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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

[TRPG]葛藤について。

 葛藤とは何か


 日本語では、「葛藤」は、新・漢語林によると。



 #引用開始#

1 くずとふじ。
2 (仏教)(ア)煩悩のたとえ。(イ)法門のわずらわしいもつれ。(ウ)禅の問答。
3 (国語)もめごと。ごたごた。

#引用ここまで#「新・漢語林」


 ネットの辞書では。



 #引用開始#

葛藤

かっとう【葛藤 conflict】

抗争ともいう。ひろくは人間関係で個人間や集団間あるいは個人と集団間に反目や意見の衝突がある場合にも用いられるが,主として個人内に対立する二つ以上の動機(欲求,衝動,意見など)が同時に同じ強さで存在し,相争っている状態をいう。個人はその結果適切な行動をなしえないことになる。レウィンのトポロジーおよびベクトル心理学では,葛藤を個人がおかれている心理学的場の条件に基づいて,接近と接近の葛藤,回避と回避の葛藤,接近と回避の葛藤の3種類に分類している。

#引用ここまで# コトバンク 世界大百科事典 第2版の解説


 葛藤というのは、コンフリクト(conflict)が訳語で、心理学の用語です。
 心理学者のプルチック(最近知ったのですが、プラチック、プラチーク、プルチークというカナの当て方もあるようです)は強い感情が多種類、押し寄せた状態をコンフリクトとしています。



 ジレンマには論理学とゲーム理論の二つがある

 「ジレンマ」という言葉は、僕の知る限りでは学問的に、論理学、数学のゲーム理論の用語のニつがあります。

 論理学(哲学)でのジレンマは、「両刀論法と角」という論証ツールです。多分、国語上はこの意味合いで使ってはいないでしょう。意味合いとしては、競合する結論といったあたりです。



 #引用開始#

三・一三 両刀論法と角
Horned dilenmas

定義

 両刀論法は、批判の対象となる立場がいくつかの意味を持ち得るけれども、そのどれもが容認し難いものであることを示そうとします。つまり、「もしそうならダメ、もしそうでなくてもダメ」という選択肢を相手に突きつけるわけです。うえの例(引用者註:「生物の遺伝子操作のような科学の営みは間違っている。《自然を改変する》ことになるからだ。」)では、自分が支持した原理から不合理な帰結が導かれる(木を切ることすら誤りだ)ということか、または原理が実際に言おうとしている意味を正しく反映していないかのいずれかであることを批判者は認めなければなりません。いずれにしろ、批判者はにっちもさっちも行かない状況に追いやられてしまうのです。
 一般に、このタイプの両刀論法には二つの形があります。

構成的両刀論法

1 (XならばY)かつ(WならばZ)
2 XまたはW
3 ゆえに、YまたはZ

破壊的両刀論法

1 (XならばY)かつ(WならばZ)
2 Yでないか、またはZでない。
3 ゆえに、Xでないか、またはWでない

#引用ここまで#
「哲学の道具箱」ジュリアン・バッジーニ ピーター・フォスル著



 ゲーム理論で有名なのは囚人のジレンマです。どちらを考えても、自白(裏切り)が最善手です。






 このジレンマとコンフリクトを取り違えると、齟齬を生じます。ジレンマは論証のための言葉で、囚人の心中は想像しません。想像したくなる気持ちはわかりますが全く意味合いが違います。
 あくまで相手も自分も合理的に動くと仮定するのがゲーム理論です。




 氷川霧霞氏の言う葛藤とは何か


#引用開始#
葛藤

複数の選択肢が、どれももっともらしく感じられ、どれが最適解かを判断することも、決まったアルゴリズムを適用して決めることも出来ない。このため心中に悩みや迷いが生ずる状態であること。

結果に対する責任

選択/決断の結果が有為な差を生み、それが自分に跳ね返ってくる、逃れようなく責任を持たなければならない、という自覚があること。

アカウンタビリティ

複数の選択肢について、ある程度まで情報が与えられており、選択/決断した理由や根拠を自分なりにきちんと持っていること。

#引用ここまで#
「TRPGシナリオ作成の道具箱」氷川霧霞氏
「外へ向かう言葉(後編)」――『馬場秀和のRPGコラム』馬場秀和氏
http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20000417.htmlより。


 つまり、心理的葛藤、コンフリクトの意味合いで用いています。
 
 ここで、極めて注意しなくてはならないことは、あくまでもゲーム一般のプレイヤーに対しての言及であることです。ロールプレイ・役割演技には、全く触れていないということです。
 しかも、この心理的葛藤はプレイヤーのものであって、TRPGのプレイヤーキャラクターとしての振る舞いには何も触れず、または、葛藤しているように見せるロールプレイ・役割演技でもないことにも注意しないといけません。
 そして、プレイヤーが意志決定するという大前提があります。
 これは非常に疑問を覚えます。

 葛藤は、「複数の選択肢が、どれももっともらしく感じられ、どれが最適解かを判断することも、決まったアルゴリズムを適用して決めることも出来ない。」のだと仮定するとします。
 しかも、「このため心中に悩みや迷いが生ずる状態である」ので、プレイヤーは何かを一体どうするのか、果たして、最適解の判断やアルゴリズムの適用が本当にできないのでしょうか。

 額面通りに、もし、最適解の判断や決まったアルゴリズムを適用して決めることも出来ないのなら、なぜ、心中に悩みや迷いが生ずる状態から抜け出られるのでしょうか。もし、抜け出せたとして、なぜ、結果に対する責任が果たせて、アカウンタビリティを持てるのでしょう。

 こんな疑問を感じずに、説得されてしまうのは、読解力がないとしかいえない。看過できず、混乱を引き摺ります。

 以降、ゲームトークンが、リソース管理が、選択/決断が……と、続きますが、「どれが最適解かを判断することも、決まったアルゴリズムを適用して決めることも出来ない。」ままです。そういった説明では葛藤からの逃げ道にはなっていません。最適解の判断やアルゴリズムを示してしまっています。

 これでは高々と掲げられた意志決定というのは、デタラメのランダムでスゴロクのマス目に従うことに過ぎないということでしょうか。

 つまり、この「葛藤」の定義は、好意的に考えても、間違っているということです。
 最適解を判断できてもいいのか、または、決まったアルゴリズムを適用して決めることができてもいいのか。これでは、「葛藤」の定義が崩れます。
 最適解を判断できたり、または、決まったアルゴリズムを適用して決められたり、ゲームトークンが、決断/選択が……云々で決められたりするならば、「葛藤」ではないのです。
 これを「葛藤の両刀論法」と命名します。この論法の欠陥です。

 防御方法としては、最適解を判断できるか、決まったアルゴリズムを適用して決めたりできるか、このどちらかか、そのある部分だけこのジレンマの角を抑えるか。

 もう一つは、最適解を判断しえず、決まったアルゴリズムを適用して決めたりできない、違う何かで、このジレンマの角から抜け出す方法を示さなくてはならないのです。意志決定はデタラメに従うことであるとか。理由も指針も論拠も、最適解の判断やアルゴリズムを示してはならないのです。

 このたちが悪い「葛藤の両刀論法」の「葛藤」の定義は放棄するしかないでしょう。「心中に悩みや迷いが生ずる状態であるまま」ゲームは進みません。

 ひとまず、この「葛藤」の定義は脇においておきます。両刀論法です。
 この「葛藤の両刀論法」の言明は、もっともらしく論者の都合を押し付ける詭弁です。つらつらと己の最適解のアルゴリズムだけが正しいと強弁するやり口です。

 この「葛藤」が登場してくる文脈に、氷川霧霞氏は、フォーカスを当てています。
 

#引用開始#
ゲームの参加者には、「管理資源」が与えられ、守るべき「制限」が明示される。そして、「障害」を克服して、「目標」を目指せ、と言われるのだ。目標にたどり着くための最適手は明白ではない(葛藤)が、一手一手の判断により形勢が変わることは明らかで(結果に対する責任)、不完全ながら「どのような手を打てば、どんな結果になりそうか」を判断できるだけの情報がある(アカウンタビリティ)。参加者は、このような条件下で、自分の手を選択/決断しなければならない。つまり“意志決定”が強いられる。

#引用ここまで#
「TRPGシナリオ作成の道具箱」氷川霧霞氏
「外へ向かう言葉(後編)」――『馬場秀和のRPGコラム』馬場秀和氏
http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20000417.htmlより。


 目標にたどり着く最適手は明白ではないという葛藤とは、この引用文より前に定義されています。

 複数の選択肢が、どれももっともらしく感じられ、どれが最適解かを判断することも、決まったアルゴリズムを適用して決めることも出来ない。このため心中に悩みや迷いが生ずる状態であること。

 「葛藤」について、出典元はこのように書いていません。以下が出典元です。



#引用開始#

葛藤
葛藤が生じるには,言うまでもなくまず選択肢が存在していなければなりません。しかもその選択肢は,それぞれ一長一短であり,理詰めで考えてもどうにも決めがたい,というものでなければなりません。理詰めでは決められない,それでもなお,より良い選択肢を選ぶんだという意志を持って決定を下すのが「意志決定」なのです。

選択肢の不在
選択肢が無いという事で最もよく批判の対象として持ち出されるのがいわゆる「一本道シナリオ」です。過度にストーリィ性を重視したマスターがなぜ批判されるのか,もうみなさんは明瞭に理解できた事と思います。

最適解と意志決定
買い物の例を思い出してください。もし,コスト品質その他全ての条件で群を抜いた商品があるならば,迷わずそれを買えばよい事になります。また,選択肢が複数提示されていたとしても,考えを詰めれば「これが一番有利だぜ」というのが分かってしまうようなものも意志決定とは違います。なぜなら,そこには葛藤が無いからです。論理的な思考によって最適解を導き出しそれを選ぶというのは意志決定とは違うのです。

#引用ここまで#
「意思決定について」ラウール氏より。
http://trpg-labo.com/rpg/decision.pdf


 好意的に解釈することにします。
 選択肢は,それぞれ一長一短であり,理詰めで考えてもどうにも決めがたい,というものである
 のに、
 複数の選択肢が、どれももっともらしく感じられ、どれが最適解かを判断することも、決まったアルゴリズムを適用して決めることも出来ない
 という選択肢に改変されています。
 決めるのが難しいという話が、決められないとか判断も決定も不可能という話にされています。

 さらに、論理的な思考が、おそらく、決まったアルゴリズムを適用してにすり替えられていて、拡大解釈されているのがわかります。
 つまり、戦ってわかっている戦力不足をどうするかとか、何ラウンド持ちこたえられるかという算法(アルゴリズム)すら成立しないのです。ところが「論理的な」というのは、通例、理屈が成り立つとも読み替えられるような曖昧なニュアンスを持っています。

 出典元が述べているのは、初めのほうで提示した「かっとう【葛藤 conflict】コトバンク 世界大百科事典 第2版の解説」の意味合いであって、「葛藤の両刀論法」にはなっていません。

 さらにロールプレイ・役割演技について、以下のように、きちんと言及しています。



#引用開始#

「いろいろ迷ったんだけど,まず状況を冷静に判断するとA 案とD 案の二つに絞られる。どっちかというとA 案の方がよさそうなんだけど,慎重なこのキャラクターの性格からいってD 案を選ぶことにした」というのは,アカウンタビリティを満たしている一例といえましょう。

#引用ここまで#
「意思決定について」ラウール氏より。
http://trpg-labo.com/rpg/decision.pdf


 こうした記述を意図的に排斥しています。プレイヤーキャラクターの性格に沿って考えるアルゴリズムについて、根拠になっている出典元は、例まで挙げて肯定しているのです。
 さらに、出典元の結びはこうなっています。



#引用開始#

おわりに
以上で,意志決定についての説明を終わります。最初に申しましたように,意志決定はRPG において,またゲームにおいて中心的な楽しみとなるものです。それがきちんと理解できているかどうかは,特にマスターにとって非常に大切な事です。
本記事ではやや否定的に書かれているパズルやストーリィ性といった意志決定以外の要素ですが,たとえば「パズル」の要素だってRPG から完全に切り離せるわけではありませんし,無理にそうしようという必要もありません。パズル自体,非常に面白い娯楽です。
ただ,そうした「意志決定以外の要素」でゲームの全てが埋められてしまっていないかは注意する必要があります。面白いパズル,面白いストーリィを作り出すより,面白いゲーム(意志決定を迫る場面)を作る方がずっと簡単だと私は思います。
実際,マスターをやっていると,プレイヤーたちというのは結構些細なところであっちの方が良いんじゃないか,こっちの方が良いんじゃないかと悩んでくれます。たとえば,ロープ10m は役に立つかそれともお荷物になるか,とか。持っていかないと道中困ることがきっと起きるだろうというプレイヤーもいれば,持っていけば重くてすぐ疲れるし逃げる際に不利だとか言い出す奴もいます。どっちでもいいから早く決めてシナリオを進めよう,と考えるのはたいていマスターだけだったりします。
それでは,皆さん,楽しいRPG ライフを。

#引用ここまで#
「意思決定について」ラウール氏より。
http://trpg-labo.com/rpg/decision.pdf


 「意志決定以外の要素」でゲームの全てが埋められてしまっていないか、とあります。ここで述べられているゲームは、文脈からTRPGのセッションでしょう。

 そして、TRPGのセッションの中に、面白いゲーム(意志決定を迫る場面)を作るようにする、としています。ここで述べられているゲームは、面白い意志決定を迫るシチュエーションでしょう。

 面白い意志決定を迫るシチュエーションを大切にしなければならないという主張のため、単にラウール氏がそのテキスト上で通用させるために、構成し定義した二つの意味の「ゲーム」と「葛藤」という言葉を使った。
 これを借りて馬場氏がまとめてみせると曲解して、「葛藤の両刀論法」に陥り、面白い意志決定を迫るシチュエーションのことである「ゲーム」で、頑なにTRPGのロールプレイ・役割演技によらず、さらには、その非難に及んだというあたりでしょうか。好意的に解釈して、です。

 氷川霧霞氏の「TRPGシナリオ作成の道具箱」第10章シナリオ作成のTipsには、「【シーン】や《課題》を選ばせる」の項目で、「通常は、シナリオはゲームマスタが用意してプレイヤはそれをこなす、というスタイルですが、「何をすべきか」をプレイヤに考えさせることで、ゲームは格段に面白くなります」とあります。

 やはり、そういった方針とプレイヤーキャラクターの性格描写も含めて考えると、馬場氏の強引な主張は曲解か読解力の足りなさかによって誤りで、誤りではなくてもどうやらプレイヤーがキャラクターを使って楽しむTRPGについて考えてはいないようです。

 結局、とりあげた馬場氏には残念ながら理解されなかったとして、氷川氏の独自の別の解釈として考えるべきだと思います。

 ラウール氏=氷川氏? ですかね。このことに最後のほうで気がついて、釈迦に説法ドジをしていました。くどくど続けるわけには行かないので、切り上げます。失礼していたらすみません。
 確認したところ、やっぱり正解でした。
 一応、このエントリは氷川氏のいう葛藤の理解の注釈として残しておきます。


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