ・コミュニケーション」と呼ぶ。これは、姿勢、身振り、顔の表情、声の抑揚、文脈などの非言語的な媒体で行われる。
対等な関係でのパラドックスが「遊び」や「ユーモア」を可能にするとすれば、非対称な関係でのパラドックスはある場合(ダブルバインドによって)病理を生み、ある場合にはそれなしには不可能な創造的な生成変化を生んで、人を習慣から自由にしたり癒したりする(回心や覚醒)のだ。創発的なものがコミュニケーションのパラドックスによって引き出される。(グレゴリー・ベイトソン)
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他者がいるから、「わたし」が成り立ち、「わたし」でいられる。
「回避的儀式」「呈示的儀式」「演技」によって、「無数の社会的な糸の交差点」にたつことができる。
非対称な関係を用いて、病理を生じることがあり、これを回復させる手法がある。対称な関係を持ちいては不可能で病理の回復ができない。
TRPGはコミュニケーションとして、擬似的に対称な関係に相当するだろう。だから、病理の回復には用いることはできないと考えたほうが良い。病理に苦しむ人達へのきばらしや娯楽として、参加者が「対称なコミュニケーション」をとろうと意識されなければ、病理に苦しむ人の回復を逆に悪化させるかもしれない。
遊戯のパラドックスは「遊びの現象学」で否定されている。遊戯は我々のコミュニケーションの一つであり、病的な二重性はない。もし、そのような二重性があるコミュニケーションがあるとすれば、「遊戯」とは独立したもので「遊戯」自体とは関係がない。
「遊戯であるということが偽りないコミュニケーション」は存在する。おそらく、「偽りのあるコミュニケーション」と混同している。
情報が送り手から受け手へと移転される「移転メタファー」でとらえる立場では、「情報」「伝達」「理解」のうち、受け手の「理解」により成立するとする。
「ダブル・コンティンジェンシー」二重の偶有性。私(A)は自分がどう行為するかを相手(B)がどう予期しているかによって決めようとする。ところが相手(B)も私(A)がどう予期しているかによって自分の行為を決めようとする。だから、どちらも行為できない。(ルーマン)
出方が少しずつあらわれ、最初よりはどう行動すべきかわかってきて、どこかに収斂していく。価値コンセンサスなどなくても「偶然」に開かれて解決していくのであり、「神が何も与えないとしてもシステムは生じるのである」
相手の自由を容認するから続いていく接続は、「(暫定的ながら)相手とのやりとりのうえでうまくいくもの・・・を選択するチャンス」によって根拠づけられる。
「わかいあい」「根拠」「合意」のないまま社会が成立する。
「合意」のあと「コミュニケーション的行為は中止される」単に「規範」を持ち込むだけで、伝達のみを「行為」として取り出して道具的だとか戦略的だとか論じ、規範的にコントロールできないと私は考える。
「理解」のあと、理解されたことに人びとが賛成するか反対するか「コミュニケーションとは、肯定と否定に対して開かれた」ものであり、その次へと接続されていく。
「理解するということには、程度の差はあれかなりの誤解がノーマルなものとして含まれている。」すべての誤解を解こうとするとコミュニケーションはとても難しくなる。次の行為で修正されれば十分であり、「わたしたちはこうした誤解と折り合いをつけることでいい」(ルーマン)
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ゲオルク・ジンメルは、他人を完全に理解するためにはその人と同じ人格をもつことが必要であるが、そんなことは不可能だと述べたことがある。コミュニケーションについても同じことで、人間が個別的な存在である限り「完全なコミュニケーション」はほんらい不可能なのである。その意味でディスコミュニケーションは不可避であるが、鶴見俊輔もいうように、「ディスコミュニケーションは、決して、いつも悪いもの」ではない。たとえば、それはしばしば「思索の飛躍」を助け、科学や芸術に新しい成果をもたらす。」
ディスコミュニケーションは、むしろ人間のコミュニケーションの豊かさ、ふくらみ、楽しさなどを作り出しているのではないか。
しかし、ディスコミュニケーションのこうした働きにもかかわらず、一方ではディスコミュニケーションを嫌い、否定する風潮も根強い。対人関係の円滑化だけに特化された「コミュニケーション力」の強調は、いまや社会的強迫観念に近づいているようにも思われる。
実際、自分はコミュニケーション力が低い、コミュニケーションが下手だという悩みをもつひとは、ディスコミュニケーションに敏感であるに過ぎない場合が多い。そういう感受性のゆえに、かえって対応がうまくいかないのだ。だいたい、自分がコミュニケーションが上手だ、得意だ、などと思っている人のほうがどこかおかしい。
あらゆる人間が自らのうちに「奥深い個性の要点」(ジンメル)をもつのであれば、ディスコミュニケーションは不可避であり、むしろ常態なのだから。
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人は他者をすべて理解することはできない。
程度の差はあれかなりの誤解がノーマルなものとして含まれている。」すべての誤解を解こうとするとコミュニケーションはとても難しくなる。
次の行為で修正されれば十分であり、「わたしたちはこうした誤解と折り合いをつけることでいい。
これはTRPGにも当てはまる。
対人関係の円滑化だけに特化された社会的強迫観念は、確かに病的だ。
嫌いなことを嫌いだとして、好きなものを好きだとすること、または、面白いものはどこが面白いのか、面白くないものはどこが面白くないのかなどを主張し合い、誤解を解きながら折り合いをつけるのが、一番素直で自然だ。
円滑化ばかり考えていたのでは、単なる趣味の自由さえも奪うことになる。理解できないと表明していたとしても、「影響を受ける当事者」ではないかぎり、対話する必要はないのだと思う。
だいたい、あらゆる迷惑な者、トラブルを起こした者にまで、寛容で、ぐずぐず悩む人と一緒にいるより、ことが終えてから堂々笑いのネタにしてバカにする人と、一緒にいたほうが気分がすっきりする。ヤクザのように引っ掛けて脅し取ったり、ガキのやるようにイジメて自殺に追い込んだりするわけではないのですから、あらゆる迷惑な者、トラブルを起こした者の責任として、追い出したり相手にしなければいい。
みんなの事全部仲良くなんて、単純に欲張りで臆病なだけだろう。潔くないしカッコ悪い。
勇気があって、慎重だということは、臆病なこととは全く違う。
西部劇は特にそのことを教えてくれる。たくさん見ていても何も学んでいない人もいるけれど。
「遊びの現象学」からすると、TRPGのコミュニケーションは、遊戯のうちのTRPGを遊ぶコミュニケーションとして、独立している。
TRPGは、コミュニケーションのゲームだ! という論において、ユーザーがコミュニケーションが下手とされるかはなぜか。
それはコミュニケーションとして独立しているからで、かえってディスコミュニケーションに敏感になって、コミュニケーション能力が低いとされるだけかもしれない。
逆に、ディスコミュニケーションに考えが及ばない人は、TRPGに向かないかもしれない。