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僕はこのような図で、ノンフィクションとフィクションを捉えられるかと思います。
図1
図2
TRPGはフィクションですから、図2に相当します。
火事が発生する確率は、ポアソン分布で得られますが、そこから考えると、疑似体験を謳うのはどこかおかしい。
さらにストーリー(物語)構築の現場のまさに最中において、TRPGは対話と解釈と換言出来ます。
[TRPG]物語という言葉の整理。
さらに以前の考察、[TRPG]さらば、馬場理論よ。に立ち戻ると、疑似体験というより、物語構築体験に近い。物語らしさ(=物語性)を再現しているのが、TRPGのルールシステムと言えるのではないかと思います。ゲームが終了したあとに思い返すストーリーのお話ではありません。なぜなら、シナリオに群像劇的なテーマを持ってきて、少なくとも僕の周辺では、よく遊ばれているからです。
さらに、その意識的な物語らしさが、じつは、キャラクターの運用上、図1のノンフィクションとも言える。TRPGは、フィクションを用いて、あくまで、ゲームシステム上のノンフィクション形式で物語を紡ぎ出している。
[TRPG]さらば、コスティキャンよ。においては、ゲームの共通項を導き出したことを認めるけれども、それはTRPGのシステム毎の特徴を説明する要素とはいえない、つまりゲームデザイン(=ルールシステムデザイン)とは無関係と結論しました。ゲームのストーリーの直線はゲーム上の意味があるのです。
TVシリーズの「24(TWENTY FOUR)」などは、駆け引き中心のドラマです。ゲーム的で、直線的ではない。
しかし、この極めてゲーム的なドラマは、ちょうど、登場判定に失敗したか、独自行動をとられているTRPGのプレイヤーの立場に近いでしょう。
ストーリーが直線的だから、感動させられるというコスティキャンの説明がどうかしている。
1on1でプレイしているならともかく、多人数でプレイしている経験を無視している。
選択肢、障害、資源などとなるものが存在したとして、自分のPCが関われない中、別行動のお地蔵さんとしても楽しんでいることを忘れている。
別行動のお地蔵さん状態のときはストーリーは直線的でお地蔵さんは感動するが、お地蔵さんはいざゲームを行うと感動できないのか。感動させられないのか。
コスティキャンは自ら自分のプレイング能力を「言葉通り当たり前のように受容的な問題解決」であるとしているのか。ならば、横槍を散々出す迷惑なプレイヤーか。
TRPGに参加するGMとPLは、脚本を自由にできる(ゲーム体験)がゆえに再現やミミクリではなく「物語らしさ」を構成する司会・参加責任があるのだと思います。
TRPG上の約束事。これは何度も思い返さなければならない。
TRPGのTRPGによる、この約束事によって、人が人とコミュニケーションをとり、互いを尊重しあう関係に身をおくのです。
その遊隙の関係の中でいわばシーソー遊びのように、遊動する関係を切り結ぶのです。ですから、他のPLを楽しませるのは、GMに限ったことではないのです。
そして、その楽しみは人間関係を取り計らった誰々によるゲームであるからこそ、楽しい。
これはTCGの対戦相手に子供が強い子供を連れて来て強い大人と戦うのを見るようなものです。