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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

[TRPG]コスティキャン翻訳 It's Not a Story.

SIMONさん向けエントリ? かなり返事として遅れてしまいました。ごめんなさい。

[TRPG]物語論 フィクションとノンフィクション確認
 

コスティキャンの「It's Not a Story(馬場秀和氏題-「ゲーム」は、ストーリーではない)」の抄訳です。僕は英語には向いていないので、誤訳と指摘されると助かります。
 

 

  It's Not a Story.

Again and again, we hear about story. Interactive literature. Creating a story through roleplay. The idea that games have something to do with stories has such a hold on designers' imagination that it probably can't be expunged. It deserves at least to be challenged.

それは一個のストーリーではありません

 何度も繰り返し、私たちはストーリーについて何かと耳にします。インタラクティブ文学とか。
 ロールプレイを通じて一個の物語を作成することとか。
 その発想とは、ゲームには、おそらく削れないデザイナーのイマジネーションに維持されているストーリーと少し関係があるでしょう。それは少なくとも挑戦するに値するものです。


Stories are inherently linear. However much characters may agonize over the decisions they make, they make them the same way every time we reread the story, and the outcome is always the same. Indeed, this is a strength; the author chose precisely those characters, those events, those decisions, and that outcome, because it made for the strongest story. If the characters did something else, the story wouldn't be as interesting.

 ストーリーは本質的に線形です。
 作中人物がいかに彼らの決断上で苦悶しても、私達がその物語を再読しても彼ら作中人物は同じ道をいつもとるし、そしてその成果はいつも同じです。
 これは、その著作者が的確に選択したそれら作中人物、イベント、決断、落ちは、ひとつの強みとなります。
 なぜなら、うってつけにより強く物語られたものだからです。もし、作中人物が他に何かしたなら、その物語は同じように興味を引くことはないでしょう。


Games are inherently non-linear. They depend on decision making. Decisions have to pose real, plausible alternatives, or they aren't real decisions. It must be entirely reasonable for a player to make a decision one way in one game, and a different way in the next. To the degree that you make a game more like a story -- more linear, fewer real options -- you make it less like a game.

 ゲームとは、本質的に非線形です。
 それらは、決断の成果に依存します。
 まことしやかな選択肢、またはそれらの現実の決断という決断群は、見せかけの現実にはなりません。
 線形であるゲームは、プレイヤーが一つのゲームでひとつの道をとる決断をこなすために、そして次に別の一つの道をとるとしても、全く合理的になるはずです。
 あなた方が作るそのようなゲームは、より、一つのストーリーに似た ――より線形で、いくらか物足りない少ない現実的な選択をもつ―― そんな風に貧相になっていくゲームのようなものは、その程度です。

 

(馬場秀和氏の翻訳引用開始)
ゲームには必ず意志決定が関わるが、このとき与えられる選択肢は、どれも本当にもっともらしく思えるものでなければならない。でなければ、すなわち「正解」が1つしかなく、それを選ぶ以外に道がないことが明らかなら、それは本当の意味での意志決定とは呼べない。
 プレーヤーがゲームのある局面で特定の選択肢Aを選び、次にそのゲームをプレイしたときに選択肢Bを選んだとして、どちらも全く合理的な判断に基づいている、というのがゲームらしさなのだ。
 であるからして、ゲームをストーリーに近づければ近づけるほど、それはより直線的になってゆき、本当の意味での意志決定が少なくなってゆき、つまるところゲームとは別物になってゆくのである。
(引用ここまで)



Consider: you buy a book, or see a movie, because it has a great story. But how would you react if your gamemaster were to tell you, "I don't want you players to do that, because it will ruin the story"? He may well be right, but that's beside the point. Gaming is NOT about telling stories.

 考えてみましょう:あなたは一冊の本を買う。または、一本の映画を見る。
 なぜなら、それらには一つの大いなる物語があるからです。
 しかし、再演でもいいでしょうか、たとえばもし、あなたのゲームマスターこう言ったとか。
「私はそれはプレイヤーに推奨しない。なぜなら、その物語を台無しにする」と?
 彼は正しいでしょう。しかし、それらは的外れです。
 ゲーミングは物語を語ることとは決して違うのです。


That said, games often, and fruitfully, borrow elements of fiction. Roleplaying games depend on characters; computer adventures and LARPs are often drive by plots. The notion of increasing narrative tension is a useful one for any game that comes to a definite conclusion. But to try to hew too closely to a storyline is to limit players' freedom of action and their ability to make meaningful decisions.

 ゲームは時々、そして実り豊かに、フィクションの要素を借ります。
 ロールプレイングゲームは、キャラクターに依存します。
 コンピューターゲーム、そしてLARPsは、しばしばプロットにより駆動されています。

 語り口の張りの増加性という観念は、どんなゲームでも確定的な結論をもたらすという有益さがあります。
 しかし、どんなに挑戦しようと、切り開こうとも、閉ざされた一本の物語の筋にはプレイヤーの演技の自由と有意義な多くの決断を限定するはずです。


The hypertext fiction movement is interesting, here. Hypertext is inherently non-linear, so that the traditional narrative is wholly inappropriate to hypertext work. Writers of hypertext fiction are trying to explore the nature of human existence, as does the traditional story, but in a way that permits multiple viewpoints, temporal leaps, and reader construction of the experience. Something -- more than hypertext writers know -- is shared with game design here, and something with traditional narrative; but if hypertext fiction ever becomes artistically successful (nothing I've read is), it will be through the creation of a new narrative form, something that we will be hard-pressed to call "story."
Stories are linear. Games are not.

 ハイパーテキストフィクションのムーブメントは、ここでは興味深いものです。
 ハイパーテキストは本質的に非線形で、伝統的な物語説話文学は、ハイパーテキスト作品には全く不適当です。
 ハイパーテキストフィクションのライターたちは、ある意味では複数の視点、現世からの飛躍、そして構築された模索談の読み手となって、伝統的な物語と同じように、人間存在の本質を探求しようとしています。

 何か――ハイパーテキストの作成者が知っているより以上に、その何かとともにここでゲームデザインや伝統的な物語説話文学がシェアされました。
 しかし、もしハイパーテキストフィクションがいつか芸術的に成功に達して、(私はそのような作品を読んだことはない)、新しい物語説話文学の様式の創始を通してでしょうし、それを私たちは「物語」として呼ぶのは苦しいでしょう。
 物語は線形です。ゲームはそうではありません。


コスティキャンのゲーム論

 馬場秀和氏の翻訳にはコスティキャンの原文にはない用語や単数・複数形の無視、独自論の挿入が多すぎます。

 

(引用開始)
プレーヤーがゲームのある局面で特定の選択肢Aを選び、次にそのゲームをプレイしたときに選択肢Bを選んだとして、どちらも全く合理的な判断に基づいている、というのがゲームらしさなのだ。
(引用ここまで)
(引用開始)
 であるからして、ゲームをストーリーに近づければ近づけるほど、それはより直線的になってゆき、本当の意味での意志決定が少なくなってゆき、つまるところゲームとは別物になってゆくのである。それに、はっきりとした決着がつくようなゲームの場合、やはり小説や映画のようなドラマチックな盛り上がりを狙いたいというのは誰しも思うことだ。
 だからといって、美しいストーリーに沿って展開するようゲームに手をいれ過ぎたりすると、プレーヤーの行動の自由や、ちゃんとした意志決定を行う能力をひどく制限してしまうことになる。
(引用ここまで)


  上の文章は加筆されているところです。
  馬場秀和氏の独自論です。

 

SIMONさんから頂いたコメントです。

 古い記事にコメントをさしはさみ失礼します。

> TVシリーズの「24(TWENTY FOUR)」などは、駆け引き中心のドラマです。ゲーム的で、直線的ではない。
> しかし、この極めてゲーム的なドラマは、ちょうど、登場判定に失敗したか、独自行動をとられているTRPGのプレイヤーの立場に近いでしょう。

ドラマ24が、いかに駆け引き中心で、ゲーム的なドラマか残念ながら自分は存じませんが、TVで放映された(過去形)ドラマである以上、(まさにコスティキャンの語るとおり)監督なり演出家なり脚本家なりの懇親の計算で、登場人物たちに「登場判定に失敗」させるか「独自行動をとら」せているかしているのでしょう。それこそが、「(コスティキャンの語る)直線的」ということです。
「どのタイミングでどの登場人物が何をするシーンを入れる」が、綿密に計算され、組み立てられている=直線的であって、ストーリーの入り組み具合、人間関係の交錯がどれほど複雑であろうと、既に完成したドラマはゲームではありません。

> ストーリーが直線的だから、感動させられるというコスティキャンの説明がどうかしている。

「ストーリーが直線的だから」ではなく、「ストーリーが直線的であるが故に」ですよね。ここは。原文は知りませんが、訳によってニュアンスが変わります。「ストーリーが直線的」なら感動させられる、ではなく、感動させるために「ストーリーが直線的」に仕上げられているのですから。
逆に、その計算がなければ、あるいは狂っていれば、「ストーリーが直線的」でも感動は生みませんし、いくつかの意思決定の結果、生み出されたストーリーが感動を生むことも(大いに})ありえます。
ただ、ここでは、感動の為にストーリーを直線に固定し、PLの意思決定を蔑ろにするな。というだけの話ではないのでしょうか。

(以下、コスティキャンのゲーム論から引用)
~ところが、RPGをプレイしているとき、ゲームマスターから「そんな行動は駄目だよ。素晴らしいストーリーが台無しになるじゃないか」と言われたらどう思うだろうか?
 この手のゲームマスターの発言自体は間違ってない。が、問題はそういうことじゃないのだ。ゲームは、ストーリーを語ることではない。断固として違う。
(以上引用終わり)

これが、ゲームとストーリーに関してコスティキャンの語る主題です。少なくとも、「コスティキャンのゲーム論」を普通に読んだときに読み取れる(『「ゲーム」は、ストーリーではない』段落における)主題です。コスティキャンが数学者だとか、背景にゲーム論があるとかの裏設定はどうでもいいです。
ここでのBETAさんの解釈は、正直悪意的だと断ぜずにはいられません。

ここで誤解を生みたくないのは、自分は、「ストーリーが直線的」ではないからといって、「感動させる力を」持たないとは思っていません。あくまで、有利不利を論じているだけだということです。
(コスティキャンも結果としてついてくる感動が不要とは考えていないと思います。まぁ、これは推測ですらない空想だから無視してもらっても構いません)
コスティキャンがゲームに感動を求めていないのは明らかです。が、彼は、「(自分の求めない)ゲームでの感動を求めることは間違っている」とは語っていません。「感動を求めるために(彼の求める)意思決定を蔑ろにするのは間違っている」と語っているだけで、その点には(ゲームに感動を求める)私も納得するところです。
故に、コスティキャンの弁を曲解した(あるいは曲解を誘発しうる)この記事に、いまさらながら一言、コメントを差し挟んだ次第です。


> 1on1でプレイしているならともかく、多人数でプレイしている経験を無視している。

 ここを僕に悪意があるととられたようですが、僕は、こういった混乱を生じさせる馬場氏の翻訳に、悪意を感じます。

 多人数で分散活動している時、ゲームは他のプレイヤーの物語になりますから、線形(直線的)です。他のプレイヤーの物語には意志決定は働きかけられません。
 つまり、TRPGにおいて自分のキャラクター(PC)が関われないストーリーは全て、NPCの抱えているストーリーも含めて、線形(直線的)です。


 コスティキャンは、

ロールプレイングゲームは、キャラクターに依存します。

 と書いていて、決断の成果も加わるから、非線形だという話をしています。

 ストーリーが直線的だから、感動させられるというコスティキャンの説明がどうかしている。

 この馬場秀和氏の翻訳では、「あるいは、こう言うことも出来る。ストーリーはまさに直線的であるが故に、人を感動させる力を持つ。」というコスティキャンの記述にはない持論が入り込んでいるのです。混乱のもとがはっきりしました。

 ここでは僕の翻訳は、


作中人物がいかに彼らの決断上で苦悶しても、私達がその物語を再読しても彼ら作中人物は同じ道をいつもとるし、そしてその成果はいつも同じです。これは、その著作者が的確に選択したそれら作中人物、イベント、決断、落ちは、ひとつの強みとなります。なぜなら、うってつけにより強く物語られたものだからです。


となります。馬場秀和氏の持論の当該文章に取れる原文はどこにもありません。


 コスティキャンは、「物語は線形です。ゲームはそうではありません。」というのが当該文章で言いたいことで、意思決定云々「「感動を求めるために(彼の求める)意思決定を蔑ろにするのは間違っている」と語っているだけ」は、馬場秀和氏が曲解させようと混入した持論展開に惑わされているのです。

 そうでなければ、ハイパーテキストについて言及している意味が、国語能力、読解力からして、理解できないでしょう。冒頭にある、少なくとも挑戦するに値するものです。がつながらないでしょう。
 翻訳しながら持論展開を混入する、悪質な翻訳が混乱の原因です。

 こんな馬場秀和氏の翻訳を「わかりやすい」とか「広まった」と、強弁する人は情報を鵜呑みにして疑わない人でしょう。馬場氏がTRPG雑誌末期に、マンチキンという蔑視用語を広めて、ユーザー同士の対立を深めて市場規模を縮小し、雑誌を潰した(今残っている雑誌はありません。ムックで書籍扱いです)アジテーターだという歴史を知らないようです。

 あれら素晴らしい雑誌の末期、蔑視流行語を作ったとか、ニフティ・サーブでの権力闘争とか、くだらない業績を上げたのは許せない。当方のアジテート記事は随分修正しました。
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 権力闘争にしか興味が無い人間というのは、ものづくりの邪魔で、寝言ばかり繰り返していて物笑いや怨嗟のタネにされる。他人を貶めることでしか自分を承認してもらえないセコさは永久にみじめです。自己研鑚のない承認は、まず誰にも与えられないでしょう。それが、わからないものは、本当にわからないのでしょう。
 TRPGのファンなら、どういう断罪を下すかは明白です。迎合する神経がわからないです。
 

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