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GameDesign 西部劇TRPG開発日誌

[SYS]戦闘システム論からTRPGの物語論。

 昔のことに遡りますが、ファイティング・ファンタジーD&Dの戦闘システムを駆動させたとき、


 「これはスゴロクだ」

 と、直観的に感じました。
 いや、スゴロクを否定しているわけではないのですが、トンネルズ&トロールズとは、明らかに違う性質の「スゴロク感」を感じたのです。

 今ゲームをデザインしていますが、あの時感じたのは、「可変トーナメント形式」と呼べるような、手番処理の違和感でした。トンネルズ&トロールズはリーグ戦のような感じです。

 例えると、野球のスコアボードに、先攻・後攻の得点(オモテ・ウラ)が記入されて、そのまま別の試合に移るような、トーナメント。
 甲子園の野球を、一回のオモテ又はウラごとに、対戦チームごとすりかえて行くような形式。得点されたのが限界以上だと、敗退。さらに、一回ごとにシード権があって、生き残りは晴れて甲子園球場へ、の、ような感触。

 (トンネルズ&トロールズでは、オモテ・ウラの一回を処理して戦い続けるのですが、それは単純にGMの負担軽減のためか、戦闘のみに頼らないデザイン方針からだったと思います。こちらの作品には、「トロールの言葉」という、臨機応変なルール運用と改造について記載されていました。)

 この概念の突破は、恐らくできないのかもしれない。
 まず、言語が直線的に文法に沿って語られることがあります。その時点でこの限界はあるかもしれない。

 思うに、このTRPGの限界からして、サバイバルゲームのような、本当に非直線的(同時手番)なゲームという範疇とは、異なると思います。そしてそのようなゲームは、目的の達成感を強烈に持つのだとも。サバイバルゲームの雑誌の記事と取材されるゲームプレイ自体は、とても連続整合のある物語性をもつとはいえません。もしこのようなものに、物語性を求めるとしたら、ヤラセか、記録メディアを通した映画撮影に近いものに、リアルタイムではできないエディットを施したものになります。

 TRPGの展開は、選択肢と呼びうるかもしれない、一軸基底の『解釈とその超出』にあって、追跡するとすれば直線的(逐次手番)で、物語的です。エディットは常に介在しています。それでも展開の連鎖、プロセスという並び、シークエンスの完成の達成感を持ちます。

 つまり、物語的に面白いTRPGがもつのは、ポーカーや麻雀の「役」揃えのような、組み合わせ的な達成感とすると、物語的につまらない(物語を無視したような)TRPGがもつのは、順列的でいて組み合わせに不都合な「ブタ」のようなものとはいえませんか。
 この特性は、なぜ連続的整合を目指そうとすることが楽しいかという理由になります。

 こうして俯瞰すると、ゲーム性と物語性は全く相反する概念にはなりえないし、むしろ、親和性が高いともいえると思います。


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